黒髪

くるっ🐤ぽ

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 母が病になったので、親類の家に引き取られることになった。
 その家は、遠い場所にあった。
 列車で二時間揺られて、更にそこからバスに乗るというのである。
 音彦という使用人が、重い荷物を持って、駅まで付き添ってくれた。音彦は、肌にまとわりつくような柔らかな和服を着ていた。自分は、これから世話になる身分なので、婆様がご挨拶代わりに良い洋服を拵えてくれたのを着ていた。襟元までキッチリと留められた釦が、自分には窮屈だった。襟の隙間から指を差し込んで、コッソリ、緩めたかった。和服の襟元を広げながら、暑苦しそうな胸板をチラチラさせ、パタパタと風を送り込みながら、坊ちゃん、暑いことはありませんか、と何度も問うてくる音彦の声が、煩わしく感じられた。果物売りの少女の声を聞くと、音彦は立ち上がり、綺麗な梨の実を三つも買ってきて、さぁ、坊ちゃん、とニコニコしているのである。果物売りの少女の、どこか遠くから反響しながら響くような声は、悲しかった。自分に、梨など、食べたいという考えを、起こさせなかった。しかし音彦は、梨を自分の前に差し出したまま、やはり、ニコニコしているのである。自分は手を伸ばして、梨を受け取ろうとした。音彦は、さぁさぁと言いながら、その手の中に、三つの梨を乗せるつもりだったらしい。しかし、三つの梨を胸に懐こうとしたとき、一つの梨が、転がった。音彦は、その梨を拾い上げようとして、誤って、蹴った。その梨が転がった先に、みすぼらしい身なりをした子どもがいた。子どもは、サッと梨に飛びつくようにすると、それを持って、どこかへ駆け出して行った。それを、音彦も自分も、黙って見ていた。音彦は、恨めしいとも、思わなかっただろう。あの子が警察に見つかりませんように、と、神様に祈るような気持ちが、自分の胸の内を、スゥッと通り過ぎて行って、冷たかった。
 列車に乗って、音彦とは別れた。列車に乗るとき、音彦は、ザラついた掌で自分の手をギュッと握って、坊ちゃん、と、呟いた。音彦の喉から出たとは思えないほど、深い声で呟いた。
 音彦とは、そうして別れたのである。
 列車の中で、自分は小さな子どもを連れた母親と相席になった。五、六歳の、髪の綺麗な娘だった。転がった梨を拾って走り去った、男か女かも分からないような子どもとは、比べようもない。梨を食べようとすると、その娘がじっとこちらを見つめてくるのである。自分が、二つの梨のうちの一つを、その娘の手に握らせると、娘は、大人しい、無心な目で梨を見つめているのである。小さな掌で、梨を撫でてみたりもした。そして、じっと、自分を睨みつけたのである。その目の色は、光るように、強かった。娘は梨を、少し、舐めてみたようだが、歯を立てようとはしなかった。
「食べ方が分からないのです」
 小さな娘の代わりに、自分に梨の礼を伝えてくれた母親はそう言った。触れれば解けるかのような微笑を、薄い唇に浮かべた。美しい母親だった。顔立ちよりも、纏う着物や、唇の表情、空気、というものが、美しかった。梨の食べ方も分からないほど小さな娘が、己に向かって差し出してくる梨の形を確かめるように、母親は娘の手の中の梨を撫でた。
「綺麗な梨ですね」
 母親はそう言ったが、娘に語りかけたのか、自分に言ったのか、自分には判然としなかった。自分は何とも言わず、もう一つの梨に歯を立てた。溢れる蜜を、啜った。
 その母親と娘とは、自分が降りる一つ前の駅で別れた。別れ際、母親は自分に向かってもう一度、梨の礼を言ってくれた。小さな娘は、宝物のように梨を胸に抱きながら、自分に向かって手を振ることもしなかった。お互いに行き先も目的も分からず、たまたますれ違っただけの存在に過ぎなかった。
 それなのに、涙が目を潤ませた。何故だか、自分でも不思議だった。
 バスに乗って、更に長い時間揺られた。
 昔の夢を見た気がする。
 バスから降りると、伝えられていた通りの風体の車夫が、居眠りをしているような姿勢で待っていたが、ふっと顔を上げると、顔を掌でゴシゴシと擦りながら、坊ちゃん、と自分に向かって言った。その仕草も声も、自分に、音彦を思い出させたのである。車夫は、自分の荷物を持って、俥に乗せてくれた。そして、自分もまた、そのような荷物の一つであるように、自分の脇の下に手を差し込んで、己が引く俥に座らせた。それから車夫は、ガラガラと、俥を引き出した。車夫の太い首の後ろから、酸い汗のにおいがした。
 自分はこうして、この家に来たのである。
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