名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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狐の嫁入りの章

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 シロツメクサは、狐の花嫁道中を、見たことがなかった。先日の客人によると、遠くの山から若様のいる山まで、幾日どころか幾週間かけて向かうというのだから、よほどゆっくり進むのだろう。
 俺が昔見た狐の花嫁道中では、白無垢を着た狐の花嫁が、大きな赤い番傘を差されて、傾いた綿帽子の陰から、狐の花嫁の、尖った鼻先が見えていた。花嫁以外、大抵は紋付の黒い着物を着ていたが、御付きの童子は裸体の二足歩行で、それでも、ふさふさとした毛で膨らませた胸を、誇らしげに張っていた。
「シロ、花嫁道中を見たいのですか?」
 クロが、言った。
「クロが見たいのなら、見てもいいけれど……」
 シロツメクサは、少しは見に行きたそうな口ぶりで言った。
「それなら、見に行きましょう。きっと、綺麗ですよ」
「雨が降るかしら……」
「傘を差せば良いでしょう」
 シロツメクサの、クロに対する口の利き方は、いつのまにか砕けているようだった。クロは、誰に対しても丁寧な言葉遣いをするから、それ自体はおかしくないのだが、この家の主人であるはずのクロが、後から来たシロツメクサに気を遣って、客人扱いをするように見えるのが、少しおかしかった。しかし、シロツメクサもクロも、相手を見くびるとか、高く見上げているとかいうことなく、同じ位置に置いて、真面目に話し合っているようだった。
 花嫁道中の見物に、めかし込む必要はないと思われたが、めでたい席なのでみすぼらしい恰好は避けようという、クロの意見だった。また、花嫁道中を見物するのに、わざわざめかし込むのはいけない、ということはないだろう。勿論、花嫁道中より目立つ格好は、いけないだろうが。
 シロツメクサもクロも、一応、身だしなみには気を遣う方らしかったが、特別上等な着物を持っているわけではないだろうと思われた。俺も、こういうことになるとは思っていなかったから、古くなった着物を、数着持ってきただけだった。それでもシロツメクサは、箪笥の引き出しの奥から、持っている中で一番良いと思われる着物を一着、引っ張り出してきた。それが、思いがけず上等なものだったので、驚いた。それに合わせた、帯や履物も、良いものが揃っていた。
「蜘蛛の糸じゃないか」
 着物の生地に触れさせてもらいながら、俺は言った。派手過ぎることはないが、流麗な小紋の柄が、目を引く。帯も、着物の色に合った、良い色合いだった。何より、蜘蛛の糸で繕われた着物は、丈夫で、並の着物より古くなりにくい。
「良いものが、あったな」
 照れたように俯き加減になったシロツメクサは、着物と帯を抱えて、着替えるために別室に向かった。
 クロによると、以前、旅装束の女とそのお供が一人、家を訪ねてきて、急に雨に降られて困っている、どうか一晩泊めて欲しい、と言ってきた。家に上げて、熱い茶を飲ませた。お茶を飲み終えて暫くしてから、女は身の上話を始めた。自分は以前、ある名の知れたお店に嫁いで子どもを生んだが、事情があって、離縁されて、里に帰ることになった。その里で、幼馴染の男と再婚したが、前の婚家に残してきた子どもが気にかかって、実家や、今の夫の家からも許しをもらって、子どもに会いに行ったところである。先の夫は再婚して、子どもには継母がいた。子どもがまだ赤ん坊の頃に別れたので、もはや実母の顔を見ても分からず、継母のことを本当の母のように慕っていたが、遠目から元気そうであるところを見ただけでも、ホッとした。その途中、雨に降られて困っていたところを、こうして助けて頂いて、本当に感謝している。どうもありがとう。……女は、ザッとそんなことを語って、目の中で光るものをチラリと見せたが、それを不用意に落とすようなことはしなかった。また、困っていたところを助けてもらった感謝の念から、目を光らせたわけでもなかっただろう。その後女は、クロの家で一晩だけ泊まって、お供と帰ることにしたが、帰り際、後日、お礼の品を届けたいと思っているが、何か希望はあるか、と訊いてきた。クロは、自分は、特に必要なものはないが、一緒に暮らしている娘に、晴れ着の一枚でも用意してやれたらと思っている、と答えた。ではこちらで良いものを見繕わせて頂きたいと思っているのでよろしく、と言って、帰った。珍しいこともあるものだと思って、面白くも感じたが、そのことを忘れかけていた頃に、娘ものの着物と、それに合わせた帯と履物が入っていた。クロのものと思われる着物も、一式揃えられていた。差出人の名前に覚えはなかったが、すぐに、あの旅装束の女からだと、気が付いた。
「蜘蛛だったのでしょう。離縁されたのも、それが原因かもしれません」
 クロは言って、柔らかな表情を見せた。
 そう気にすることではないとは思っていたが、俺は持ってきた着物の中でも、比較的上等なものを選んで、着た。クロは、俺が見たことのない渋い色の着物を着て、帯を締めていたが、やはり、その、蜘蛛の女から届けられた品なのだろう。
 着替えたシロツメクサが来ると、その場所が、パァッと華やいだ。口紅も塗っているようで、小さく、形の良い唇の形が、際立って見えた。人間の女は色白の肌が美しいと言って、化粧をするときにも、やたらと白粉を叩くことがあるらしいが、シロツメクサの浅黒い肌には、不思議な深みと光沢があって、これはこれで、目の保養になった。
「シロ、あまり、花嫁さんに近寄ってはいけません」
 クロは、常より生真面目な口調で言った。
「遠目から、見るだけです」
 言わずとも、シロツメクサにも俺にも知れているようなことだったが、あまり生真面目に言うので、シロツメクサは却って不思議そうだった。
「何故?」
 とまで訊いた。
「今のシロは、とても綺麗だからです。花嫁道中を見る人は、花嫁さんより目立っては、いけないのです」
 クロは、どこまでも生真面目に、ニコリともせずに言った。
 一瞬、俺とクロの目が合った。クロは俺を見て、妙な表情をした。俺はクロを見て、笑いを堪えるのに精いっぱいだった。
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