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終章
女
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昔のことばかり話すのね、と横たわる女はおかしそうに言った。体から、管が伸びている。
「おかしい、ですか」
男は、笑った。特別優しく笑うのでも、悲しそうに笑うのでもない。ただ、昨日の続きのように、何気なく笑う。その肌は白い、というよりは、青く浮かび上がるような色をしていた。燃えるような黒髪が、伸びるままに任せた女の白い髪とは、対照的だった。
女は、深く、息を吸った。
「おかしいわ」
何気ない、言葉でありながら、女の命を削る言葉だった。
「もっと、他にあるでしょう。幾年待ったと思っているの」
「そうでしょうか」
青い男は、困った顔をして、本当に困っている。
会いたい、と思ったのは七つになるか、ならないかだったと思う。
「私、ずっとあなたに会いたかったのよ」
会いたくてたまらなくなって、衝動的に家を飛び出したことがある。大人しく、待っている、ということを知らない子どもだった。大体、大人しく待って、それで会いに来てくれるような、男だとも思わなかった。女と男が離れてから時代は進んで、遠くに行くための手段は幾つも生まれていた。けれど、そのための知識やお金を、女は持っていなかった。行く先々で、たびたび迷子になった。以前、男と暮らしていた山が分からず、困った末に交番の警察官に声をかけても、結局どう説明すればいいのか分からなくて、いたずらだと思われた。一人でバスに飛び乗って、隣町どころかその向こうの町まで行ってしまって、お金もなければ頼れる大人もいなくて途方に暮れた女を、父は真っ青な顔をして迎えに来てくれた。家に帰ると、母は怒ったような顔をしていて、けれど、何も言わずにきつく女を抱きしめた。そして女は、自分の「両親」と呼ばれるこの人たちを、心配させてはならない、と思った。けれど、いつかは男に会わなければならない、と思っていた。会いたい、という願いは、会わなければならない、という意思に変わっていたのだ。
「結婚、しないかと言ってくれた人がいたのよ」
部屋の隅に立って、近づくべきか、遠ざかるべきか分からない、というような、困った顔をした男を、ちょっとからかうつもりで、女は言った。
「結婚、しなかったのですか?」
男の言葉に、女は呆れた。
「馬鹿ね、私、あなたの妻じゃないの」
「そうですね」
男は、明らかにホッとしたように言った。
優しいその人は、大切な人がいるのだ、と言った女に、どんな人かと、問うた。会いに来て欲しいと思っても、会いに来てくれない人だ、と女は答えた。同じ場所に留まって、時が過ぎていくのを、ぼんやりと眺めているような、そんな、呑気な人なのだ、と。
「私、あなたと暮らしていたあの場所に、行ったのよ」
会いたかった。会って、久しぶり、と言いたかった。美しく育った自分の姿を見て欲しかった。どちら様でしょうか、とキョトンとした顔で首を傾げる男を想像すると、おかしかった。
けれど、そこには何もなかった。
くねった大木の幹に、菫が咲いていた。
「今思うと、あのとき、既にあなたはあの場所にいなかったのね」
「はい」
男は死んだのだろうか、と女は思った。何も知らないような菫の花に触れて、何もなかったような地面に頬を寄せて、かつて、そこにいた男の匂いを嗅ごうとした。
「あなたが、もう少し待っていてくれていたら、私たち、もっと早く会えたのよ」
「そうでしょうか……」
男は、半ば眠りかけているような声で言った。
「申し訳ありません。けれど、私も会いたかったのです」
「あなたに、そんな心があるの?」
「あります」
失礼な、と言いたげに、男の声が急にはっきりとした。
「あります。あります。……会いたいも、辛いも、悲しいも、苦しいも」
男が、女の傍に寄った。
