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深澄
五
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ヒグラシは、翌日になればどこからともなく姿を現すものだと、深澄は思っていた。バスの停留所で、或いは校門の前に立ち、深澄に例の、疲れたようなしゃがれ声で「よぉ」と声をかけてくるものだと思っていた。もしくは、家の玄関の前に立っていて「よぉ」と言うものだと思っていた。その為の心準備もしているつもりだった。
しかし、その日は特に何事もなく一日を過ごした。着物の母が作る料理も口にした。家事も手伝った。バスに乗って学校にも通った。美術部の活動もいつも通り行った。その翌日もそうだった。そうして、このまま日常に戻りつつあることに安堵するどころか、深澄は漠然とした不安を感じて、ヒグラシに会いに行かなければならない必要を感じた。
日曜日、深澄は母に知り合いのところに出かけてくることを告げて、家を出た。ヒグラシとは、互いに名乗り合った仲なので、知り合いというのも、まぁ、嘘ではないわけだった。深澄の母は、いってらっしゃい、とニコリと笑った。その日母は、薄青の着物に、濃い群青色の帯を締めていた。深澄の元に現れて以来、母は一度も同じ着物を着ていない。母がどうして、どこにそんなに多くの着物を持っていたのかも、謎だった。
前回は、ヒグラシからの接触による邂逅だった。「めぐりや」という店に行けば、会えるのだろうが、深澄はどこのバスの停留所で降りたのか忘れてしまっていた。スマートフォンで地図アプリを開いて、「めぐりや」という店に辿り着けるのかも、確証はなかった。
と、思ったら、あっさりと辿り着いた。地図アプリで「めぐりや」と検索すれば、自宅からの道順や交通手段、営業時間までが懇切丁寧に書かれていた。ヒグラシ本人が言っていたように、修理屋、と紹介されていた。
店の前には、車が停まっていた。店の扉を押し開けると、ヒグラシがお客らしい老人の対応をしているのが見えた。老人の傍には、小学生くらいの女の子が立っている。爪先立ちになりながら、カウンターに乗せられた箱の中を覗き込もうとするような仕草だ。
ヒグラシはいつもよりは丁寧に銀髪をまとめていて、顔を出して、眼鏡までかけていた。ヒグラシは、きちんとアイロンがけしたらしいシャツの前にエプロンを着て、手袋をしながら箱の蓋を慎重そうに開けた。女の子が、微かに息を呑んだ気配がした。深澄も、老人と女の子の後ろにそっと立ちながら、箱の中を覗き込んだ。
それは、深澄が初めてこの店に来たときに目を奪われた、振袖の少女の人形だった。ただし、あの時深澄が見たときよりも、表情が柔らかくなり、目は艶々と、生きて輝いているようだった。
「ああ、そうです。そうです。女房と買ったばかりの頃のようだ。懐かしいなぁ」
老人は嬉しそうに何度も頷き、ヒグラシに礼を言った。女の子は貪るような目つきで、人形を見つめていた。深澄も、人形を見つめながら、ドキドキとしていた。輝く黒曜石に似た目に惹きつけられる。可憐な唇が弧を描き、薄紅色の頰がふっくらと動くようだった。
老人はヒグラシに代金を渡すと、元のように蓋を閉ざされた箱に、その中に入った美しい少女の人形を想像して、触れようか、触れまいかとするように迷う動作をして、大切そうに人形の入った箱を腕に抱いて、ヒグラシに礼を言って店を出た。女の子はジィッと、熱の籠もった目つきで老人の抱える箱を見つめていた。車のエンジン音がして、やがて二人は去って行った。
「よぉ」
疲れたようなしゃがれ声がして振り返ると、ヒグラシが立っていた。眼鏡を折り畳み、エプロンのポケットに仕舞っている。薄い唇の端が、少し曲がっているのが皮肉っぽい。
