四季、折々、戀

くるっ🐤ぽ

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 自分と父は、その翌日帰ることになっていた。自分は父と共に、宿で最後の朝風呂に入った。自分は父に、父さん、ここの下女は美しいですか、と先日父に訊いたことと同じことを父に訊いた。父は、そのことについては無言だった。代わりに佐野という人、あの美しい母娘との関係について、簡単に説明した。
 佐野とあの美しい母は――その時分、あの美しい母は当然まだ母ではなく、一人の娘だったわけだが――幼馴染おさななじみ許婚いいなずけだったのである。しかし、佐野の家が没落し、何とか立て直して許婚を迎えに行くと、彼女は既に他人ひとの妻となり、母となっていた。
 自分は父の濡れた裸体の陰影や、肩の辺りの肉の隆起を、妙に細かく記憶している。父はムクムクと泡を立てて、スゥスゥと気持ち良さそうにひげっていた。その父の細められた目の、どこかうつろな光り具合までも、自分は記憶している。自分も成長して、父のように髭が伸びたなら、このような顔をして髭を剃るのだろうかと、思われた。
 自分たちは昼食の前に、宿を出た。あの老人に再び会うことも、あの美しい母娘が見送りに来ることもなかった。冷たい空気が、まだ湿り気を帯びた頭を、スゥッと撫でていくようだった。自分は前を歩く父に、お父さん、この山で心中し損なった男女がいるというのは本当ですか、と問うた。父は前を向いたまま、お前はどう思う、と自分に問い返した。芝居にあるくらいだから、心中を考える男女がいてもおかしくないでしょう、ただ、どこまで本気だったか、ということでしょうか、と自分は言った。父は、そうだろう、と言って自分を振り返った。悲しそうな顔をした父は自分が追いつくのを待って、再び、そうだろう、と口にした。父が手を差し出してくるのを、自分はためらいながら握った。包み込まれると思うほど、大きな父の掌だった。自分は心細い声で、お父さん、と言った。父は片頬を動かして、寂しげな表情を見せた。笑ったつもりらしかった。
 帰りの列車の中で、自分と父は向き合って座った。父は弁当を食いながら、お前、先ほど言っていた心中し損なった男女というのは、誰から聞いたのかね、と言った。自分は、あの娘が言っていたんです、と正直に答えた。父は一言、そうか、と答えた。自分はこのとき、ふと、その心中し損なった男女の片割れというのは、あの娘の父親である気がした。生き残った方なのか、死んだ方なのかは分からないが、どうにもそのような気がした。あの娘は、そのどちらかに――幽霊が死者を祟るのとは違うが――今も苦しめられている気がした。それは、あの美しい母も同じである気がした。しかし、苦しみ方は娘とは違う気がした。あの美しい母娘は、その点で永遠に分かり合えない気がした。
 お父さん、あの母娘は気の毒ですね、と自分は父に言った。何故、と父は問うた。自分は、答えることが出来なかった。父はあの母娘を気の毒とは感じていないのだ。そう思って、悲しいとも、寂しいとも違う、奇妙な感情を抱いた。えて言葉にするなら、遠い幸福を感じた。自分も父も、その点で分かり合えないのだと思った。ただ、いつかは分かり合えることを信じたかった。
 家に帰ると、母が待っていた。自分はそのことに、何故だか無性むしょうに安堵した。父の前でなければ、その場で母の膝の上にすがりつきたいほどの安堵だった。母は自分に、おかえり、と言った。その言葉には、母の様々な感情が込められている気がした。自分は、ただいま、と母に言った。
 その後、部屋で身支度みじたくを整えていると、ふところから、小さなものがコロリと落ちた。それは、昨日の夜、娘が回していた独楽だった。間違えて部屋に持ち帰ってしまったのを、後で娘に返そうと思っていたのを忘れて、そのまま持って帰ってきてしまったようだった。自分は独楽をつまんで拾い上げた。いつかこの独楽が、自分とあの美しい母娘を、再び引き合わせはしないかと考えた。
 自分は部屋の中で、シュッと独楽を回した。独楽はクルクルと、美しい円を描いて回った。自分はそれを見ているうち、自分の頭の中もクルクルと回ってくるような気がしてきた。そして、独楽が止まったとき、今までの自分は死んで、新しい自分が生まれているような気がした。
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