名前を持たない君へ

くるっ🐤ぽ

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いぶし銀の章

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 別に、隠していた、というほどのことでもなかったが、屋敷の連中は「めでたいこと」を嗅ぎつけた。クロは、めでたいことなのだから、祝ってもらうのは嬉しいとのんびり言っていたが、屋敷の連中は飲んで歌って食って騒ぐ気配を嗅ぎつけただけで、祝ってやろう、と思っている風でもないのだから、わざわざありがたがる必要もない。
 山奥のクロの家で、派手な衣装を着て祝い事の真似をするよりは、広い屋敷を使って、大勢で騒いで、美味い食い物を食って美味い飲み物を飲む方が、めでたい、という感じがして良かろうと、屋敷の連中がクロとシロツメクサに言い寄ったので、結婚式と銀婚式を、まとめて俺の屋敷でやることになった。その様々な準備の為に、クロとシロツメクサは、数日前から俺の屋敷にいた。
 俺たちが過ごすのは、昔、何某とやらが暮らしていたとされる屋敷で、その、何某とやらが、偉く優秀だったために人の妬みを受けて、いわれのない罪を着せられて、家族ともども流罪の憂き目にさらされた。すると、その何某が死んだ後、不吉なことが都でたびたび起こったので、これは何某の怨霊の仕業に違いないと、その霊魂を鎮める為に徳の高いと言われていた坊主が呼ばれた。
 曰く、その何某の怨霊がこの地を呪うのは、帰る「家」を失った為である。すぐに何某とその一族の為に「家」を建て、その荒れ狂う御霊を、祀りたまえ、と。耳を傾ける者たちが、震えあがるような声だった。
 言われた者たち、特に、優秀だった何某を陥れた者たちは怯えた。その上、後ろめたかった。坊主に言われるまま屋敷を建てて、何某にナントカという難しい名前をつけて、神として祀り上げた。以来、この地は酷く荒れることもなく、平穏な時を過ごしている、という話だった。
 けれど、やがてその出来事も遠ざかり、過去になり、昔話になり、子どもの寝物語になり、やがて、人間でも獣でもない山の主と呼ばれるものが棲みついて、今は俺の屋敷となっている。
「あなたの以前の、その、山の主と呼ばれる人が、捧げられた娘をお嫁さんにしたのですね」
 クロが、俺の話を簡単に纏めてしまった。
 まぁ、そういうことである。
「けれど、その何某という人を祀り上げて平和になったのに、人間を供物に捧げるとは、少し、妙ですね」
「大きな災害はなかったといっても、ちょっとした山崩れとか、日照りとか、あらゆる災害が、全くなくなった、というわけでもないだろう。何か悪いことが起こると、これはあそこに祀られた、何某様のお怒りじゃ、ということになるわけだ」
 俺の説明に、クロもシロツメクサも、納得したようだった。昔は、水害が起きれば水神様のお怒りということになり、山で災害が起きれば山の神様のお怒りということになってしまった。
 全ての災いは、怨霊の祟りか、神の怒りのせいで済まされてしまった。そのたびに食料か、人間か、財宝か、手を合わせてお祈りか。とにかく、何かを捧げればいいのだと言われていたのだから、怨霊だの神様だのと仰々しく言われてはいても、安く見られたものだった。

 俺たちのようなものは、人間のようにきっちりと、しきたりを重んじ過ぎる、ということはない。それでも、三々九度の盃くらいは交わす。
 屋敷の連中は、思いのほか静かにしていたが、紋付袴のクロが、三度目の盃を飲み干すと、それまで黙りこくっていた使用人の一人が、大きな声を上げた。
「ほゥッ!めでたや、めでたや」
 キィキィと鳴るような、甲高い声だった。隣にいた別の使用人が、その者を叱ったが、その声が却って響いた。堪えきれないような忍び笑いが、聞こえて、それがまた別の誰かに移って、小波のように寄せては返した。大体、思っていた通りのことになってしまいそうな予感がしたが、クロもシロツメクサも、気を悪くした風でもなかった。
 シロツメクサは、深くなっていく夜よりは朝を迎えようとする夜を思わせる、黒い打掛を着ていた。一見しただけでは分からなかったが、予め注文していた通り、白詰草と菫が複雑に絡み合った文様が、裾の方に施されている。クロが着ている羽織の紋も、白詰草と菫だった。
 いつもぼんやりとした表情を浮かべることが多いクロだったが、今日はさすがに緊張した様子で、三々九度の最初の盃を交わすときも、手が震えて、落ちそうだった。それでも、三度の盃を飲み干した後の騒ぎで、幾分か硬いものが解れたのか、今は和らいだ表情を浮かべている。
 婚礼の儀の後は、お色直しがあって、そのまま銀婚式のお祝いだった。夕焼けを思わせる赤い色打掛の、裾を引きずりながら現れたシロツメクサに、見ていたものたちは、待っていました、とばかりに手を叩き、盃を飲み干し、歌を歌った。大分、陽気な騒ぎになってきた。
「いやはや、お前さまがこんな良い奥さんをもらうとは思わなかった」
 三々九度の盃のとき、キィキィと甲高い声を上げて叱られていたものが、静かに料理を口に運ぶシロツメクサの顔を、無遠慮に覗き込みながら言った。そうして、クロもシロツメクサも何とも言わないうちに、独り言を呟いた。
「良い奥さんじゃなぁ……」
 シロツメクサはただ、ニコニコとしていた。
 勘定すると、シロツメクサは三十を越している。髪が伸びて、背も伸びて、深い色になった肌には白粉も殆ど叩かず、地の浅黒い深みのある色が透けて見える。ただ、肌の色に馴染む紅を、そっと塗っているらしいのが、鮮やかだった。幸福なのだ、と思った。
「いやはや、お前さまたちのおかげで、儂らは美味いものが飲める、食える、騒いで歌うことができる。ええことじゃ。楽しい、楽しい……ところで、その衣装の柄は、何じゃ?梅でも牡丹でもないようじゃ……」
「白詰草と、菫ですよ」
 クロが、穏やかに答えた。
「地味な花じゃ。しかし、ちっともそうは見えぬ」
「大好きな花なのです」
「そうかぁ?」
「ところで、三々九度に使った盃は、持って帰ってもよろしいでしょうか?」
「おう、構わん」
 キィキィ声のものは、自分のものを投げ出すように、軽く言った。
「後で何か包むものでも持ってこさせよう。記念にするのか」
「それもあります……」
 クロは、何か言いかけて、結局、やめたらしかった。
「いえ、それだけです。ありがとうございます」
「ハハハ……おや?お嫁さん、あなた盃の中身がちっとも減っとらん。めでたい席じゃ、それ、ぐぅっと……」
 クロは、シロツメクサの朱塗りの盆の上から、盃を手に取って、飲み干した。キィキィ声のものは、すっかり喜んでしまったようだった。
 後で聞いたところによると、シロツメクサは、酒、というものをまるで受け付けない体質らしく、三々九度の盃も、盃の縁に少し唇をつけるだけで、中の酒に口をつけることはしなかったらしい。

 そしてこれも、クロに後から聞いた話だった。
 シロツメクサと、三々九度の盃を交わしたときその縁に、シロツメクサのつけていた紅の色が移っていた。それが、血よりも濃い印に思われた。その印が、自分たち以外の誰かに触れられたり、洗われたりするのが、切なく感じられた。
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