「今でも愛しているから、会いたかったのです」
男が、女の髪を梳いた。螺鈿細工の櫛が、光る。
「私の他にも、愛した人がいたのでしょう」
「いました」
「その人たちにも、会いたいと思う?」
「会えるものなら、会いたいです」
女の髪を丁寧に梳きながら、男は正直に答えた。長く生きているが、嘘や誤魔化しというのが、苦手だったのだ。
「けれど、その人たちが愛したのは、私ではありません」
男は、言った。
「私があなたを愛して、あなたも私を愛してくれたから、また会いたいと、思ったのです」
女は、小さく笑った。
「私、あなたのことを愛している、なんて言ったことがあったかしら」
「……私はあなたを愛しているのですが、あなたは違うのでしょうか?」
男は、不安そうな目つきで、女を見た。
「いいえ、愛している」
「私も愛しています」
男は、女の白い髪を、手首に優しく巻き付けた。
「ずっと、会いたかったのです」
女がほほ笑むと、目が溶けたと思った。それは一瞬のことで、熱はコロリと丸く固まって、女の目元の皺を辿って、男の指に落ちた。男はそれを唇に運んで、そっと吸った。
「私、今でこそこんなお婆ちゃんだけれど、若い頃はなかなかの美人だったのよ」
「今も美人です」
「若い、大人の女の人の姿で会いたかったわ」
「そうなのですか」
「もっと早く会えたら良かったわね」
「はい。もっと早く会いたかったです」
男の手と、女の手が、重なった。
よく煙管を咥えていたあの客人は、会いたい人に会うことができただろうか、と思った。
「クロ」
女は、男に言った。
「はい」
答えた男に向かって、女は殆ど見えない目を、大きく見張った。
「見つけて」
強く言ったと思った言葉は、弱弱しく、掠れた。
「今度は、もっと早く見つけて……名前を呼んで」
「はい」
シロツメクサ、と呼ばれた気がした。
男の声も、姿も、匂いも、遠くなっていく。不意に、何か温かいものが、女の頬に触れた、と思った。それが、あまりに優しく、愛しく感じられたから、女は声を上げて泣きたくなった。
そして、女は死んだ。
百年が、過ぎていた。
「おかしい、ですか」
男は、笑った。特別優しく笑うのでも、悲しそうに笑うのでもない。ただ、昨日の続きのように、何気なく笑う。その肌は白い、というよりは、青く浮かび上がるような色をしていた。燃えるような黒髪が、伸びるままに任せた女の白い髪とは、対照的だった。
女は、深く、息を吸った。
「おかしいわ」
何気ない、言葉でありながら、女の命を削る言葉だった。
「もっと、他にあるでしょう。幾年待ったと思っているの」
「そうでしょうか」
青い男は、困った顔をして、本当に困っている。
会いたい、と思ったのは七つになるか、ならないかだったと思う。
「私、ずっとあなたに会いたかったのよ」
会いたくてたまらなくなって、衝動的に家を飛び出したことがある。大人しく、待っている、ということを知らない子どもだった。大体、大人しく待って、それで会いに来てくれるような、男だとも思わなかった。女と男が離れてから時代は進んで、遠くに行くための手段は幾つも生まれていた。けれど、そのための知識やお金を、女は持っていなかった。行く先々で、たびたび迷子になった。以前、男と暮らしていた山が分からず、困った末に交番の警察官に声をかけても、結局どう説明すればいいのか分からなくて、いたずらだと思われた。一人でバスに飛び乗って、隣町どころかその向こうの町まで行ってしまって、お金もなければ頼れる大人もいなくて途方に暮れた女を、父は真っ青な顔をして迎えに来てくれた。家に帰ると、母は怒ったような顔をしていて、けれど、何も言わずにきつく女を抱きしめた。そして女は、自分の「両親」と呼ばれるこの人たちを、心配させてはならない、と思った。けれど、いつかは男に会わなければならない、と思っていた。会いたい、という願いは、会わなければならない、という意思に変わっていたのだ。
「結婚、しないかと言ってくれた人がいたのよ」
