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夢塚

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 明日もまた仕事がある。
 今日中には帰らなければならない夢塚を、薫は夜のバス停まで見送りに来てくれた。昼間は着物姿だった薫は、今は裾に鮮やかな花の刺繍がされたワンピースに、ピンク色のゆったりとしたカーディガンを羽織っている。品の良い蝶のバレッタで留めてある黒髪は、真っ直ぐで艶やかだった。
「この辺りは星が綺麗に見えるでしょう?」
「ああ」
 夢塚は頷いた。
 確かに、黒い絹を一面に広げたような夜空に、無数の針でついたような星が、点々と輝いていた。
「これからは、星よりも花の方が綺麗な季節だよ」
「これから、に、私はいないわ」
 薫は、ドキリとするほど艶やかに笑った。
 星が綺麗と言われる夜の中でも、薫の色白の顔とワンピースの刺繍は、心細い街灯に照らされて、よく見えた。夢塚が思っているよりも街灯が明るいのか、これも『蘇り』の不思議かは、よく分からなかった。
「そうか」
 夢塚は、そうか、と思って、そうか、と言った。胸の奥に、痛みなのか悲しみなのか判然としない、何種類もの絵の具が混ざった水のようなものがじわりと滲んで、透明になった。
 『蘇り』によって現れた薫は、ヒグラシによって斬られなければならないのだった。それを、夢塚も薫も分かっていた。
「ねぇ」
 薫は少女のような声で、夢塚を呼んだ。夢塚は薫の顔を見つめた。
「ごめんなさい、一番最初に、あなたに気づけなくて」
「いや」
 いいんだ、と言って、夢塚は安らかに笑った。
「深澄さんとの生活は、楽しかったの?」
「幸せだったわ」
 楽しかったと、幸せだったは、似ているようで意味は違う。薫が幸せな日々の中にいたと知って、夢塚の頰は温かく綻んだ。
「毎日、おはようとおやすみを言う相手がいて、その人のために家事をして、料理を作ったら美味しいと言われて……」
「それまで、薫はどこにいたの?」
「儚いところ」
 薫は言って、微笑んだ。薫の輪郭が、優しく、淡く、輝くようだった。
「そして、遠く、近いところよ」
「それは、僕の小説のタイトルじゃないか」
「えぇ。だから、あなたは結構、的を射ている」
 薫は、華奢な肩を美しく揺らした。きっと、誰にも真似できない、薫だけの仕草だと感じられた。
 バスが来るまで、後十分ほどだった。

