名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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狐の嫁入りの章

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 クロは、シロツメクサの肩を、軽く抱き寄せるようだった。シロツメクサは、俺より背の高いクロの腰の辺りに、無心でしがみつくようだった。
 月も星も鮮やかに出ている夜に、雨が降るのは、やはり、狐の嫁入りと関わりがあるのだろうか。俺は、クロが貸してくれた傘を差して、クロは、それより大振りの傘の下で、シロツメクサの肩を抱いていた。シロツメクサの蕾のように硬い体は、クロに抱かれて、柔らかく寄りかかっていた。
 俺は寄り添う二人よりも、青い光を、見ていた。
 雲よりも遠い場所で鳴るような、美しいが、悲しげな楽に合わせて、狐の花嫁行列は進んでいた。白い狐が、細く、震えるような声で歌い、大柄な狐が、狐の花嫁に番傘を差している。その前方では、青い火の灯った提灯を持った狐らが、花嫁の進む道を照らしている。俺が見ていたのは、この、青い提灯の火なのだった。
「ゆっくり、歩くのね」
 シロツメクサが言った。
「はい」
 クロが、囁くような声音で言った。
「だいぶ、ゆっくりのようです」

 めでたや、めでたや、花嫁道中……

 めでたや、という歌詞が聞こえたが、寧ろ悲しそうに歌っている。締められて、細くなった喉から、必死に声を絞り出しているかのようだった。

 めでたや、めでたや、花嫁道中……
 花嫁様の、お通りじゃ……
 星よ、照らせ……月よ、笑え……雨よ、降れ、降れ……涙を流せ……

「あまり、めでたくないみたい」
 シロツメクサが、俺が思っていたのと同じことを、ひそひそと呟いた。俺は苦笑しながらも、思わず、シロツメクサの声に耳を傾けてしまった。
「世間では、お嫁入りは花嫁さんには辛いものと、決まっているようです」
 クロは、しんみりと言った。
「あの客人は、姫様も若様も互いに思い合って結婚が決まったようなことを言っていたがなぁ」
 俺は言いながら、あの客人の姿を探したが、分からなかった。前方で、提灯で道を照らしているのがそうなのかもしれないが、花嫁に番傘を差しているのが、あの客人かもしれなかった。クロが人間に近い姿をしていると聞いて、下手な変化で人間の姿をとったのかもしれない。今頃は、狐の姿に戻っているのだろう。
「花嫁さんの顔が、よく見えない」
 シロはクロの腕の中から身を乗り出そうとするかのような恰好をした。
「シロ、あまり前に出ようとしないでください。花嫁さんの顔は、じろじろ見るものではありません。それよりも、この行列は、綺麗でしょう」
「綺麗は、綺麗だけれど、悲しそうよ……」
 シャラン、シャラン、……と、御付きの裸の子狐たちが、鈴を振っていた。狐の表情はよく分からないが、何となく、神妙な表情を浮かべていると見えた。

 めでたや、めでたや、花嫁道中……
 花嫁様の、お通りじゃ……
 お殿様の、大事な、大事な、宝箱……
 そこにおわした美しき、御母堂様は青い火の玉になって……
 今はお殿様の、腹の中……

「どういう意味?」
 シロツメクサが、クロに抱かれながら訊いた。
 クロは、微かに笑むように唇を震わせただけで、答えなかった。俺も、答えてやろうとは、思わなかった。
 シャラン、シャラン、と、鈴の音。
 きっと、何か意味があるのだ。俺たちには、その意味が分からない。
 細く、高く、震えるような、歌声。
 あの白い狐は、この嫁入りを、めでたいとは思っていないのだ。本当に、悲しくてたまらないのだ、と思った。血を吐くような思いを、歌に、込めているのだ。そうでなかったら、この声も、きっとここまで震えることはないだろう。

 めでたや、めでたや、花嫁道中

 白い狐の声が、一瞬止まった。花嫁行列も、一瞬、止まった。しかし、そう間を置かず、再び白い狐が歌い始めたのに合わせて、花嫁行列も進んだ。

 めでたや、めでたや、花嫁道中……
 花嫁様の、お通りじゃ……
 おお美しき、狐の花嫁様……
 その身は爪と牙にて引き裂かれ……
 狐の旦那様の、腹の中……

「あ」
 シロツメクサが、小さく、声を上げた。その、微かに開いた口を、クロは、シロツメクサの肩を抱いていた平べったい掌で覆った。シロツメクサの体は、クロにますます深く寄りかかったが、その目は、花嫁を見つめていた。
 俺も、見た。

 めでたや、めでたや、花嫁道中……
 花嫁様の、お通りじゃ……

 狐の花嫁の顔には、尖った鼻もなければ、ピンとした髭も生えていなかった。
 狐に囲まれた、人間の姿をした白無垢の女は、触れれば消えてしまうような儚さをもって、そこにいた。

 金魚を、飼っていた。
 赤い、丸い金魚は、短命だった。最期には鱗が逆立って、膨らんだ腹を上にして、死んでいた。俺の妻と呼ばれていた女は、泣きながら金魚を、庭に埋めた。この女が、そこまでの情を、金魚に抱いていたのが意外だった。定められたときに餌をやって、定められたときに金魚の入った鉢を縁側に置いて、定められたときに、片付けていた。死んで、可愛く感じられたと、女は泣きながら、俺に語った。
 あなたは私が死んだら、可愛いと思いますか、と女が問うので、死んだら、埋めてやる、と俺は答えた。女は、笑った。残酷なことを、言ってやったと思ったのに、何故だか、嬉しそうに、笑ったのだった。

 あの時見た狐の花嫁の母親は、人里から連れて来られたのだろう。そして今は文字通り、青い火の玉になって、夫の腹の中にいるのだ。
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