名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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供物の章

3

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「どこに行っていたのですか?」
 朝方になって家に戻ると、クロと名付けられた男が、既に朝食の支度を終えていた。
 どこに行っていたのかと、笑いながら問うて、責めるような様子もない。また、俺の方でも、背の高い木々や、草花や、土の匂いで満ちた山の中の、どこに向かって歩いていたのか、説明のしようがなかった。
「クロ」
 と、俺はこの時初めて、クロと名付けられた男に、クロ、と呼びかけていた。口に出して言ってみると、本当に、犬か猫につけるような名前だった。これまで名前のなかったものに、名前で呼びかけるのは、妙な気持ちがした。
「私ですか?」
 クロと呼ばれた男は、クロと名付けられる前と同じ返事をした。
 朝食は、山の中で採れた山菜と、水だった。シロツメクサは、特に味付けもされていないらしい山菜を、不器用に箸を使いながら、モソモソと食べていた。
「これから二人で暮らすなら、もっとマシなものを食った方が、良いだろう」
「マシなもの、とは?」
「ガキに葉っぱだけ食わせるなって、話だよ」
「なるほど」
 素直に納得した様子のクロは、綺麗な所作で箸を使って、山菜を口の中に入れて、飲み込んだ。その間に、色々と考えていたらしかった。
「何か、食べたいものは、ありますか?」
 クロからの問いかけに、シロツメクサは黙って、山菜を咀嚼するだけだった。
「これまで、どんなものを食べていましたか?」
 口の中の山菜を、シロツメクサは飲み込んだが、答えなかった。
「おい、おい……シロツメクサ」
 シロツメクサ、という名前は頭の中にあっても、咄嗟に口の上には上らず、おい、と間を詰めながら、俺はシロツメクサに呼びかけた。
 シロツメクサは、ぼんやりと俯き加減だった顔を上げた。山菜を頬張ったまま、口をもぐもぐさせている。丸い頰だった。
「よし、自分の名前くらいは分かるらしいな……シロツメクサ、こいつ……今は、クロか……シロツメクサ、お前はこれからこのクロと同じ飯を食わなきゃならんわけだが、このままだと、どこで採ってきたか分からん葉っぱと、どこで汲んできたか分からん水だけ口にすることになるぞ」
「どこで採ってきた山菜か、くらいは分かります。水は、雨水を溜めたものです」
 クロの反論に、俺は答えなかった。
 シロツメクサは、口の中のものを飲み込んでから、言っている意味は分かっているよ、というように、唇を緩く合わせて頷いた。
「そこで、参考までに今までどんなものを食べていたか、どんなものを食べたいのかを聞きたいのだが、教えてくれるか?」
 それまで、じっと言葉の意味を考えているようだったが、このように問いかけられると、急に、暗い目をして、俯いた。
「……くれないか」
 俺は、着物の袖の中に腕を潜り込ませて、組んだ。横目で、クロを見ると、何やら神妙な表情だった。
「……それでは、魚でも捕りにいきましょうか」
 クロは、生真面目に言った。