「こんにちは。意外です」
深澄はいきなり言った。
「何が?」
「ちゃんと、接客するんですね。髪型も違う」
「印象っていうのは大事だぜ?仕事っていうのは、信用が第一だからな」
「最初に私に会ったときも、二度目のときも、そんなことを感じさせる格好はしていなかったと思いますけど」
「最初のときは、仕事じゃなかったからな」
「二度目は?」
「気を遣って欲しかったか?」
「そういうわけじゃないけれど」
深澄は、ヒグラシの思っていたよりも端正で、どこか中性的な儚さの漂う顔立ちや、パリッとしたシャツやエプロンを、改めて見つめた。
「……何というか、ガッカリです」
ヒグラシは、ヒョイと片眉を上げた。
「お前にガッカリされる覚えはないがね」
「それでも、意外です。ヒグラシさんは、人目を気にするような人じゃないと思っていたから」
ヒグラシが目を丸めたのを見て、深澄は、このとき初めて、自分がヒグラシの名前を呼んだことに気がついた。ヒグラシは、目を丸めたまま、大きな音に驚いた猫のように、暫く沈黙していた。自分の名前を、呼ばれ慣れていないような顔だった。深澄は、何となく気まずかった。
「えっと、さっきのお客さんは……」
先に口を開いたのは、深澄の方だった。
「あー……残念だったな、振袖娘が持っていかれて」
ヒグラシは、段々といつもの彼自身を思い出そうとするかのように、瞬きを繰り返しながら、どこかぎこちなく言った。深澄は、ヒグラシが、深澄が振袖の少女の人形に惹きつけられていたのを、覚えていたことが意外だった。
「あのおじいさんが、修理をお願いしたんですか?」
「まぁな」
「あの、一緒にいた女の子が、人形を壊してしまったんですか?」
「いや、人形を壊したのはあの子の弟だよ。普段は別々に暮らしているらしいけれど、人形の修理が終わったからって、わざわざ見に来たらしい」
「偉いですね。まだ、小学生くらいでしょ」
「お前だって、そうしてると小学生くらいに見えるぜ」
ヒグラシは、段々といつもの調子を取り戻していくらしく、口調が滑らかになり、無礼になっていった。
小学生、と言われて深澄はムッとした。同年代の少女たちに比べて小柄で華奢な深澄は、制服を着ていないと実年齢より幼く見られることが、実際度々あったのだ。それを分かっているから、私服も出来るだけ、大人びたデザインのものを選んでいるが、それでも、小学生に見えてしまうのだろうか。
「貪るように見てたな、あの孫」
ヒグラシは、ムッと顔を顰める深澄には頓着せず、涼しい顔でカウンターに寄りかかりながら言った。
「そりゃあ、綺麗な人形でしたから」
「取り憑かれているのかもな、人形の魂に」
ヒグラシは涼しい顔のまま、恐ろしいことをサラリと言った。深澄の方が、背筋がゾゥッと寒くなるくらいだった。確かに、今思えば、あの女の子が人形を見る目つきは、尋常じゃなかった気がする。
「取り憑かれていたら、どうするんですか?」
「神社か寺で、お祓いだろ」
ヒグラシはどうでも良さそうな口調で言った。深澄は、奇妙な脱力感を感じた。
「それで?」
ヒグラシは、深澄を見て、スッと目を細めて、また元の大きさに開いた。元々、あまり大きな目ではないが、それが更に細められると、射るような鋭さを帯びて光った。
「俺に何か?」
深澄は、キュッと唇を結んで、眼鏡の奥の目を見開いて、ヒグラシの切れ長の目を真っ直ぐに見つめるのは避けて、その形の良い眉と眉の間を見つめた。眉毛の色まで、髪と同じく銀色だった。
「何かって、ヒグラシさんが近々私の母に会いに来ると言っていたのに、ちっとも来ないから」
深澄が、再びヒグラシの名前を呼ぶと、ヒグラシは先ほどのような動揺は見せず、ただ、ゆっくりと肩を動かした。
「災いでも起こったか?」
からかうような、ヒグラシの口調だった。
