名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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供物の章

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 幾年かぶりに男の元を訪ねてみたら、妙なものがいた。
「どうやら、供物のようです」
 男は言った。青白い、というよりは青く浮かび上がるような肌に、濃い黒髪と黒い目が燃えるようだった。整っているが、全体を見ようとすると特徴の掴めない顔。まだ二十歳前の青年のようにも、三十代の働き盛りの男のようにも見える。男の働きぶりについては、よく知らない。
 百を超えてから、男は年齢を数えるのをやめたという。
 男に名前はない。以前はあったかもしれないが、忘れたという。百年経っても姿の変わらぬ男は、水に沈めても、土に埋めても、火で焼いても、刀で貫いても死ななかった。鬼と恐れられることもあれば、神と畏れられることもあった。
 しかし、この男は鬼のように人を食らうこともなければ、神のように人を救うこともなかった。未来を見通す目もなければ、宙に浮かぶ足もない。何もないところから水や火を出すこともなかった。水に沈められればあがくし、土に埋められれば苦しみに呻いた。火で焼かれれば熱いと言ったし、刀で貫かれれば痛いと言った。
 どんなに痛めつけられても、暫くすると、男は痛めつけられる前の姿に戻って呼吸をしていた。だから、男は鬼や神のように恐れられ、或いは、畏れられた。
 しかし、男は生きているだけなのである。変わらぬ姿で。
 水の底で揺れる水草のように。
 動くことを知らぬ山のように。
 無論、男には人間を恐れさせるつもりもなければ、畏れさせるつもりもなかったのだろう。優しい、のではなく、呑気なのだった。
 稀に、供物を捧げられることがあると、呑気な男は困ったようだ。
「食べ物を頂くのはありがたいのですが、こんなに食べきれません」
 そんなことを、言った。
 男に供物として捧げられるのは、大抵は、米や魚、野菜などの食べ物だった。明らかに高級と見られる品々を、捧げられたこともある。金銀財宝、と呼ばれるものもあった。そんなものを、鬼や神と決めつけたものに押し付けるよりは、自分たちの生活の糧にすれば良いのに。捧げる為の供物をかき集めてくるのだって、大変だろう。
 この辺りに越してきてから、暫くは供物がなかったというのに、随分と久しぶりに、仰々しい白装束を着た人間たちが、村人を引き連れてやってきて、何かブツブツと、長い呪文を唱えていたと思ったら、大きな木箱を置いて、来たときと同じように重々しい足取りで、鈴を鳴らしながら去って行った。長々しい呪文にはうんざりさせられたが、シャン、シャン、という鈴の音は、少し良かった。良かったと思ったから、箱を開けてみる気になった。などと、男は言ったが、そのように仰々しく捧げられたものではなくても、供物というものを捧げられれば、男は、一応は目を通すことに決めているようだ。そうして、食べきれないと思ったら配ったり、扱いに困ったら持て余したりしている。
 釘を打ち付けられた箱の蓋を開けてみると、真っ白い花嫁装束を着た娘が、手足を硬く縛られて、詰め込まれていた。思わず覗き込むようにすると、睫毛を震わせながら目蓋を開けて、男を見返した。思いのほか、強い眼差しだった。供物になる娘というのは、皆、このような目をするものかと思われた。
 男は、扱いに困る供物を持て余した。さすがに長生きの男も、人間の娘を供物として捧げられたのは、初めてだったという。困ったと言って、困った顔をした。実際、これ以上ないくらい、真剣に困っているようだった。
「困ると言って、親元に帰せばいいじゃないか」
「帰る親元もいないようです。それに、帰ったら、村の人たちが困るようです」
