四季、折々、戀

くるっ🐤ぽ

文字の大きさ
25 / 25

しおりを挟む
 自分と父は、その翌日帰ることになっていた。自分は父と共に、宿で最後の朝風呂に入った。自分は父に、父さん、ここの下女は美しいですか、と先日父に訊いたことと同じことを父に訊いた。父は、そのことについては無言だった。代わりに佐野という人、あの美しい母娘との関係について、簡単に説明した。
 佐野とあの美しい母は――その時分、あの美しい母は当然まだ母ではなく、一人の娘だったわけだが――幼馴染おさななじみ許婚いいなずけだったのである。しかし、佐野の家が没落し、何とか立て直して許婚を迎えに行くと、彼女は既に他人ひとの妻となり、母となっていた。
 自分は父の濡れた裸体の陰影や、肩の辺りの肉の隆起を、妙に細かく記憶している。父はムクムクと泡を立てて、スゥスゥと気持ち良さそうにひげっていた。その父の細められた目の、どこかうつろな光り具合までも、自分は記憶している。自分も成長して、父のように髭が伸びたなら、このような顔をして髭を剃るのだろうかと、思われた。
 自分たちは昼食の前に、宿を出た。あの老人に再び会うことも、あの美しい母娘が見送りに来ることもなかった。冷たい空気が、まだ湿り気を帯びた頭を、スゥッと撫でていくようだった。自分は前を歩く父に、お父さん、この山で心中し損なった男女がいるというのは本当ですか、と問うた。父は前を向いたまま、お前はどう思う、と自分に問い返した。芝居にあるくらいだから、心中を考える男女がいてもおかしくないでしょう、ただ、どこまで本気だったか、ということでしょうか、と自分は言った。父は、そうだろう、と言って自分を振り返った。悲しそうな顔をした父は自分が追いつくのを待って、再び、そうだろう、と口にした。父が手を差し出してくるのを、自分はためらいながら握った。包み込まれると思うほど、大きな父の掌だった。自分は心細い声で、お父さん、と言った。父は片頬を動かして、寂しげな表情を見せた。笑ったつもりらしかった。
 帰りの列車の中で、自分と父は向き合って座った。父は弁当を食いながら、お前、先ほど言っていた心中し損なった男女というのは、誰から聞いたのかね、と言った。自分は、あの娘が言っていたんです、と正直に答えた。父は一言、そうか、と答えた。自分はこのとき、ふと、その心中し損なった男女の片割れというのは、あの娘の父親である気がした。生き残った方なのか、死んだ方なのかは分からないが、どうにもそのような気がした。あの娘は、そのどちらかに――幽霊が死者を祟るのとは違うが――今も苦しめられている気がした。それは、あの美しい母も同じである気がした。しかし、苦しみ方は娘とは違う気がした。あの美しい母娘は、その点で永遠に分かり合えない気がした。
 お父さん、あの母娘は気の毒ですね、と自分は父に言った。何故、と父は問うた。自分は、答えることが出来なかった。父はあの母娘を気の毒とは感じていないのだ。そう思って、悲しいとも、寂しいとも違う、奇妙な感情を抱いた。えて言葉にするなら、遠い幸福を感じた。自分も父も、その点で分かり合えないのだと思った。ただ、いつかは分かり合えることを信じたかった。
 家に帰ると、母が待っていた。自分はそのことに、何故だか無性むしょうに安堵した。父の前でなければ、その場で母の膝の上にすがりつきたいほどの安堵だった。母は自分に、おかえり、と言った。その言葉には、母の様々な感情が込められている気がした。自分は、ただいま、と母に言った。
 その後、部屋で身支度みじたくを整えていると、ふところから、小さなものがコロリと落ちた。それは、昨日の夜、娘が回していた独楽だった。間違えて部屋に持ち帰ってしまったのを、後で娘に返そうと思っていたのを忘れて、そのまま持って帰ってきてしまったようだった。自分は独楽をつまんで拾い上げた。いつかこの独楽が、自分とあの美しい母娘を、再び引き合わせはしないかと考えた。
 自分は部屋の中で、シュッと独楽を回した。独楽はクルクルと、美しい円を描いて回った。自分はそれを見ているうち、自分の頭の中もクルクルと回ってくるような気がしてきた。そして、独楽が止まったとき、今までの自分は死んで、新しい自分が生まれているような気がした。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

処理中です...