 クロの棲む山には、人間が通るような、人間らしい道は、殆どない。それでも、平坦で、比較的通るのが楽な道があって、俺たちはその道を通って、川に向かった。途中で、息を切らせて、しゃがみ込みそうなシロツメクサを、クロが抱えることもあった。クロの、痩せているが、背の高い体に比べると、本当に小さいシロツメクサだった。俺は、二人分の釣り竿を持って、ブラブラと、二人の後をついた。時々、草履を履いた爪先が、土に引っ掛かったのを蹴り上げると、クロの足元にかかることもあったが、頓着しない様子だった。
 川辺に着くと、クロは早速、俺から受け取った釣り糸の先にミミズを括りつけて、川の中に放り込んで暫く待った。俺も、クロと同じようにした。シロツメクサは、退屈そうな無表情だったが、俺たちが生きたミミズを釣り糸の先に引っかけているのを見る目は、怖そうでもあった。クロが、かかったようだと言って、糸を引くと、ミミズだけが食われていた。再び待っても良さそうだったが、土を掘って餌になる虫を探すのが、単純に面倒だったのだろう、クロは、着物の裾をからげて、ザブザブと川に入った。一瞬、それほど大きくない魚を一匹、捕らえたかと見えたが、手の中で滑って、川の中に泳ぎ去ってしまった。
「難しいです」
 額に掌を当てて、少し息を弾ませながら、クロは言った。元々濃い色に見えた着物が、水を跳ね散らかした為に、黒くなっていた。
「自分で魚を捕ったことが、なかったのか?」
 俺は川の傍に座って、あぐらをかいた膝の上に肘をついて顎を支えながら言った。さっぱり魚の引っ掛からない釣り竿は、放置している。
「ないことはないのですが、難しいのです」
 クロは、言い訳をした。
「これまで、山菜か水ばかり口にしていたようなものなので」
「そのうち、霞でも食って、満足していそうなことを言いやがる」
「霞ですか?偉い人が口にすると伺いますが、美味しいのでしょうか?」
 生真面目に言うクロに、俺は何とも言わなかった。シロツメクサの方に顔を向きかけると、クロの真似をして、着物をからげている。けれど、上手くからげることが出来ず、膝の裏まで着物がずり落ちてくるのをそのままにして、川の中に入ろうとしていた。
 危ない、と言う前に、シロツメクサの片足が、川の中に入っていた。シロツメクサは、お、というような口の形をした。
「おい」
 シロツメクサ、と言いかけたが、おい、の呼びかけに却って驚いたのか、シロツメクサの体が、川の中でひっくり返った。すぐにその体を抱えあげると、何かを掴んでいる。シロツメクサが一心に抱え込んで、離さないようにしていたのは、魚だった。先ほど、クロが捕まえようとしていたものよりも、かなり大きいようだった。シロツメクサに掴まれながら、暴れている。
「魚籠、魚籠」
 口の中で繰り返しながら、ザブザブと川から上がった。川の中で、殆ど濡れ鼠になりながら、魚を抱え込んだまま、ポカンと口を開けている子どもを抱えていた。ぬるいような、グニャリと柔らかいような。子どもとは妙な感触をしているものだと思った。しかし、覚えのある感触だった。
 シロツメクサの腕の中で踊り狂っていた魚を、どうにか魚籠の中に入れた。
「大漁です」
 後から、こちらも川をザブザブと波打たせながら、クロがやってきた。
「大漁っていうのは、捕まえた獲物の数が多いことだろう」
 俺は訂正した。
「そうなのですか?」
「大漁旗とか、あるだろうよ」
「大きな獲物を、捕まえることでは、ないのですか」
 なるほど、というように顎の下に手を当てるクロを、俺は苦笑いをしながら見た。長生きの癖に、言葉を知らない。単語を知っていても、その意味を間違えて覚えていることも多い。クロとは、そういう男だった。俺がクロを、そういう男だと知る以前から、クロはぼんやり生きていた。
 その後、俺の放置していた釣り竿が引かれているのに気が付いて、引き上げると、小ぶりな魚が餌に食いついていた。曲がった針の先が口の中に刺さって、動けなくなっているらしい。俺の手の中で、口元から血をにじませながら暴れる魚を、シロツメクサは気味悪そうに見つめた。
 結局、クロは一匹も魚を釣り上げることは出来なかった。
 俺たちはその場で火を起こして、魚を焼いた。火の傍にいるうちに、濡れた着物も乾いてきた。それが却って、嫌な肌触りだった。
 シロツメクサは、焼いただけの魚を、警戒的に睨みつけていたが、思い切ったように、直接かぶりついた。特別、美味いという顔もしなかったが、真面目に食らいついている。俺の方は、塩が欲しいと思っていた。今回の釣りで功績を上げなかったクロは、火に手を翳して、濡れた体を温めることに専念しているが、その表情は、満足しているように見えなくもない。シロツメクサは、魚の骨が、時々身と一緒に口の中に入り込むらしく、手の中に骨を不器用に吐き出していた。クロは、俺が魚の骨だけを避けて魚の身だけを上手く食べることに感心していたが、これだけは、俺も自慢に思っている。
 魚を食べて、眠りかかったシロツメクサは、俺の胸に寄りかかった。その、シロツメクサの体を、俺はクロに押し返した。クロは、黙って、俺が押し付けたシロツメクサに寄りかかられた。シロツメクサは、目を開けなかった。
「妙です」
 寄りかかったシロツメクサの肩を、躊躇うように抱きながら、クロは言った。俺は、クロの言った意味がよく分からなかった。
「妙?」
「柔らかくて、千切れそうなほど頼りないのに、温かいです……人間とは、皆、このような感触だったでしょうか……?」
 本当に、不思議そうに言うのだった。
「人間は、弱いよ」
 俺は、言った。
「水に溺れて死ぬ。生き埋めにされて死ぬ。火に焼かれて死ぬ。時が経てば、老いさらばえて死ぬ」
「人間が死んでいくのは、たくさん見てきました」
 見てきても、この男は知らないのだ。
「名前をつけてやったからには、死ぬまで面倒を見てやれよ……人間は、弱いからすぐに死ぬぞ」
「分かりました」
 俺の言葉に、クロは単純そうに答えた。そして、何とも形容し難い色をした目で、自身の胸にもたれかかる、シロツメクサの顔を見ていた。シロツメクサは、夢も見ていないような表情で眠って、クロの胸元を掴んでいた。
 シロツメクサを撫でるクロの手には、まだ、硬い躊躇いがあった。
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