 孤児を、体よく押し付けられたのではないか、と思った。煙管を吸って、鼻腔から煙を吐きながら、その、供物をチラリと見た。
 自分のことを話されているのに、うんとも、スンとも言わなかった。男と同じく、名前がないのかもしれなかった。今の男が、鬼と恐れられているのか、神と畏れられているのか分からないが、自分が捧げられた供物だということも、分かっていないのかもしれなかった。男とは違うが、困ったな、と思った。
 供物の娘は、まだ、七つにもなっていないのかもしれない。肩が狭く、手足が細い。男の元を訪ねてから、縁側の方でチンと座って、雲の向こうで霞むような日の光を浴びるばかりだった。ひょっとしたら、目か耳か、そのいずれか、両方が利かないのかもしれないと思って、試しに、畳を強く叩くと、その音に驚いたようにビクッと震えて、こちらを振り返った。男の言っていたように、思ったよりはしっかりした目で睨みつけた。
 黒い髪に黒い目は、目の前の男と変わらないが、燃えるようではない。肌は浅黒い方だろうが、ただ浅黒いのではなく、どこか、妙な陰影があるようだ。小さな顔に生気はないが、強い命がある。
「怖がらせないで下さい」
 男の苦言に、煙管をポンといわせて、答えた。
 供物の娘は、ピクリとも表情を変えることなく、向こうを向いた。
 俺も、それなりに長生きしている方なので、ありがたくもない供物をおしつけられたことがある。人間は、長生きするものを、ありがたがる傾向でもあるのだろうか。肉や魚、米などをもらえば、屋敷の連中で料理を作って宴会を催すこともある。何かきっかけさえあれば、ぶっ倒れるまで騒ぐことが楽しみの連中が、多いのだ。それでも片付かないときは、近くの山に棲む狐の一家に分けてやることもあった。しかし俺には、食べ物よりは、年頃の娘を供物として捧げられることが、多かった。
 最初に、供物として人間を捧げられたときは、困った。
 以前、俺の棲む山の主として崇められていたらしい、あるものが、よくあるように供物として捧げられた娘を嫁にしてしまったのがきっかけだった。ついでに、その年が偶然豊作だったものだから、あそこのお山の主様に供物を捧げるならば若くて美しい娘、と決まってしまったそうだが、本当に、困った。
 供物の娘たちには、泣かれたり、喚かれたり、面倒だった。震えながら命乞いをされるので、そこまで言うならと家に帰そうとすると、それでは家族が困ると、また泣かれた。中には腹を括って大人しくしている娘もいたが、こちらはこちらで、一言も口を利こうとしないどころか、目蓋さえも開けず、食べ物も口にしようとせず、岩のようにしていたので、面倒なことには違いなかった。結局、最後には嫁を欲しがっている同族に押し付けるか、望むなら遠くの人里に逃がしてやるのが、お決まりだった。
 こんな子どもでは、尚更面倒だろう。
「雨が、降らないというのです」
 男は、言った。
「ところどころ間違っているようでしたが、雨を乞う呪文のようでした」
「なるほど……それで雨が降らなければ、また別の娘が供物になるのか?」
「いえ、雨は降ったのです」
 俺は、ポカンと口を開けた。
「……降らせたのか?」
「まさか」
 男は、驚いたように目を丸くさせた。そういう表情をすると、本当に子どものようだった。けれど確かに、まさかこの男に、そのような神通力があるわけもなかった。
「どれくらいかは、ちょっと忘れてしまったのですが、あの子が来てから、……麓の村で、雨を降らせる為の儀式が続いていました。火を焚いて、長い呪文を唱えて、熱心に祈っているようでした。そのうちに、降り出したのです」
「ふぅん……しかし、それなら別に、返してやっても、良いじゃないか」
「いえ、それで尚のこと、雨が降ったのは、供物と儀式と、神通力のおかげ、ということになってしまったらしいのです」
「そういうものか」
「どうしましょうか」
 男は、困った顔をして、困った口調で言った。
「お前のだろうが」
「くれとは言っていません。困っています」
 困った口調だったが、言っていることは容赦がなかった。
