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ヒグラシ

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 深澄が交通事故に遭ったと聞いて、勝己は帰省の予定を早めた。交通事故といっても実際に車に轢かれたわけではなく、転んで足を捻った程度で大したことはないと深澄は言うのだが、怪我をした足を庇いながら動くので、何をするにも大儀そうだった。それにしても、生きているなら、まぁ良し!と勝己が腹の底から言うと、深澄は何故だか噴き出した。勝己にとっては心外なことである。普段はどこで寝ているのかと深澄に訊くと、二階に上がるのは面倒、だからといって、和室にいちいち布団を敷くのも面倒だから、ソファの上で毛布を被って寝ていると言う。
「そんなところで寝ていちゃ、怪我に良くないだろう。それに、ますます縮むぞ。ただでさえ小さいのに」
「お兄ちゃん、小さいは余計」
「布団なんて、敷きっぱなしでいいだろうが。ベッドで眠りたいなら、怪我が治るまで俺が二階に運んでやるし」
「はい、ありがとう、お兄ちゃん」
 勝己は冷蔵庫を開けて、中にプリンがあるのを見つけると、早速立ったままプリンの蓋を取り、スプーンでプリンを一口掬い上げて口の中に吸い込ませた。深澄に、行儀が悪いことを指摘され、椅子の上に座って食べる。
「今夜、何食べたい?作ってやるよ」
「お兄ちゃん、料理作れるの?」
 深澄の言葉に、勝己はキョトンと目を丸めた後、やれやれ、と首を左右に振った。全く、この妹は自分の苦労の何を分かっているのだろうかと、勝己は右手にスプーン、左手にプリンを持って肩をすくめた。
「これでも一人暮らしのベテラン様だぜ。野菜切って、肉と卵を突っ込んで煮込めば良いんだろ?」
「味付けは?」
「塩ふって火を通せば土だって食える」
「土は食べるものじゃないと思うけど」
「いいからいいから、何食いたいんだよ?」
「肉じゃが」
「肉じゃが?」
 ソファの上に、こちらに足を向けて寝そべっていた深澄は、そのとき肘をついて上体を少し起こすと、首を捻って勝己を振り返りながら、懐かしげな、優しい表情で頷いた。
「肉じゃが、は……」
 勝己は冷蔵庫をあちこち開けて中身を調べた。
「ジャガイモと肉を突っ込んで、グズグズに煮込めば良いんだよな?肉じゃがっていうくらいだし」
「他にもニンジンとか玉ねぎを入れて……醤油と砂糖を入れて、甘めの味つけにしてよ」
 深澄はそれだけを言うと、力が抜けたようにパタンとソファの上に倒れ込んだ。
 小学校高学年と殆ど変わらないほど小さな深澄の体は、古いソファに深々と沈み込んでいくように見えた。

