名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

文字の大きさ
3 / 22
供物の章

2

しおりを挟む
 クロと名付けられた男が風呂に入れて体を洗ってやると、シロツメクサと名付けられた娘の頬は、一種の光沢を帯びた。クロと名付けられた男は、丁寧だが危なげな手つきで、シロツメクサと名付けられた娘の、濡れた髪を拭っていた。シロツメクサと名付けられた娘の髪は、濡れると、鴉の羽のように黒々として見えた。
 シロツメクサと名付けられた娘は、クロと名付けられた男の布団で眠った。今日は俺がいるからかと思ったが、シロツメクサと名付けられた娘が来てから、ずっと、そういうならわしなのだという。最初のとき、シロツメクサと名付けられる前の娘の為に、クロと名付けられる前の男は別の布団を敷いたが、シロツメクサと名付けられる前の娘は、その中に入ろうとしなかった。用意した布団が気に入らないのだろうかとも思ったが、そのままにしておくと、部屋の隅に、固められたように丸くなって、横になった。クロと名付けられる前の男は、シロツメクサと名付けられる前の娘の体を抱いて、自分の布団の中に入れた。硬くなって、容易に解れそうにない、シロツメクサと名付けられる前の娘の体を、どうやって抱きあげればいいのか、少し、迷った。
「子どもを抱いて、眠ったことがありません」
 クロはそう言って、茫洋とした表情をした。
「もしかしたら、そういうこともあったかもしれませんが、覚えていません」
 あったことにしろ、なかったことにしろ、遠いことなのだ。
 しかし、布団の中で、シロツメクサと名付けられる前の娘の、小さな体を囲うと、思ったよりは、馴染んだ。シロツメクサと名付けられる前の娘の方からも、クロと名付けられる前の男の体に、自ら馴染もうとするかのようだった。しかし、表面は和らいでいるように感じられても、その奥にある芯の方は硬く、馴染まない。
「なかなか、馴染まないものです」
 クロと名付けられた男は、言った。腕の中で、何かの苦行に耐えているかのようにじっと硬くなっている、シロツメクサと名付けられた娘を見つめようとしながら、少し、途方に暮れているらしかった。
「この子が私に馴染まないのでしょうか。私がこの子に、馴染まないのでしょうか」
 俺には分からないことだった。
 俺は、シロツメクサと名付けられる前の娘が眠ろうとしなかった、布団の中で目を閉じた。手の届く距離に、互いに名前を与え合った二人が、互いに馴染もうとするかのようにしながら、馴染むことができずに、眠っていた。怯えているわけでも、恐れているわけでも、疎んでいるわけでもない。初めて見た果実を撫でたり、眺めたりするように、ただそこにいることを、確かめている。
 妙だな、と思った。妙、ということは分かったが、何が妙であるかは、よく分からなかった。全てが妙で、自然のことだった。自然であることが、妙にも感じられた。振り返って、過去があって、それが今に続いていることが、妙だった。
 少し前――といっても、俺たちのようなものにとっての、少し前、ではあったが――俺の隣にも、眠る女がいた。手を伸ばせば繋げる距離に、眠る女がいた。懐かしい、と思った。
 クロと名付けられた男は、安らかに眠っているようだった。もっとも、クロと名付けられる前から、どんなところでも容易に眠る男だった。野宿も、平気でした。眠っている間に夜盗にものを剥ぎ取られても、気が付かなかったこともあったが、幾年かすれば、そんなことも笑い話になった。
 シロツメクサと名付けられた娘も、今は眠っているが、以前はどうだったか分からない。この家に棲んでいただけの、神通力も持たない男に供物として捧げられてから、少しは、馴染んだのだろうか。
 この家に、か。クロと名付けられた男に、か。
 名前を与え合って、二人は近づいたのだろうか。
 どうして、名前をつけてやれ、などと言ったのか。
 俺は、横たわった布団の中で目を開けたまま、両手を頭の後ろで組んで、考えた。ふっと思いついた、気まぐれにしか思われなかった。クロと名付けられた男が言っていたように、名前がなくても、二人はそれほど困らなかっただろう。二人しかいない家なのだから、おい、とか、お前、とか、少し声を上げれば、分かるはずだった。俺だって、クロと名付けられた男が、クロと名付けられる前は、おい、とか、お前、とか、いい加減な呼び方をしていた。それで、通じていた。一度では通じなくても、何度か呼びかけていれば、クロと名付けられる前の男は、私ですか、と、振り返った。シロツメクサと名付けられる前の娘だって、畳を叩いて、通じた。クロと名付けられた男が、名前など必要ない、という主張を、もっと強くすれば良かったかもしれない、と半ば八つ当たり気味に思った。しかし、何かを強く主張して通す、ということを知らない男だということを思い出して、何だか力が抜けてしまった。右が良いだろうと言われれば、そうかもしれない、と頷く男で、いや左が良いだろうといわれれば、なるほどと、これにも頷く男なのだ。
 腹の奥に沈めたものが、もやもやと肥大していくのを感じた。何だろうと思って、顔を顰めた。それが、内側で浮遊しようとするのが、気持ち悪い。クロと名付けられた男への、八つ当たりだろうか。しかし、名前をつけてやれ、と言ったのは、事実俺で、それでクロと名付けられた男と、シロツメクサと名付けられた娘が近づいたのなら、仕方ない。寝返りを打って、もやもやとするものを沈めた。
 ごそり、と衣擦れのような音がした。ごそり、ごそり、と暫くの間身を捩るような気配がした。鼠かと思われた。クロと名付けられる前の男が、以前棲んでいた場所で、鼠を手懐けようとしていたと語っていたのを、思い出したのである。クロと名付けられる前の男は、鼠に餌を与えようとしたこともあれば、芸を教え込もうとしたこともあるという。しかし、鼠は与えられようとする餌には近づこうとせず、お手もおかわりもしなかった。
 鼠にしては重く、ゆったりとした、ごそり、という音に聞こえた。眠りかかろうとしながら、再び、何だろう、と、思った。何をしようとしているのだろう、とも思った。
 ごそり、という音に、湿った音が混ざり始めた。それは高く、鋭くなるときもあれば、低く、緩くなるときもあった。風の音にも似ているようだったが、俺は寧ろ、以前見た、砂浜に寄せては返す、波を思い出した。波は、緩やかで、時々、激しくなった。シロツメクサと名付けられた娘が、泣いているのだと、思われた。寄せては返す、波のように、泣いているのだ。
 シロツメクサと名付けられた娘が泣いていた時間は、ほんの少しの間だっただろう。啜り泣く音は、一瞬、波打つように、大きく、激しくなったかと思ったら、段々と小さくなって、安らかな寝息に変わった。その音は、クロと名付けられた男を、起こさなかったようだった。
 痛んでいた。
 どこが痛むのか、何故痛むのか分からないまま、ただ、痛かった。冷たいもので、さほどきつくもなく締められているようだった。そして、苦しかった。遠くから、ヒタヒタと追ってくるものを感じた。恐ろしいものが、追いかけてくるのではない。懐かしいものが、追いかけてくるのだった。
 俺は、家を出た。