「……押し付けてくれるなよ」
「そんなことはしません」
 男は、心外そうに。声を尖らせた。
「くれとは言っていませんが、頂いた以上、責任はとります」
「責任って……」
 俺は男の生真面目な表情に苦笑して、ちょっとからかってやろうか、という気になった。
「嫁でももらったつもりかよ」
「女の子ですから、それでも間違いではないかもしれません」
 真面目に言いながら男は、これはしっくりきたぞ、という顔をした。長生きの癖に、思っていることを隠すことも、胡麻化すこともできない。だから、よく他人に騙される。要らない供物を押し付けられて、本気で困る。俺がこの男のことを思い出すたびに、何となく会いたくなるのは、この男のこういう性格によるところもあるのかもしれなかった。
「あんなチビコロ、飯炊きも出来なければ旦那の夜の世話も出来ンだろう」
「夜の世話……とはなんでしょうか?」
 俺は答えなかった。馬鹿馬鹿しかったのである。
 自分のことを散々言われているのに、供物の娘は、やはり、振り向きもしなかった。この家に来てから、ずっと、同じ場所にいて、この姿勢だったのかとも、思われた。
「花嫁衣裳では、ないのか」
「はい。さすがに」
「さすがに」
「あの恰好では何かと不便だったので、麓の村に下りて、とりあえず、最低限の身の回りのものだけ、整えてもらったのです」
「もらったのか」
「もらったのです」
 男は、何故だか微笑した。殆ど無表情のような、真面目な微笑だった。
 供物の娘は、色あせた、市松模様の着物を着て、元は黄色かったのだろう、くたびれた帯を締めていた。
「困らせなかったか」
「村の人を、ですか?それでも、裸で過ごさせるわけにはいきません。そう言うと、必要なものを一式、ご用意してくれました」
「ご用意、ね」
 村の連中は、さぞ迷惑と、感じただろうと思われた。
「名前は?」
「そういえば、知りません」
 そういえば、などと、男は、無頓着そうに言った。
「あるかもしれませんが……」
 男は、供物の娘の背中に向かって、少し、声を張った。
「教えて頂けますか?」
 供物の娘は、肩を揺らすことさえ、しなかった。
「じゃあ、せめて名前くらいは、お前がつけてやれよ」
 俺が言うと、男は、キョトンとした。
「名前、ですか」
「呼ぶとき、困るだろう」
「ここには、お客さんも滅多に来ませんから、困ることはあまりないと思います」
「正直な奴だな」
「私も名前がなくて、困ったことはありません」
「そうかもしれないが……」
「あなただって、私を何とかと、呼んだことはないではないですか」
「そうだがなぁ……じゃあ、ついでにつけてもらえよ……おい」
 おい、と呼ばれても供物の娘は振り向かなかったので、また、畳を叩いた。先ほどよりも、大きな音が立った。畳が、微かにへこんだようだった。戻るかと思ったが、戻らなかった。
 驚いた顔で振り向いた供物の娘は、俺たちがそこにいるのを見て、また驚いたらしかった。ひょっとしたら、俺たちがそこにいて、自分を見ていたことも、自分のことについて話をしていたことも、忘れていたのかもしれない。娘にとって、自分の存在は、他人の俺たちより希薄らしかった。
 人間よりも、獣の子を相手にしているようだった。
 手招きすると、供物の娘は、トコトコとこちらにやってきて、座った。自分が呼ばれていることがわかれば、それなりに反応するらしいのが、却って、獣の子のようだった。意外と、可愛い足だった。
「こいつ」
 俺は、男を指さしながら言った。男も、自分で自分の鼻先を、指さした。娘は、パチパチと、二度、ハッキリとした瞬きをした。
「こいつに、名前をつけてもらえよ」
 娘は、黒目勝ちの目で、俺を見て、男を見た。また、パチ、パチ、と、音が立つような瞬きをする。
「お前の名前だよ。……呼びかけられるとき、おい、とか、そこの、とか呼ばれても味気ないだろう?……そうでもないか?まぁ、いいさ……名前なんて、なくても困らないかもしれないけれど、あった方が便利だからな、色々と」