「勉強が上手く捗らなかったり、授業で失敗したり、上から植木鉢が落っこちてきたり?」
「そうじゃなくて」
深澄は、肺の隅々まで酸素を行き渡らせるように深く息を吸って、頭のてっぺんから爪先までの血液の流れを確かめるように、息を吐いた。
「そうじゃなくて、お願いがあって来たんです……本当は、こういうのはすぐに言わなきゃいけないことなんだろうけれど」
「何だよ?」
ヒグラシが、いつもの細長い包みを持っていないことに微かに安堵しながら、深澄は言った。
「マサキって人を探してくれませんか?」
「マサキ?」
ヒグラシは首を傾げた。
「何故?」
「母にとっての、多分、大切な人なんです」
「お前の、『蘇った』母のか?」
深澄は、ヒグラシの『蘇り』とか、『蘇った』という言い方が嫌だった。他に、言いようがなかったとしても。
ヒグラシは、そんな深澄には頓着しない様子だった。
「……性別は?」
「多分、男の人」
「年齢は?」
「多分、成人しているか、私と同じくらい……」
「苗字は?」
「……分かりません」
「どんな字を書く?」
「それも……」
「そういうのって、探偵や警察の役目じゃないのか?」
「分かってるんです、それは」
キッと、深澄はヒグラシの眉間ではなく、目を見た。
「けれど、マサキって人に、母は会いたいんじゃないかと思うんです」
「何故?」
「だって、ヒグラシさんは母を斬ると言っています。『蘇り』だからって。だったらせめて、未練がないように」
「未練っていうのは人間が勝手に共感したつもりになって、勝手に作り出した言葉だよ」
ヒグラシは厳しく言った。もう、深澄から名前で呼ばれても、動揺を見せるつもりはないようだった。
「それに、俺の何故?への答えになっていない。何故、お前はその母とやらとマサキという人物を会わせたい?」
「それは……」
深澄は、再び深く呼吸した。肺の隅々まで酸素を行き渡らせるように息を吸い、頭のてっぺんから爪先までの血液の流れを確かめるように。
「母は、私の兄のことを、マサキくんって呼んでいます。けれど、兄の名前は勝己です。己に勝つ、で勝己」
ヒグラシは黙っていた。
「母は、私のことは深澄ちゃんって呼んでくれます。けれど、兄のことはマサキくん。妙じゃありませんか?」
「つまり?」
「つまり……」
深澄は、段々と顔が赤らんでくる自分に気がついていた。
「つまり、母にとっては、マサキという人は、それだけ大きな存在の人物ということです。娘の……娘だと思っている私と同じくらい、大切な存在なんです」
「それで、俺にマサキ探しをしろ、と?」
ヒグラシは、意地悪そうにニヤリとした。それだけでなく、ゾッとするような威圧感があった。怒っているわけではないのだろうと、何故かそう感じた。ただ、試されている。深澄の中の、例えば、覚悟と呼ばれるものを。
「あなたにとっては、ただ斬るべき対象だったとしても、私にとっては母なんです」
深澄は、ヒグラシから目を逸らさないまま言った。
「私は、母の作った料理を食べました。母と何気ない会話をしました。母の家事を手伝うこともありました。『蘇った』母との暮らしは、普通じゃなかったけれど普通で」
ヒグラシは、もう意地悪そうな表情をしていない。無表情に近い表情で深澄を見ている。ただ、威圧感はそのままだった。
「とても、幸せだったんです」
幸せ、と口にした途端、それは、酷くあっけなく脆く壊れやすいものに感じられて、けれど、リンゴがストンと落っこちてくるように、とても自然なことに感じられた。
「だから、母にマサキという人を会わせてあげたい。母にとっては、多分、とても大事な人だから」
「……厄介なことを考えるな、お前は」
ヒグラシは、容赦のない口調で言った。
半ば、分かっていたことではあったけれど、深澄の身は竦んだ。体の震えを抑えるように、体の両脇で、ギュウ、と拳を握りしめる。