◇◇◇

 梅の花が咲いていた。桜の季節にはまだ早い。
 昔のことを思い出した。
 結婚したばかりの頃、薫と散歩をしていた。どこに行こうという目的もない。ただ二人、手を繋いでブラブラと歩くだけだった。季節は、春の始まりだった。道端にはスミレの花が寂しげに、こんにちはと咲いていた。枝の先に見事な梅の花を咲かせていた木があった。子どもを連れた親子がいて、父親が二、三歳くらいの子どもを抱いて、梅の花の匂いを嗅がせていた。傍に寄り添うようにして立つ母親と並んで、幸福そうな光景だった。いつか自分たちも、あの親子と同じように、子どもに花の香を嗅がせるのだと、薫と話していた。
「おい」
 ヒグラシが、病院から出た夢塚を追いかけてきた。夢塚は坂道にある梅の木と、その枝先に可憐に咲く花を見て、過去の花の香を嗅いでいた。
「夢塚」
 ヒグラシは、夢塚の名前を呼んだ。
「お前、元妻の兄貴とやらに、あそこまで言われて、悔しいとか思わなかったのかよ?」
 ヒグラシは、激情にも義憤にも駆られた様子でもなく、淡々と言った。
「何か、言い返せよ。小説家なんだから口も達者だろ」
 夢塚は、目を閉じた。過去の香に浸っていたかったのだ。そして、もう一歩も動きたくない。死んだ過去に埋もれて、そのまま骨になりたかった。
 薫が『蘇った』ことに、意味なんかなかった。柾は死んでしまった。夢塚の知らないところで。
「お前は柾の父親なんだろ」
 ヒグラシは、夢塚を過去から引きずり出すつもりらしかった。
「お前たち家族に何があったかなんて、俺に興味はねぇよ。同情もしねぇよ。知らねぇよ。でも、元妻の兄貴にあそこまで言われるほど、お前は酷い人間だったのか?ろくでなしだったのか?」
 夢塚の意識は、段々と過去から浮き上がってくる。同時に、生きた薫の姿を見た。生きた柾の姿を見た。生きた美澄の姿を見た。
「俺は柾の心は知らない。だから、柾がお前に対して、どんな感情を持っていたのか分からない。でも」
 厚い雲の隙間から、淡い光が差し込んでいた。夢塚は閉じていた目を開けて、全身で陽の光を浴びた。
「会いたかったんじゃないのか?お前は」
 春の気配を孕んだ風が、夢塚の頰に当たった。
「僕が会いたかったのは、薫です」
 パリン、と薄いガラス細工が割れるような音がした。
「僕が愛していたのは、薫だけです。柾のことも、美澄のことも、僕は愛せなかった。父親として、どうやってあの子たちを愛せばいいのか分からなかった」
 だから、逃げたのだ。
 愛せなかったから、逃げたのだ。
「あの人の言ったことは何も間違っていません。僕は柾の父親でも、美澄の父親でもない。僕は……」
 家族を棄てた、ろくでなし。
 夢塚は勤めていた会社に辞表を出して、少ない荷物だけを持って、薫と柾と、生まれたばかりの美澄が眠っている間に、四人で暮らしていたマンションを出た。行き先は今夢塚が一人暮らしをしているアパートだった。夢塚は事前に少しずつ持ち込んでいた布団もカーペットも敷かず、冷たい床の上にそのまま横になって、泥のように眠った。
 それから数日後、薫がアパートにやってきた。お願いだから帰ってきて欲しいと言われた。子どもたちが寂しがっていると言われた。夢塚は頷くことができなかった。私も寂しい、と言われたときだけ、夢塚は微かに動揺した。夢塚も、寂しかったのだ。
 それからも、薫は夢塚の元をちょくちょく訪ねた。戻ってきて欲しい、と何度も言われた。子どもたちのことを考えて欲しいと、何度も言われた。偶には家に戻ってきて欲しいことも、子どもたちのことも言わず、二人でただ近所を散歩するときもあった。そういうとき、夢塚は心安らかだった。
 そうしているうち、今度は夢塚の母が来た。お父さんが会社は休職扱いにしてくれているから、お願いだから戻ってきてと懇願された。母は若い頃、いじめっ子たちを土下座させたような嵐のエネルギーを持たなかったが、それでも目を吊り上げ、涙ぐむ表情には一種の迫力があった。心配なことがあるなら専門のお医者さまにも診てもらいましょうと夢塚の母は言った。その後、夢塚の母は知り合いだという、やけににこやかな婦人を連れてきた。すぐに、母の言っていた「専門のお医者さま」だと気がついた。夢塚は、帰ってくれ、と半ば悲鳴のような声を上げた。
 その次の週の日曜日、薫がやってきた。二人でコンビニで買った安いケーキを食べながら、ポツポツと話をした。梅の花が咲いていること。桜の開花が近いこと。薫と何気ない話をしているとき、夢塚は安定していた。上手に回るコマのような安定感だった。
 やがて、コマは倒れた。
 薫の兄と弟が夢塚の元に怒鳴り込み、少しでも妻や子どもたちへの情が残っているなら戻ってこいと言った。薫は泣いている。柾は友だちからいじめられている。幼い美澄が可哀想だと思わないのか。もしも彼女たちにもはや少しの愛情も残っていないなら別れろ、子どもたちのことも薫のことも、俺たちが面倒を見るからお前は金輪際、二度と薫の夫とも、子どもたちの父親だとも口にするな、と言われた。
 こうして、夢塚が家を出てから一年後に、薫との離婚が成立した。ただし、一年ごとに薫と子どもたちが写った写真を送ってくることを条件に、二度と彼女たちには会わないことを約束した。
 会社も、正式に辞めた。夢塚よりも優秀で、仕事のできる社員ならたくさんいる。社長の息子だというだけで気を遣われる夢塚一人が辞めたところで、会社にとって大した損失ではないだろう。
 ポカン、と虚しかった。
「あんたがそうしたのは……」
 ヒグラシが言った。
「そうまでして、小説家になりたかったからか?」
「そう……そうなんでしょう。でも、僕は……僕はそれ以上に……」
 息を深く吸うと、ツキン、と刺されたように、胸が痛んだ。
「愛せなかったんです。柾のことも、美澄のことも」
 いつか見た、梅の花の香を嗅いでいた、幸せな、三人の親子。あんな風に、なりたかった。子どもの成長の一つ一つを、薫とともに、喜びたかった。心から愛しいと思って、抱きしめたかった。
「薫が僕を見て、何も思い出せなかったのは当然です。僕は、子どもを愛せなかった……ろくでなしです。薫は僕を憎んでいる。我が子を愛せなくて、逃げ出した僕を憎んでいる」
 夢塚は頭上の枝に手を伸ばし、梅の花に触れるようとする仕草をした。