 大きく、重く、迫ってくるものは、過去かと思われた。
 温い夜だった。土の感触が、足に馴染まなかった。風に揺れる葉の音も、どこか遠くで鳴く獣の声も、俺には馴染まなかった。クロと名付けられた男は、よくこんなところに馴染むものだと思った。のしかかるような夜空に、星が瞬いていた。
 暗くはない。寂しくもない。辛くもない。
 ただ、痛かった。懐かしいものが、痛みを与えるのだった。
 追いかけてくるものは懐かしいものだったが、痛みを懐かしいとは、思わなかった。
 そういうものだった。
 供物として捧げられた娘は、大抵は、嫁を欲しがっている同族のところに嫁がせるか、遠くの人里へ逃がしてやった。逃げた娘たちが、どんな生活をして、どんな苦労をして、不幸になっているのか、或いは、幸せになっているのかは確かめようがなかった。わざわざ、確かめようと思うほどの、情もなかった。ただ、同族に嫁がせた娘らの消息は、時々知れた。色々あって、人里に帰った娘もいれば、嫁いだ場所で、老いさらばえて死んだ娘もいた。中には、嫁いだ夫に近い姿かたちと、性質を持った娘もいた。
 俺の妻と呼ばれた女は、老いさらばえて、死んだ。俺は死んだ女の体を、自らの手で、土の下に埋めた。
 色鮮やかに残る思い出もあれば、色あせた記憶もあった。ただ、俺の傍にいて、妻と呼ばれた女はもういない。
 俺と同族になるかと訊いたとき、女は笑って、首を横に振った。その方が良いと言うのなら、それも良かろう、と思われた。死ぬことには死ぬなりの苦痛があるだろうが、ただ長く生きるのにも、それなりの苦痛があった。
 年老いて、真っ白くなった頭の中に、皺くちゃに萎んだ顔が、俺に強いものを刻みつけようとするかのようだった。今にも、消えてしまいそうだったのに。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜

AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。 そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。 さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。 しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。 それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。 だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。 そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。

裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね

竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。 元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、 王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。 代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。 父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。 カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。 その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。 ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。 「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」 そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。 もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。 

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

処理中です...