名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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猿の帯留めの章

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 季節は巡ることを知っていた。
 しかし、同じ季節は来ないことは、知ったつもりで知らなかった。
 鳴く鳥は、去年の鳥ではない。
 咲く花は、去年の花ではない。
 色づく葉は、去年の葉ではない。
 シロツメクサの傍には、見たことのない青年がいた。高い背は猫背気味だった。シロツメクサに何か話しかけていて、シロツメクサが、落ち着いた声でそれに答えているようだった。斧を振るって薪を割る手を、休めることもない。時々顔を上げて、まだそこに、いるのか、というように、青年の顔を見つめる。
 不意に、青年の声が、はっきりと聞こえた。思ったよりは、耳通りが良い、低い声だった。
「替わろうか?」
 薪を割るのを、替わろうか、という意味だろう。それに答える、シロツメクサの声も、存外はっきりしていた。
「私の、仕事ですから」
「大変そうだ」
「コツが、あるの」
 俺は、関わるのが面倒で、木陰にそっと隠れた。落ちていた葉を拾って、その茎を口の端に咥えて揺らした。シロツメクサが薪を割る音が、何かの動物の鳴き声のように聞こえた。いつからいるのか知らないが、青年はその場から立ち去ろうとはせず、黙って、シロツメクサの傍にいた。あまりにもグズグズとその場にいるから、もしかして、この青年もシロツメクサやクロと共にここで暮らし始めたのかと疑い出した頃、漸く青年が、立ち去ろうとする素振りを見せた。去り際、青年が縁側に置いていったものが、光った。
 俺は、腕を組んで青年の去って行った方を見送ると、ゆるり、と、隠れていた木陰からシロツメクサの前に現れた。シロツメクサは、振りかけた斧を置いて、本当に、驚いた顔をした。
「隠れていたの?」
 と言って、笑っているのかいないのか、よく分からない表情をする。
「声をかけてくだされば良かったのに」
 俺は、それには答えず、縁側に置かれた、光るものを指さした。
「何か、置いていかれたみたいだぞ」
 シロツメクサは、手の中に、それを乗せた。開きかけた蕾の形をした手の中に乗せたそれを、黙って俺に見せた。それはシロツメクサの手の中に収まるほど小さく、可愛らしいものだった。猿を象った帯留めだった。
「気が付かなかった……」
 シロツメクサは、たいして嬉しそうな顔もせずに、光る猿を、目の上に翳した。
「綺麗ね」
「くれたのだろう」
 シロツメクサは、躊躇うように猿の帯留めを持ったまま、俺を見た。背は、あまり伸びなかったようだが、大分伸びた髪を、色のあせた布できつく縛っている。顔立ちも、少し変わったようだった。
「クロは?」
「呼んできます」
 シロツメクサは家の中に上がりかけたが、クロは、もう縁側まで来ていた。寝て、起きたばかりの顔でもなさそうだった。
「いらっしゃいましたね」
 そう言って、低く、柔らかな音を立てて笑った。
「クロも、隠れていたのか」
 俺も笑ったが、クロは、答えなかった。ただ、黙って微笑していた。その表情が、隠し事めいて見えて、俺も、笑うのをやめた。シロツメクサは、縁側から家の中に上がって、台所で、茶の準備でもしてくれているらしかった。
 台所の方で、シロツメクサが立てる、隠れるような、小さな物音が聞こえた。
 どこからか落ちてきた、赤く染まった紅葉が、俺の肩の上を滑った。
 
 この国では、何でも縁起物にしてしまう風習があるが、猿もその一つで「さる」という語呂から「難が去る」という縁起物とされていると聞く。また、「勝る(ま、さる)」とすると「悪運が去る」と結び付けて「魔が去る」。「猿」という字は「えん(縁)」と読むこともできるということから「良縁の象徴」ともされている。
 とはいえ、求婚には櫛や簪を贈るのが一般的と言われているから、青年から猿の帯留めをもらったところで、それをすぐに、シロツメクサへの求婚の意と認めてやることも、尚早だろう。第一、青年やシロツメクサに、その気があるのかも、分からなかった。また、このような贈り物をするからには、青年は、シロツメクサの身の上を、詳しくは知らないのだろう。
 もし青年の方に、シロツメクサをもらおうとする気があったとしても、シロツメクサの身の上を知れば、身を引くのではないかと思われた。また、青年が身を引かずとも、青年の家族が、青年を引き留めるだろうと思われた。
 青年は、麓の商家の息子で、その次男坊だということを、俺はシロツメクサではなく、クロから聞いた。去年か、一昨年あたりから、家業の手伝いの合間に、ちょくちょく顔を見せに来るのだ、と聞いた。
 これはどうやって使うのか、というシロツメクサの問いかけに、クロは、帯紐につける飾りだと、答えた。
「後で、使ってみるといいでしょう。可愛らしい飾りです」
「……何かくれるのなら、野菜の種か、食べ物が良かった」
 シロツメクサは素っ気なく答えて、小さな爪の先で、猿の帯留めをつついた。笑っているような、お道化たような表情をしている、猿だった。
「あの男は、シロに会いに来るのだろう」
 シロツメクサが風呂に入った後、俺が言うと、クロはそっぽを向いて、それを振り払うような顔をしてみせた。
 シロツメクサが来たとき、クロは、名前もない、生気もない、供物の少女を前にして、困った、という顔を隠さなかった。そもそも、亀のように長生きの癖に、自分の感情を、隠そうと思って、隠せるような男ではなかった。
「シロツメクサは、お前の嫁だろう」
 意地悪い口調で言っても、クロは、黙っていた。ただ、傷ついたような表情をしていた。
「……手放すつもりか。欲しいと言われたらくれてやるつもりの嫁か」
 クロは、やはり黙っている。
 シロツメクサ、と自分で名付けながら、シロツメクサ、と呼ぶことは、滅多にない。シロ、シロ、と、犬を呼びつけるように、簡単に呼ぶ。供物を押し付けられても、嫁などもらったことのない男だったから、シロツメクサと名付けた少女を、常にどこか、持て余しているようだった。
 けれど、こいつなりに、シロツメクサのことを、大切にしていたらしい。
 いつからかは分からないが、大事に、思っていたのだ。
 押し付けられた、嫁ではなく。