「僕は……薫の夫でもなければ、柾と美澄の父親でもないんです」
 何でも、ない。
 ただ、呼吸をして、生きているだけの。
「何でもなくはねぇだろ」
 ヒグラシは吐き捨てた。心底呆れた、というように。一際風が吹いて、ヒグラシの長い前髪を巻き上げた。そのとき夢塚は、ヒグラシの顔を、初めてまともに見た。中性的で、どこか儚げな面差し。ヒグラシは、怒っていた。
「あんたは柾を、自分の小説の中に登場させた。字は違ったが、あれは自分の息子として登場させたんじゃないのか?」
「何、を……」
 夢塚は、一瞬言葉に詰まった
「あれは、フィクションです」
「そうだ。フィクションだ。しかし、全くの妄想の産物じゃない。実際にあった出来事を元にして作り出された物語だ」
「曽祖父の白蛇のことですか?」
 夢塚は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「事実と思って書いたわけじゃありません」
「そうだろうな」
 ヒグラシは頷いた。
「死んだ女が白蛇として『蘇る』。お伽話の類だと思うのが普通だろう。俺もその点については納得している。『蘇り』はあり得ない。あったらいいな、という程度の認識だ。お前も、薫を実際に見るまではそうだったんじゃないか?」
「何を……」
「お前は、『蘇り』を腹の底から信じちゃいなかった。けれど、あったらいいな、と思っていた」
 夢塚は、沈黙した。
 ヒグラシの話は続く。
「落ちぶれた小説家の元に、夜毎現れる亡くなった人たち。若くして死んだ友人、昔の恋人、厳格だった父、それから妻」
 それは、夢塚の小説のあらすじだった。
「彼らはコーヒーしか飲まない。鏡に映らない……特定の飲み物しか飲まないのも、鏡に映らないのも、『蘇り』の特徴だ。そしてお前は、主人公の息子に正輝という名前をつけている」
 「儚く遠く、近いところから」……。
「お前は子どもたちを愛せなかったかもしれない。でも、あんたは」
 儚く遠く、近いところから。
 人の心というものは、きっとそういうところから来ている。
 ヒグラシは、怒りに満ちた、艶のある目を見開いた。
「でも、お前は子どもたちを愛そうとしていた。心の底から」
「やめてくれッ!」
 風が吹いた。夢塚は血を吐く想いで叫んだ。
「やめてくれッ!薫が『蘇った』ことも、僕が子どもたちを愛そうとしたことも、全部、意味なんてなかった!僕は子どもたちを愛せなかった!柾は死んだ!死んでしまった!美澄だって僕のことを恨んでいる!僕は夫でもなければ父親でもなかった!何でもなかったんだ!」
「お前は薫の夫だった。お前は柾と美澄の父親になろうとしていた」
 ヒグラシは、もう怒ってはいなかった。しかし、何故か夢塚より辛そうにしていた。
「お前が書いた小説には、まだミスミの名前は登場していない。それにも意味があるんじゃないのか?」
「違うッ!」
 夢塚は、吼えた。
「意味なんて、何もない!」
「お前に必要だったのは諦めて逃げることじゃない!一度愛そうと決めたなら、最後までその努力を貫くべきだった!」
 ヒグラシも、吼えた。夢塚の怯えた声よりも凄みがある声に、夢塚の心の外側を覆う、脆い結界にヒビが入って荒く揺さぶられるようだった。
「あんたに何が分かるんだッ!」
 それでも夢塚は、逃げようとする。親から逃げて。妻から逃げて。子どもたちから逃げて……。
「何も……」
 自分自身の心からも逃げて。
「何も、意味なんてない……届かなかった」
 その方が、楽に呼吸ができるから。
 夢塚は力尽き、その場に崩れ落ちた。虚ろに開いた目がじわりと潤み、空の色を優しく滲ませた。
「意味なんてない……柾に届かなかった……薫にも……」
 見開かれたままの両目から、熱い涙が溢れて、頰を伝った。
 一年ごとに送られてきた、家族の写真。薫と、柾と美澄。薫は幸福そうに笑っていて、柾と美澄は一年ごとに大きく育っていった。
 いつか、やり直せたら、なんて、馬鹿らしい。
 夢塚は逃げ出したのだ。愛せなくて。愛し方が分からなくて。一人だけ家族の温かい輪に入れないのが辛くて。
 だから、逃げた。
 そんな人間を、誰が家族と認めてくれるというのだ。
 遠くで、少女の声がした。父親を呼ぶ声らしい。自分も、あんな風に子どもから求められ、信頼される父親になりたかった。振り返って、子どもを抱きしめる父親になりたかった。お父さんと呼ぶ声は、美しく澄んでいる。
「お父さん!」
 それは、遠い昔に聞いたような声だった。
「お父さん!」
「ヒグラシさん!」
 ヒグラシが、ギョッとしたように飛び上がり、しゃがみ込む夢塚に躓きかけた。夢塚は、声のした方を振り返った。
 深澄と、もう一人少女がいた。少女は、薫と手を繋いでいた。夢塚は、眼鏡を外して滲んだ視界を拭い、少女を見た。少女は、髪型こそ違っていたが、薫と、よく似ていた。
「お父さん!」
 夢塚は、あ、と言いかけて立ち上がろうとし、太ももがガクガクと震えて、その場に倒れ込んだ。少女がアッ、と慌てた声を上げて、夢塚に駆け寄ってきた。伸ばされた少女の、細長い腕が、夢塚を包み込んだ。温かい、体だった。
「夢塚さん」
 深澄が言った。
 薫が夢塚の傍らに跪き、その背中に、柔らかな掌を当てた。
 深澄は手にしていた本を取り出した。それは、蛹が蝶に生まれ変わる、見覚えのある装丁の本だった。
 「儚く遠く、近いところから」。
「美澄ちゃんから聞きました。この本、初版の発売日の月が、柾さんの誕生月なんですね」
「お父さん……」
 美澄が、グズグズと鼻を啜りながら言った。背中に薫の掌の感触を感じながら、夢塚は震える指先を動かして、美澄の背中に、掌を回した。痩せて、頼りない。けれど、温かい。
「この本は、お兄ちゃんへのプレゼントだったんだね……お兄ちゃんが、大人になるお祝いに」
 美澄は言って、夢塚から顔を離し、涙と鼻水でグチャグチャの顔で笑った。
「お兄ちゃんが言っていた。お母さんから聞いたんだって。お父さんは、物語を書く人だって。いつか自分たちのことも書いて欲しいって」
 梅の花びらが、ヒラリと散った。
「ありがとう」
 その言葉は、美しく澄み渡り、夢塚の胸に染み込んだ。
「お兄ちゃん、きっと喜んでいるよ。いつか美澄のことも書いてね、お父さん」
「ああ……」
 夢塚は、ため息のような声を溢して、大声を上げて、泣いた。