「そのマサキという奴がどんな人間か分からない。性別、年齢、共に不詳。苗字や、どんな字を書くのかも分からない。生きているのか、死んでいるのかも分からない」
「生きています」
これといった根拠もなく、ただ、強い声で深澄は条件反射のように言った。
ヒグラシは温度を感じさせない口調で言った。
「生きていたとしても、今どんな状態か分からない。もしかしたら、刑務所にいる極悪人かもしれない。会わなきゃ良かったと、後悔するかもしれない」
深澄の喉が、急激に渇いてきて、こめかみから嫌な汗が滲んだ。足に力を入れていないと、今にも倒れてしまいそうだった。
「それでも、マサキに会わせてやりたいと?」
「はい」
「分かった」
「え」
拍子抜けするほどあっさりと、ヒグラシは言った。同時に、威圧感もなくなり、深澄は随分と呼吸が楽になった。
「何だよ」
ヒグラシは、深澄の反応が不本意そうだった。
「マサキに会わせてやるって言ってるんだよ。めんどくせぇけど」
「あ……ありがとう、ございます」
「やめろやめろ、ゾッとする」
頭を下げようとする深澄に、本当に身の毛がよだつような言い草で、ヒグラシは言った。
「でも、自分から頼んでおいてこう言うのもなんですけれど、一体どうやって、マサキという人を探すつもりですか?」
「……お前、そんなことも考えないでマサキを探せとか言ってきたのかよ」
ヒグラシはため息でも吐きそうな表情をして、実際にはため息は吐かず、ただ、少しばかり嫌そうな表情をした。
「探すというのとは、少し違う。もしもその、マサキという人物がお前の『蘇った』母と縁が深いのなら」
ヒグラシは、コツン、と拳でカウンターを軽く叩いた。
「俺は気づくことができる。必ず」
「必ず?」
「必ず、だ」
「でも、もし気づかなかったら?」
「縁がなかったということだな、そのときは、潔く諦めろ」
それよりも、とヒグラシはニヤリ笑いをした。
「気をつけろよ。『蘇り』が長くここに留まる程、引き寄せられる災いは大きくなるからな」
深澄は、渇いた喉を湿らすように、粘った唾を飲み込んだ。
しかし、その日は特に何事もなく一日を過ごした。着物の母が作る料理も口にした。家事も手伝った。バスに乗って学校にも通った。美術部の活動もいつも通り行った。その翌日もそうだった。そうして、このまま日常に戻りつつあることに安堵するどころか、深澄は漠然とした不安を感じて、ヒグラシに会いに行かなければならない必要を感じた。
日曜日、深澄は母に知り合いのところに出かけてくることを告げて、家を出た。ヒグラシとは、互いに名乗り合った仲なので、知り合いというのも、まぁ、嘘ではないわけだった。深澄の母は、いってらっしゃい、とニコリと笑った。その日母は、薄青の着物に、濃い群青色の帯を締めていた。深澄の元に現れて以来、母は一度も同じ着物を着ていない。母がどうして、どこにそんなに多くの着物を持っていたのかも、謎だった。
前回は、ヒグラシからの接触による邂逅だった。「めぐりや」という店に行けば、会えるのだろうが、深澄はどこのバスの停留所で降りたのか忘れてしまっていた。スマートフォンで地図アプリを開いて、「めぐりや」という店に辿り着けるのかも、確証はなかった。
と、思ったら、あっさりと辿り着いた。地図アプリで「めぐりや」と検索すれば、自宅からの道順や交通手段、営業時間までが懇切丁寧に書かれていた。ヒグラシ本人が言っていたように、修理屋、と紹介されていた。
店の前には、車が停まっていた。店の扉を押し開けると、ヒグラシがお客らしい老人の対応をしているのが見えた。老人の傍には、小学生くらいの女の子が立っている。爪先立ちになりながら、カウンターに乗せられた箱の中を覗き込もうとするような仕草だ。