「そのようです」
 男は、妙に真面目な顔で、頷いた。もぞもぞと、居住まいを正して、初めて見るものを見るような改まった目で、供物の娘を見た。供物の娘も、男を見返した。こちらは、初めて見るものを、見るような目でもなかった。
「えっと……そうですね」
 男は、口元に拳を当てて、咳払いをした。どこかで見た仕草だろう。妙に、馴染まない仕草に見えた。
「野原に咲く草や花の名前を知る人はあまりいないようですが、その体を表す名前はあります。道端で見かける、五枚の花びらを咲かせる小さな黄色い花は片喰、夕方には萎んでしまう、青い露草、松、竹、梅、は、合わせて松竹梅といって、大変縁起がいいとされています。他には、菊、竹、梅、蘭、といった、四君子がありますね。これらにはそれぞれ縁起がいいとされる由来があるように、親は、子どもに名前をつけるとき、様々な願いを込めるようです。言霊という言葉があるように、言葉には力があると言われていて、それは時に、人を縛り、人を呪い、人を導き、人を救います。その中でも、名前と呼ばれるものは特別なもので、それは、確固たる自己を確立する為の……」
「長い」
 名前がなくても困らない、と宣った癖に、いざ自分が名前をつける側になると、妙な拘りを見せるのは、この男が真面目だからか、無駄に長生きだからか。
 男は、硬い咳払いをした。
「私が、あなたに名前を与えます。えっと……」
 男は、俺を見た。
「立会人になってくれますか」
 立会人、という言葉をどこで覚えたのかと思いながら、俺は、軽く頷いた。供物の娘も、頷いた。
 ふと、胸の中が、妙な疼き方をするようだった。何だろう、と顔を顰めた。重くて、掴みどころのないものが、頭の上にのしかかろうとするかのようだった。名前のない供物の娘に、その方が便利だからと、名前をつけるだけなのに、山でも動くような、大きな出来事が起こりそうな予感がした。煙を吸いたくなった。
「シロツメクサ」
 男は、娘の顔をじっと見つめながら、言った。
「白くてポンポンとした、可愛い花です。大事にしてください」
 散々語った癖に、犬にポチとつけるような、いい加減な名付けだな、と思った。第一、子どもの名前にしては長い。
「私の、大好きな花です」
 馬鹿馬鹿しいような気がして、シロツメクサと名付けられた娘を見た。娘は、しんみりと黙ったままだった。白詰草のように白くもなければ、可愛らしくもない。けれど、その頬の辺りには、微かな変化があった。微か、としか言いようがなかったが、変化があった。輝き、という言葉は強すぎる。鼓動、も少し強い。生気、とでもいうのか。
 命だけで生かされていた娘に、生気が宿った。
 それは、吹けば消えてしまうような微かなものだったが、確かにそこに、生まれたのだ。自分だけの、名前を与えられて。男がいうように、言葉に力があるというのなら、「シロツメクサ」という「名前」が、この娘に生気を与えた、ということか。
「次はあなたが、私に名前をつけてください」
 男は、それほど重々しくもないようなことを告げるように、言った。
 ふと、シロツメクサと名付けられたこの娘は、口が利けるのだろうか、と思った。先ほどから、このシロツメクサが一言でも口を利いたところを、見ていなかった。しかし、それを心配する前に、ちょっと意外と思われるくらいハッキリとした声で、シロツメクサは言った。
「クロ」
 シロツメクサと名付けられたからだろうな、とは、容易に想像がついた。クロと名付けられた男の顔にも、シロツメクサと名付けられた娘のような変化が現れないかと思われたが、その表情は、特に変わらなかったようだった。
「良いでしょう」
 クロと名付けられた男は、単純に、そう言った。
 こうして、犬に名前をつけるようにシロツメクサと名付けられた娘は、猫に名前をつけるように、男にクロと名付けたのだった。
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