◇◇◇

 引っ越しの夜、先にアパートに届けていた段ボール箱を一つ開けると、中に祐志の持っていた小説が一冊入っていた。
 祐一はあまりこういった類の小説は読まないが、祐志とはよく漫画の貸し借りをするので、そのときに紛れ込んでしまったのかもしれない。
 下手に触って汚したの何だのと文句を言われる前に実家に送り返さなければと、その小説を脇に置きかけたとき、ふと、最初の二、三ページだけでも読んでみようかという気になった。表紙を見ると、「儚く遠く、近いところから」と書かれてあった。尻伝いで壁際まで寄り、早速本のページを開く。どうやら主人公は落ちぶれた小説家で、妻を亡くし、正輝という息子がいるらしい。
 祐一は、ふぅん、と思う。ふぅん、と思ったついでに、まだ三月になる前の、ある寒い日に交わした、祐志との何気なく会話を思い出した。
 祐志のことは、決して嫌いではない。兄孝行で親孝行な、良い弟だと思う。ハッキリ好きだと感じる機会もある。我が弟ながら尊敬できる人物だとも思う。ただ、あまりにも好人物過ぎて、隣に立つのが窮屈に感じてしまうことがあるのだ。祐志は祐一より背が高く、その上これで同じ両親から生まれたのかと疑われるほどの美形だった。祐一も、決して自分が醜男ぶおとこだと思っているわけではないのだが、顔のパーツのバランスの問題だろう。それで、妬むほどでもないのだが、祐志が傍にいるとついついからかい過ぎてしまう、複雑な兄心だった。
 その日も、祐一は祐志から勝手に拝借した漫画を返しに行くついでに、ペラペラと祐志をからかった。お前には色っぽい噂がサッパリないなぁ、好きな子でもいないのかよ、一回きりの華の高校生活だぞ?何なら俺が紹介してやろうか?と、自分も偉ぶるほど経験がないくせにそのようなことを口にしながら、本棚の前で次に読む漫画を物色していた。
 僕にも好きな子くらいいるよ、と祐志が口にしたときはそれは驚いて、本棚から引き抜きかけていた漫画と、それに引っ張られて他の本が数冊、膝の上にバタバタ落ちてきて痛かった。
 マジで?と問うと、マジだよ、とマジな顔で言われた。可愛い系?綺麗系?と更に訊くと、可愛い感じかな、という祐志の答えだった。小さくて、と言いながら椅子の上に座ったまま、低い位置で掌を浮かせる。
 祐一の気分は少しばかりの期待と多大な好奇心で疼いた。喋ったことある?名前は?と色々と重ねて訊くと、答えが返ってくるときもあれば、返ってこないときもあった。名前は分からなかったが、着物の女性の絵を描く少女だと分かった。
 その子と、色々と話をしたよ、と祐志は言った。色々って何だよ?と祐一は言ったが、祐志はそれをはぐらかした。
 祐志は同級生の女子生徒が自殺しかけてから、暫く、悪夢を見ていたようだった。医者から薬を処方されて、睡眠時間はきちんととれているらしいが、悪夢が止まったわけでもなく、いつもどこか具合が悪そうだった。ひょっとすると、その自殺しかけた女子生徒が祐志の好きな相手だったのかもしれないと思った。そうだとすると、痛ましくてからかうこともできなかった。
 しかし三月のある時期から、祐志の悪夢は収まったようだった。徐々に頰に健康的な色が戻ってきたようである。祐一の引っ越しの準備も嫌な顔もせず手伝ってくれた。手を合わせて拝みたくなるほど良い弟である。
 そんなことを頭半分つらつら考えながら、「儚く遠く近いところから」のページををめくっていくと、時計の針が十二を差した深夜に、主人公の若くして死んだ友人が、主人公の元をにこやかに訪ねてくるシーンに差し掛かった。どうやら、幻想と現実が入り混じった物語であるらしいと思う。
 祐一は居住まいを正して、活字の波に力を抜いて浮かぶ。

◇◇◇

 母が部屋にやってきて、千鶴子に言う。
「千鶴子、深澄ちゃんっていう子が、借りていた本を読み終わったから、返しに行きたいんだけど、いつ頃がちょうどいいかなって」
 ベッドの上に座る千鶴子は、膝の上にクレーの画集を広げて、それを読むふりをしながら、顔を上げず、声だけは明るく言う。
「そのまま持っていていいよって、言っておいて」
「でも、元々おじさんからの借り物でしょう?」
「おじさんには、後で新しい本を買って、それを返しておくから」
 本当は古い文集も貸していたのだが、おじさん自身、手元に何冊か残しているというし、一冊くらいどこかに紛れてしまったと誤魔化したところで、問題はないだろう、と軽く考えた。
 母は、そう、と言って千鶴子の部屋を出た。もしもし……という声が微かに聞こえてくる。どうやら千鶴子が、深澄からスマートフォンにかかってきた電話に気づかないふりを続けたので、代わりに自宅の電話に連絡をしてきたのだろう。
 千鶴子は、熱が引いていく指先で、クレーの画集のページを撫でた。クレーの色は鮮やかで美しい。美しいものを見れば、千鶴子の汚れた魂も洗われると信じていた。
 ……千鶴子は覚えていた。
 横断歩道の赤信号。迫るトラック。小さな深澄の可憐な背中。その背中をトンと押した。千鶴子は、深澄がどうなったかも確認しないまま、帽子を深く被ってその場を駆け出した。おい!と誰かが叫ぶような声が聞こえた。
 千鶴子は、二年生になると同時に地方の高校へ転校することが決まっている。両親が、千鶴子の精神の安定を考えた結果だった。
 しかし、どれだけ遠くへ引っ越しても、千鶴子の罪は千鶴子を追いかけてくる。裸の足で、ヒタヒタと。
 千鶴子は、深澄の背中を押した。
 そのときの感触を、千鶴子は一生忘れることはないだろう。