部屋の隅に立って、近づくべきか、遠ざかるべきか分からない、というような、困った顔をした男を、ちょっとからかうつもりで、女は言った。
「結婚、しなかったのですか?」
男の言葉に、女は呆れた。
「馬鹿ね、私、あなたの妻じゃないの」
「そうですね」
男は、明らかにホッとしたように言った。
優しいその人は、大切な人がいるのだ、と言った女に、どんな人かと、問うた。会いに来て欲しいと思っても、会いに来てくれない人だ、と女は答えた。同じ場所に留まって、時が過ぎていくのを、ぼんやりと眺めているような、そんな、呑気な人なのだ、と。
「私、あなたと暮らしていたあの場所に、行ったのよ」
会いたかった。会って、久しぶり、と言いたかった。美しく育った自分の姿を見て欲しかった。どちら様でしょうか、とキョトンとした顔で首を傾げる男を想像すると、おかしかった。
けれど、そこには何もなかった。
くねった大木の幹に、菫が咲いていた。
「今思うと、あのとき、既にあなたはあの場所にいなかったのね」
「はい」
男は死んだのだろうか、と女は思った。何も知らないような菫の花に触れて、何もなかったような地面に頬を寄せて、かつて、そこにいた男の匂いを嗅ごうとした。
「あなたが、もう少し待っていてくれていたら、私たち、もっと早く会えたのよ」
「そうでしょうか……」
男は、半ば眠りかけているような声で言った。
「申し訳ありません。けれど、私も会いたかったのです」
「あなたに、そんな心があるの?」
「あります」
失礼な、と言いたげに、男の声が急にはっきりとした。
「あります。あります。……会いたいも、辛いも、悲しいも、苦しいも」
男が、女の傍に寄った。
「今でも愛しているから、会いたかったのです」
男が、女の髪を梳いた。螺鈿細工の櫛が、光る。
「私の他にも、愛した人がいたのでしょう」
「いました」
「その人たちにも、会いたいと思う?」
「会えるものなら、会いたいです」
女の髪を丁寧に梳きながら、男は正直に答えた。長く生きているが、嘘や誤魔化しというのが、苦手だったのだ。
「けれど、その人たちが愛したのは、私ではありません」
男は、言った。
「私があなたを愛して、あなたも私を愛してくれたから、また会いたいと、思ったのです」
女は、小さく笑った。
「私、あなたのことを愛している、なんて言ったことがあったかしら」
「……私はあなたを愛しているのですが、あなたは違うのでしょうか?」
男は、不安そうな目つきで、女を見た。
「いいえ、愛している」
「私も愛しています」
男は、女の白い髪を、手首に優しく巻き付けた。
「ずっと、会いたかったのです」
女がほほ笑むと、目が溶けたと思った。それは一瞬のことで、熱はコロリと丸く固まって、女の目元の皺を辿って、男の指に落ちた。男はそれを唇に運んで、そっと吸った。
「私、今でこそこんなお婆ちゃんだけれど、若い頃はなかなかの美人だったのよ」
「今も美人です」
「若い、大人の女の人の姿で会いたかったわ」
「そうなのですか」
「もっと早く会えたら良かったわね」
「はい。もっと早く会いたかったです」
男の手と、女の手が、重なった。
よく煙管を咥えていたあの客人は、会いたい人に会うことができただろうか、と思った。
「クロ」
女は、男に言った。
「はい」
答えた男に向かって、女は殆ど見えない目を、大きく見張った。
「見つけて」
強く言ったと思った言葉は、弱弱しく、掠れた。
「今度は、もっと早く見つけて……名前を呼んで」
「はい」
シロツメクサ、と呼ばれた気がした。
男の声も、姿も、匂いも、遠くなっていく。不意に、何か温かいものが、女の頬に触れた、と思った。それが、あまりに優しく、愛しく感じられたから、女は声を上げて泣きたくなった。
そして、女は死んだ。
百年が、過ぎていた。
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