「君を待つ/遠い世界で/君のため/歌を歌うよ/届かなくても」

「朝が来る/また朝が来る/陽が昇る/あなたがいない/新しい朝」

◇◇◇

「兄さんに殴られた傷は、まだ痛む?」
 指先で夢塚の湿布を貼った頰に触れようとして、ためらいながら薫は言った。
「君たちの方が、痛かっただろう」
「でも、それ以上に好きだったの」
 薫は、薫の兄に殴られた頬よりも、胸が痛くなるような優しい笑みを浮かべた。きっと、夢塚を憎んだり、恨んだり、悲しい気持ちもあっただろうに、それ以上に好きだったと言ってくれる薫は、やはり優しい。
「柾くんも、美澄ちゃんだって、きっとあなたが好きだった」
 薫は言った。
「あなたは、優しい人だったから」
「……優しいのは、君たちの方じゃないか」
 だから、そんな悲しい顔をしないで欲しい。
「もしも僕が……」
 言いかけて、夢塚はためらった。
「死んで、生まれ変わったなら……」
「私は『蘇り』よ?」
 薫が、からかうような口調で言った。夢塚も、つい笑った。
「だから、君はこれから、儚く遠く、近いところにかえって、柾と会えたとしたら……」
 夢塚は再びためらい、口籠った。
「えぇ。柾くんと一緒に、あなたを待っているわ」
「いや、僕のことは、待たなくていい」
 夢塚は言った。本心だった。
「僕のことは待たなくていいから、君たちは先に、生まれ変わっていてくれ。きっと、人間として生まれ変わって、幸せになってくれ」
 薫の指先が、夢塚の指に触れた。ひんやりとしているが、生きた温度だった。
「ただ、生まれ変わった僕に気づいたなら、ほんの少しだけでも、振り向いてくれないか」
 薫は、泣き出すのを堪えようとして、微笑もうとするかのように、唇を震わせた。
「美澄ちゃんは……?」
「美澄は、長生きする」
 夢塚は、キッパリと言った。
「長生きして、皺くちゃのおばあちゃんになって、ひょっとしたら、生まれ変わった僕たちに会うこともあるかもしれない。気づいて、振り向いてくれることもあるかもしれない」
「そうしたら……」
 薫は、胸に迫ってくるものを堪えるように、微笑んだ。黒い目が、澄んだ水で洗ったように、濡れて光っているのを、綺麗だと感じた。
「そうしたら、きっといいわね……」
「ああ」
 夢塚は頷いた。
「きっと、いい」
 バスの明かりが、近づいてきていた。
 夢塚はもうすぐ、薫の手を離さなければならなかった。けれどそれを、永遠の別れだとは感じなかった。