◇◇◇

 知人から紹介された運転手が運転する車に、樹月きづきは乗る。樹月というのは芸名である。彼は舞台を中心に活動する役者だった。
 加藤という運転手は、知人から紹介されたところによると、元は警察官だったらしい。仕事は真面目にこなすが、少々、無愛想だと言われた。なるほど、加藤は自分からはあまり口を開きたがらないタイプのようだったが、樹月には、気遣われてあれこれ話しかけられるよりも、加藤の沈黙がちょうど良かった。車の中で台本を読むときなどは、ささやかな音楽やラジオを流してもらう。あまりにも沈黙が続くと、車のエンジン音や、車のガラスに風が当たる音が気になって、かえって台本に集中できないのだった。
 その日の舞台の帰り、樹月は車のエンジン音や、車のガラスに風が当たる音に耳を澄ませていた。このように暗くては、台本を読むことも出来ない。体は温かい疲労に包まれていた。口元には穏やかな笑みさえ浮かんでいた。
 鈴のついた、手作りらしいストラップが、車のミラーについていたのが気になった。それ以前にもついてはいたのだろうが、あまりにも穏やかな夜だったので、つい気づいた、と言うべきか。鈴は、チリチリと、微かな音を立てて揺れていた。
「その……」
 樹月は、何気なく口を開いた。
「ミラーのところにあるストラップは、誰かからもらったの?」
「はい」
 加藤は短く、無愛想に答えた。誰?と訊かなければ、会話は続かない。普段はそれでも構わないと思うが、鈴があまりにも可愛らしく鳴るので、つい訊ねてみる気になった。
「誰からの?」
「娘です」
「娘さんがいたの?お幾つ?」
「十歳の誕生日を迎える前日に死にました」
 淡々と、加藤は言った。
「奥さんは?」
「娘が死んで、暫くは別居していましたが、もう離婚しています。妻も、同じ色違いのストラップを持っているはずです」
「もう会わないの?」
「会いません」
 加藤の運転の仕方は、非常に丁寧で滑らかだった。警察官という職業に対して正義よりは荒々しさを感じていた樹月には、加藤の運転の仕方は意外に感じられていた。しかし、娘がいたというなら、それも納得できるかもしれない。加藤はかつて、妻と娘を車に乗せて、どこかに出かけたことがあったのかもしれない。
「僕は、妻を亡くした」
 樹月は告げた。
「交通事故だったんだ。トラックに轢かれてね……」
 トラックの運転手は、樹月の妻がいきなり飛び出してきたことを主張し、自分に非はないことを訴えたという。しかし、樹月の妻は、いきなり道路に飛び出したわけではない。
「娘が道路に飛び出してしまったらしいんだ。それを追いかけて、妻は死んだ」
 妻に庇われた娘は殆ど無傷だった。葬式でも、何が起こっているのかよく分かっていなかったのか、上の息子がわぁわぁ泣いているのを不思議そうに見ていた。
 それを見て、樹月は……。
「僕はその日以来、娘にどう接すればいいのか、分からなくなってしまった……憎んでいるわけじゃない。自分の娘だもの」
 それでも、時々考えてしまうことがある。娘のせいで、妻は死んだ。
 上の息子は常に娘の味方をしてくれている。樹月が気づけない分も、娘を気遣ってくれている。だから、辛うじて家族という形は保っている。けれど、それはいつ崩れ落ちるか分からない、砂の城だった。流れる時が砂を積み重ねていった。
「樹月さんは、娘さんには会わないんですか?」
「うん、実は、娘が交通事故に遭ったらしくてね。この仕事が終わったら、顔を見せるつもりだよ」
 娘が交通事故に遭ったと連絡を受けて、激しく動揺した自分がいた。娘の怪我の具合や、その後の様子を訊ねた。同時に、冷ややかにそれを受け止めようとする自分もいた。娘の怪我の具合を心配しながら、仕事のことが頭に過った自分は、冷淡な父親だった。
「加藤くん」
 樹月は言った。
「君は、娘を愛していたか?」
 信号の色は赤だった。
 加藤はゆっくりと車を停車させた。
「大切な存在でした」
 加藤は言った。
「娘とは、血の繋がりはありませんでした。妻の連れ子だったんです。妻とはその後、子もできませんでした。だから、親が子を愛するように愛していたかは正直分からないんです」
 信号が、青になった。
 加藤は、車を前進させた。丁寧に。滑らかに。いつもの速度で。
「でも、また会いたいと思うくらいには、大切な存在でした」
 樹月は車の窓ガラスに額を寄せて、妻が守った娘を想った。
「今でも、そう思っています」
 深澄。
 父親として、今も娘を愛しているのか、妻の死で分からなくなった。それでも、分かっていることが一つだけある。
 どんなに愛していても、会いたくても、神様とやらは、それを約束してはくれない。

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