ヒグラシはいつもよりは丁寧に銀髪をまとめていて、顔を出して、眼鏡までかけていた。ヒグラシは、きちんとアイロンがけしたらしいシャツの前にエプロンを着て、手袋をしながら箱の蓋を慎重そうに開けた。女の子が、微かに息を呑んだ気配がした。深澄も、老人と女の子の後ろにそっと立ちながら、箱の中を覗き込んだ。
それは、深澄が初めてこの店に来たときに目を奪われた、振袖の少女の人形だった。ただし、あの時深澄が見たときよりも、表情が柔らかくなり、目は艶々と、生きて輝いているようだった。
「ああ、そうです。そうです。女房と買ったばかりの頃のようだ。懐かしいなぁ」
老人は嬉しそうに何度も頷き、ヒグラシに礼を言った。女の子は貪るような目つきで、人形を見つめていた。深澄も、人形を見つめながら、ドキドキとしていた。輝く黒曜石に似た目に惹きつけられる。可憐な唇が弧を描き、薄紅色の頰がふっくらと動くようだった。
老人はヒグラシに代金を渡すと、元のように蓋を閉ざされた箱に、その中に入った美しい少女の人形を想像して、触れようか、触れまいかとするように迷う動作をして、大切そうに人形の入った箱を腕に抱いて、ヒグラシに礼を言って店を出た。女の子はジィッと、熱の籠もった目つきで老人の抱える箱を見つめていた。車のエンジン音がして、やがて二人は去って行った。
「よぉ」
疲れたようなしゃがれ声がして振り返ると、ヒグラシが立っていた。眼鏡を折り畳み、エプロンのポケットに仕舞っている。薄い唇の端が、少し曲がっているのが皮肉っぽい。
「こんにちは。意外です」
深澄はいきなり言った。
「何が?」
「ちゃんと、接客するんですね。髪型も違う」
「印象っていうのは大事だぜ?仕事っていうのは、信用が第一だからな」
「最初に私に会ったときも、二度目のときも、そんなことを感じさせる格好はしていなかったと思いますけど」
「最初のときは、仕事じゃなかったからな」
「二度目は?」
「気を遣って欲しかったか?」
「そういうわけじゃないけれど」
深澄は、ヒグラシの思っていたよりも端正で、どこか中性的な儚さの漂う顔立ちや、パリッとしたシャツやエプロンを、改めて見つめた。
「……何というか、ガッカリです」
ヒグラシは、ヒョイと片眉を上げた。
「お前にガッカリされる覚えはないがね」
「それでも、意外です。ヒグラシさんは、人目を気にするような人じゃないと思っていたから」
ヒグラシが目を丸めたのを見て、深澄は、このとき初めて、自分がヒグラシの名前を呼んだことに気がついた。ヒグラシは、目を丸めたまま、大きな音に驚いた猫のように、暫く沈黙していた。自分の名前を、呼ばれ慣れていないような顔だった。深澄は、何となく気まずかった。
「えっと、さっきのお客さんは……」
先に口を開いたのは、深澄の方だった。
「あー……残念だったな、振袖娘が持っていかれて」
ヒグラシは、段々といつもの彼自身を思い出そうとするかのように、瞬きを繰り返しながら、どこかぎこちなく言った。深澄は、ヒグラシが、深澄が振袖の少女の人形に惹きつけられていたのを、覚えていたことが意外だった。
「あのおじいさんが、修理をお願いしたんですか?」
「まぁな」
「あの、一緒にいた女の子が、人形を壊してしまったんですか?」
「いや、人形を壊したのはあの子の弟だよ。普段は別々に暮らしているらしいけれど、人形の修理が終わったからって、わざわざ見に来たらしい」
「偉いですね。まだ、小学生くらいでしょ」
「お前だって、そうしてると小学生くらいに見えるぜ」
ヒグラシは、段々といつもの調子を取り戻していくらしく、口調が滑らかになり、無礼になっていった。
小学生、と言われて深澄はムッとした。同年代の少女たちに比べて小柄で華奢な深澄は、制服を着ていないと実年齢より幼く見られることが、実際度々あったのだ。それを分かっているから、私服も出来るだけ、大人びたデザインのものを選んでいるが、それでも、小学生に見えてしまうのだろうか。