「なぁ、シロ……シロツメクサよ、お前、幾つだよ?」
 俺が訊くと、シロツメクサは縫いかけの羽織を膝の上に置いて、指を掌の中に折って、一つ、二つ……と、勘定を始めた。
「十八です」
「何だ」
 少し、拍子抜けをした。
「そんなものか」
「ここに来て、十一年ですよ」
「連れて来られたのだろう」
「……そんなもの、ですか」
「そんなもの、だ」
 柔らかげに笑うシロツメクサの表情が、クロに似ていないでもない。俺は座布団の上に肘をついて、掌で頭を支えて横たわったまま、シロツメクサを見上げた。
「俺の煙管は、どこだったかな」
「煙草なんて……」
「嫌いかい」
「嫌いではないけれど……」
 煙管は、俺の敷いていた座布団の下にあった。俺は座布団の下に手を潜り込ませて煙管を取ったが、煙草は吸わないで、手の中で羅宇をクルクルさせた。シロツメクサは、糸を通した針を、針山の上に刺して、俺を見て何か訊きたそうにした。やや、間があったが、スッキリと、よく通る声だった。
「結婚、していたのですか」
 俺は、煙草の入っていない煙管の吸い口を、噛んだ。そのまま、暫く、というほどでもなく、黙っていた。
「……クロか」
 煙管を噛んだまま、もぐもぐと、俺は言った。シロツメクサは、答えなかったが、俺には、その答えが、分かるようだった。
「クロだな」
 今度は、はっきりとした声で、シロツメクサは答えた。
「はい」
 俺は、口から煙管を離して、シロツメクサを見た。腹を立てるほどでもなかった。
「桜の木の下に、捨てられていた」
 淡々とした口調に、内心、安堵していた。
 シロツメクサは、その意味を、自分なりに考えようとするようだった。
「……供物だったのですか?」
「言っただろう。捨てられていた。桜の木の下に」
 抱き上げると、小さな拳で、顔を叩いてきた。言葉で訴えるように、命で訴えるようだった。内に収まらない命で、燃えるような、小さな体だった。
「今ほど、捨て子は珍しくなかった。捨て子は丈夫に育つっていう言い伝えまであって、生まれた赤ん坊を庭先に捨てて、後から家人に拾わせることもあった時代だ」
 実の親には、何か育てられない事情があって、捨てたのか。ただ、育てるのが面倒で捨てたのか、分からなかった。捨てられた赤ん坊を、拾って、屋敷に連れ帰って、乳の出る女に、母乳を与えさせた。
 桜の木の下に捨てられていた赤ん坊は、当たり前の人間のように、乳を吸って育ち、長じて、何がきっかけだったか俺と夫婦と呼ばれる関係になった。そして、当たり前の人間がそうであるように、老いさらばえて、死んだ。
 俺より先に死ぬだろうということは、分かっていた。だから、俺に拾われて、俺の妻と呼ばれるようになったその女が死んでも、俺は悲しくなかった、と言うべきなのだろうか。俺が本当に、女に情を抱いていたというのなら、無理矢理にでも、生かすべきだっただろうか。面倒でも、人里で女と添うべき男を見つけて、夫婦にしていたら、女は幸せだったろうか。自分の子どもを、抱くこともあっただろうか。俺の目の届かない場所で、女は女なりに、幸せになることが出来ただろうか。手放す、べきだったろうか。
 女を幸せにしてやろうと、俺は一度でも、思ったことがあったか。
 衣擦れの音がした。
 シロツメクサは、俺に向かって、少し、身を乗り出した。黒目が潤んで、光っている。
「私とクロも、夫婦ですよね」
 細い喉をそらしていた。浅黒い肌だったが、喉元は、他の場所より白く、滑らかだった。俺に訴えるよりは、自分の、芯と呼ばれるような深いところに言い聞かせるような、囁きだった。
「私は、クロに捧げられた、供物ですもの」
 俺は、何か答えようとして、答えられなかった。代わりに、喉の奥が微かに震えて、呻くような音が出た。
 俺が答えられなかったのは、クロの代わりに答えるのを躊躇ったのではなく、俺の妻と呼ばれるようになった、桜の木の下の赤ん坊の方に、意識が向いていたからだった。そちらを向けと、風が吹いたように。
 長じて、死んだ、俺の妻と呼ばれていた人間の女の体は、自分が赤ん坊のとき捨てられていた、桜の木の下に埋められた。埋めたのは、俺だった。手で、穴を掘って、深い場所に、埋めた。
 冷たい土だった。今も、その冷たい土の下にいるのか、掘り返して、確かめようとも思わない。
 どうせ、骨さえも朽ちている。
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