名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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桜の章

3

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 シロツメクサは、クロに抱きあげられた。目は、開いていた。クロの体に身を寄せて、じっとしていた。慣れているらしかった。また、眠そうだった。
 俺の頭の中は、さっき見たばかりの桜の花で、いっぱいになっていた。目が、低い位置で漂っている、薄紅色の雲でくらむようで、足元がふらつきかけた。クロは気が付かなかったが、シロツメクサは見ていた。俺は別に、恥ずかしいとも、情けないとも思わなかった。
 クロの、燃えるような黒髪と、シロツメクサの、ただ黒い黒髪が、触れ合っていた。
 桜の下で、シロツメクサはせっせと山菜を採っていた。屈むと、チョンと、丸かった。額の上で、クロが切りそろえたばかりの前髪が揺れて、温かそうな影を落としていた。その、俯いた顔は、硬く、真剣だった。桜が満開になるまでは、と俺を足止めしたクロですら、桜よりは地面を見ていた。俺は、煙管を口に咥える仕草をしながら、頭の中がその色で満ちるほど、桜を見上げていた。風が吹くたび、桜は、その色を変えた。枝先から離れた花が項に落ちると、シロツメクサはくすぐったそうに、首を捻った。クロはシロツメクサの衣紋の隙間に手を入れて、着物の中に入り込んでいた花を取った。
「見せて」
 シロツメクサは、クロの摘まんだ花を覗き込んだ。小さく先の割れた花びらが、五枚、ついていた。枝について、咲いていたままの姿で落ちた、桜の花だった。シロツメクサは、すぐに興味をなくしたように、そっぽを向いた。クロは笑いながら、花を捨てた。花は、草の中に紛れた。風に吹かれて、雨に濡れて、獣に踏まれて、土にまみれて、汚れて、朽ちていくのだろう。
 花の一生を、一つ一つ考えたところで、仕方ない。
 シロツメクサは、クロの肩口に顎を乗せて、両腕を、クロの肩の下あたりで軽く組んでいた。傾いた顔の表情は、殆ど見えない。小さな爪先が、クロの体の脇で揺れている。そこから、履物が落ちかけている、と思ったら、落ちた。赤い鼻緒の、草履だった。俺が拾うより先に、クロが屈んで、拾った。ついでに、もう片方の足に引っ掛かっていただけの草履も、割と器用に脱がせて、両方とも片手に持った。その間、シロツメクサを離すことはなかった。
 シロツメクサの、小さく開いた唇から、シロツメクサの呼吸が、優しく聞こえた。目は、いつのまにか閉じていた。
「器用だな」
 器用だな、と思って、言った。
「慣れです」
 クロは、簡単に言った。慣れと思って、慣れと言ったと、思われた。
 桜の木の下に、赤ん坊が棄てられていたのは、昔のことだった。死んでいるのかと思って抱きあげたら、泣いた。口元に指を当てると、吸ってきた。俺は、その赤ん坊を連れて帰った。
 眠るシロツメクサを見ていると、赤ん坊と、変わらないと思う。目を閉じて、静かだった。
 去年も、クロは眠るシロツメクサを抱いて、帰ったのだろうか。去年よりは、シロツメクサの体は大きく、重くなっていることだろう。抱き辛くなることも、あるかもしれない。
「死んでいるみたいに寝るのだな」
 俺は、言った。特に、何の感情も込めたつもりはなかった。
「人間って、死んでいるみたいに寝るのだな」
 言い直した言葉は、自分でも少し、強く感じられた。
「私だって、死んでいるように、眠るみたいですよ」
 クロが答えた。寝ているシロツメクサを、気遣うかのような声は、いつもよりは聞き取り辛かった。
「私が昼寝をしていたとき、鼻先に、何かふわふわと触れていると思ったら、シロが、鳥の羽を当てていたのです。私が目を開けると、羽を捨てて駆け出して、少し遠く離れたところから、じっと私を見るのです。生きているのかどうか、確かめたのでしょう」
「そんなことを、したのか」
「私にも、同じような覚えがあります」
「生きているのか、死んでいるのか、不安になった相手が、いたのか」
 クロは、以前にも見たことがある、無表情のような微笑をした。
「俺も、シロにそういうことを、して欲しい気がするな」
 俺は言ったが、無論、本当にシロツメクサに、そういうことをして欲しいわけではなかった。ただ、なんとなく思いついて、なんとなく言ってみただけだった。しかし、想像の中で、俺の鼻先を鳥の羽でくすぐるのは、シロツメクサではなかった。クロにはそれが分かるだろうと思われたが、クロのことだから、分からないだろうとも、思われた。真面目に、俺がシロツメクサに、呼吸を確かめられたいと思っている、と考えているのかもしれなかった。

 遠ざかった過去は、しかし、近づくことはなかった。やはり、同じ場所にいて、同じ匂いを発しているのだ。近づいた、と思うのは、思いだした、ということなのだろう。
 思ったよりは温かくなく、思ったよりは、柔らかくなかった、十六の女の唇だった。しかし、温かくて、柔らかな、女の唇だった。
 風が、吹いた。
 桜の木の下で眠っていた女の唇の端に、桜の花びらが一枚、落ちた。女が、どうして桜の木の下で眠っていたのか。ただ恍惚として、目を閉じていた。赤ん坊の頃、自分が捨てられていた、桜の木の下ではなかった。女が、というよりは、俺の方があの桜の木を避けていた。
 桜の花びらが一枚、目を閉じた女の唇の端に、落ちた。魚が触れるような、落ち方だった。また風が吹くかと思われたが、吹いたと思われるほどの風は吹かなかった。桜の花びらは、女の唇の端に、そのまま吸い付いて、離れまいと、するようだった。
 見ているうちに、急に、悲しくなった。悲しいよりは、憎らしかった。憎らしい気持ちで、女の唇に、自身の唇を寄せた。女の唇の端についていた、桜の花びらを口に含んで、そのまま、長く、女の唇と、自身の唇を重ねていた。思ったよりも温かくなく、思ったよりも柔らかくなかった唇は、それでも温かく、柔らかな唇だった。
 唇を離すと、女は、目を開けて俺を見ていた。何か、問いかけようとしているかのような、悲しそうな目だった。俺は、口の中にそのまま入っていた桜の花びらを、舌で絡めて、飲み込んだ。容易に飲み込むことができるかと思われたが、思ったよりは、苦労して、飲み込んだ。口の内側で、唾液を纏った桜の花びらが、吸い付いてきた。
 その後、女の背中を抱いたことまで、思い出した。
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