「貪るように見てたな、あの孫」
ヒグラシは、ムッと顔を顰める深澄には頓着せず、涼しい顔でカウンターに寄りかかりながら言った。
「そりゃあ、綺麗な人形でしたから」
「取り憑かれているのかもな、人形の魂に」
ヒグラシは涼しい顔のまま、恐ろしいことをサラリと言った。深澄の方が、背筋がゾゥッと寒くなるくらいだった。確かに、今思えば、あの女の子が人形を見る目つきは、尋常じゃなかった気がする。
「取り憑かれていたら、どうするんですか?」
「神社か寺で、お祓いだろ」
ヒグラシはどうでも良さそうな口調で言った。深澄は、奇妙な脱力感を感じた。
「それで?」
ヒグラシは、深澄を見て、スッと目を細めて、また元の大きさに開いた。元々、あまり大きな目ではないが、それが更に細められると、射るような鋭さを帯びて光った。
「俺に何か?」
深澄は、キュッと唇を結んで、眼鏡の奥の目を見開いて、ヒグラシの切れ長の目を真っ直ぐに見つめるのは避けて、その形の良い眉と眉の間を見つめた。眉毛の色まで、髪と同じく銀色だった。
「何かって、ヒグラシさんが近々私の母に会いに来ると言っていたのに、ちっとも来ないから」
深澄が、再びヒグラシの名前を呼ぶと、ヒグラシは先ほどのような動揺は見せず、ただ、ゆっくりと肩を動かした。
「災いでも起こったか?」
からかうような、ヒグラシの口調だった。
「勉強が上手く捗らなかったり、授業で失敗したり、上から植木鉢が落っこちてきたり?」
「そうじゃなくて」
深澄は、肺の隅々まで酸素を行き渡らせるように深く息を吸って、頭のてっぺんから爪先までの血液の流れを確かめるように、息を吐いた。
「そうじゃなくて、お願いがあって来たんです……本当は、こういうのはすぐに言わなきゃいけないことなんだろうけれど」
「何だよ?」
ヒグラシが、いつもの細長い包みを持っていないことに微かに安堵しながら、深澄は言った。
「マサキって人を探してくれませんか?」
「マサキ?」
ヒグラシは首を傾げた。
「何故?」
「母にとっての、多分、大切な人なんです」
「お前の、『蘇った』母のか?」
深澄は、ヒグラシの『蘇り』とか、『蘇った』という言い方が嫌だった。他に、言いようがなかったとしても。
ヒグラシは、そんな深澄には頓着しない様子だった。
「……性別は?」
「多分、男の人」
「年齢は?」
「多分、成人しているか、私と同じくらい……」
「苗字は?」
「……分かりません」
「どんな字を書く?」
「それも……」
「そういうのって、探偵や警察の役目じゃないのか?」
「分かってるんです、それは」
キッと、深澄はヒグラシの眉間ではなく、目を見た。
「けれど、マサキって人に、母は会いたいんじゃないかと思うんです」
「何故?」
「だって、ヒグラシさんは母を斬ると言っています。『蘇り』だからって。だったらせめて、未練がないように」
「未練っていうのは人間が勝手に共感したつもりになって、勝手に作り出した言葉だよ」
ヒグラシは厳しく言った。もう、深澄から名前で呼ばれても、動揺を見せるつもりはないようだった。
「それに、俺の何故?への答えになっていない。何故、お前はその母とやらとマサキという人物を会わせたい?」
「それは……」
深澄は、再び深く呼吸した。肺の隅々まで酸素を行き渡らせるように息を吸い、頭のてっぺんから爪先までの血液の流れを確かめるように。
「母は、私の兄のことを、マサキくんって呼んでいます。けれど、兄の名前は勝己です。己に勝つ、で勝己」
ヒグラシは黙っていた。
「母は、私のことは深澄ちゃんって呼んでくれます。けれど、兄のことはマサキくん。妙じゃありませんか?」
「つまり?」