◇◇◇

 深澄とヒグラシが一緒にいたことに、母は驚いたようだった。深澄とヒグラシは、母が夢塚を見送ったバス停から、少し離れた場所に並んで立っていた。
「深澄ちゃん……」
 母は……薫は息を呑んで、深澄の肩に触れた。労るような、悲しむような触れ方だった。どうして?と美しい瓜実顔が語っている。
「家に帰って寝てろって、俺は言ったんだぜ」
 黒い竹刀袋を背負ったヒグラシは、呆れた口調で言った。しょうがないだろ?と呟くように。
 深澄は強いて、微笑んだ。
「薫さん、素敵なワンピースだね」
 薫は、切なそうな表情をした。
「よく似合っているよ」
「……あの人が、似合っているって、昔、言ってくれたのよ」
 薫は潤んだ目を、夢塚の乗ったバスが走り去った方向に向けながら言った。
「気づかなかったみたいだけどね」
「あいつも人のこと言えねぇな」
 薫は小さく、ふふ、と笑った。深澄もクスクスと笑った。ヒグラシだけが笑わず、むっつりと疲れているようだった。しかし、ついていくと言った深澄を、大して熱心に止めもせず、勝手にしろと投げやり口調で言ったのは、ヒグラシだった。
「薫さん、あのときは助けてくれてありがとう」
「あのとき……?」
「道路に転んだとき」
 深澄の言葉に、薫は深澄の肩から手を離して、うろたえて、光るように青ざめた。
「あのとき?あのときは、私もうろたえていて、役に立たなかったでしょう?一緒に転んでしまって、周りの人たちに嗜められるくらい慌てて……」
 深澄は笑って、首を左右に振った。
「薫さんがいたから、心強かったよ。ありがとう」
「あのとき深澄ちゃんを助けようとしたのは、深澄ちゃんのお母さんよ」
 薫は言って、ヒグラシを見た。
「そうですよね?」
「お前だって、母親だったじゃないか」
 ヒグラシは言った。
「でもきっと、深澄ちゃんのお母さんだったのよ」
 薫は自身の胸元に手を当てて、上から下へ、ゆっくり撫でる仕草をした。病院で、何度も見た仕草だった。
「だって、私の中には、深澄ちゃんのお母さんもいるんですもの」
「そう……」
 深澄は、唇の形だけで笑みを作った。
「そう、なんでしょうか……」
「そうよ」
 薫は、おどけたようでもなく、真面目な口調で言って、華奢な線を描く顎を引いて、頷いた。この人は、こんなにも綺麗な仕草をするのだと、深澄は驚いた。

 バサリ、とヒグラシが竹刀袋を落とすと、黒鞘の刀が姿を現した。
「じゃあ、斬るぞ」
 ヒグラシは言って、スラリと刀身を引き抜いた。血の色に似た刃は、月の光を反射して燃えるように輝いた。同時に、ヒグラシの黒い目も、血の色に輝いた。
 血の色に輝く刃を見つめると、ゾワ、と身が凍りつくようだった。ヒグラシはそんな深澄を赤い目で見下ろすと、意地悪そうにニヤリとした。
「恐ろしいか?」
 声まで、いつものヒグラシとは違うようだった。
 深澄は、首を左右に振った。
「嘘つけよ」
 思いやりも配慮も感じさせないいつもの口調でヒグラシはそう言って、フン、と笑った。
「見たくなかったら、目を閉じてろよ」
 血の色をした刀を構えて、ヒグラシは言った。
「憎まれたり、恨まれたりなんて、御免ごめんだからな」
 本当は、恐ろしかった。悲しかった。
 けれど深澄は、目を見開いて、その光景をしっかりと見ていることを選んだ。薫を、母と呼んだ日々を振り返って、触れ合った肌のひんやりとした感触を思い出して、深澄自身が、そう決めたのだ。
 血の刃を見つめながら、薫はゆっくりと目を閉じた。

 全てを信じ、受け入れ、ゆるすように。
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