「つまり……」
深澄は、段々と顔が赤らんでくる自分に気がついていた。
「つまり、母にとっては、マサキという人は、それだけ大きな存在の人物ということです。娘の……娘だと思っている私と同じくらい、大切な存在なんです」
「それで、俺にマサキ探しをしろ、と?」
ヒグラシは、意地悪そうにニヤリとした。それだけでなく、ゾッとするような威圧感があった。怒っているわけではないのだろうと、何故かそう感じた。ただ、試されている。深澄の中の、例えば、覚悟と呼ばれるものを。
「あなたにとっては、ただ斬るべき対象だったとしても、私にとっては母なんです」
深澄は、ヒグラシから目を逸らさないまま言った。
「私は、母の作った料理を食べました。母と何気ない会話をしました。母の家事を手伝うこともありました。『蘇った』母との暮らしは、普通じゃなかったけれど普通で」
ヒグラシは、もう意地悪そうな表情をしていない。無表情に近い表情で深澄を見ている。ただ、威圧感はそのままだった。
「とても、幸せだったんです」
幸せ、と口にした途端、それは、酷くあっけなく脆く壊れやすいものに感じられて、けれど、リンゴがストンと落っこちてくるように、とても自然なことに感じられた。
「だから、母にマサキという人を会わせてあげたい。母にとっては、多分、とても大事な人だから」
「……厄介なことを考えるな、お前は」
ヒグラシは、容赦のない口調で言った。
半ば、分かっていたことではあったけれど、深澄の身は竦んだ。体の震えを抑えるように、体の両脇で、ギュウ、と拳を握りしめる。
「そのマサキという奴がどんな人間か分からない。性別、年齢、共に不詳。苗字や、どんな字を書くのかも分からない。生きているのか、死んでいるのかも分からない」
「生きています」
これといった根拠もなく、ただ、強い声で深澄は条件反射のように言った。
ヒグラシは温度を感じさせない口調で言った。
「生きていたとしても、今どんな状態か分からない。もしかしたら、刑務所にいる極悪人かもしれない。会わなきゃ良かったと、後悔するかもしれない」
深澄の喉が、急激に渇いてきて、こめかみから嫌な汗が滲んだ。足に力を入れていないと、今にも倒れてしまいそうだった。
「それでも、マサキに会わせてやりたいと?」
「はい」
「分かった」
「え」
拍子抜けするほどあっさりと、ヒグラシは言った。同時に、威圧感もなくなり、深澄は随分と呼吸が楽になった。
「何だよ」
ヒグラシは、深澄の反応が不本意そうだった。
「マサキに会わせてやるって言ってるんだよ。めんどくせぇけど」
「あ……ありがとう、ございます」
「やめろやめろ、ゾッとする」
頭を下げようとする深澄に、本当に身の毛がよだつような言い草で、ヒグラシは言った。
「でも、自分から頼んでおいてこう言うのもなんですけれど、一体どうやって、マサキという人を探すつもりですか?」
「……お前、そんなことも考えないでマサキを探せとか言ってきたのかよ」
ヒグラシはため息でも吐きそうな表情をして、実際にはため息は吐かず、ただ、少しばかり嫌そうな表情をした。
「探すというのとは、少し違う。もしもその、マサキという人物がお前の『蘇った』母と縁が深いのなら」
ヒグラシは、コツン、と拳でカウンターを軽く叩いた。
「俺は気づくことができる。必ず」
「必ず?」
「必ず、だ」
「でも、もし気づかなかったら?」
「縁がなかったということだな、そのときは、潔く諦めろ」
それよりも、とヒグラシはニヤリ笑いをした。
「気をつけろよ。『蘇り』が長くここに留まる程、引き寄せられる災いは大きくなるからな」
深澄は、渇いた喉を湿らすように、粘った唾を飲み込んだ。
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