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序章

三角形

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 フロースが立っていた。
 赤いチューリップの花束を持ったフロースが立っていた。
 赤いチューリップの花束を持ったフロースが、寂しそうにポツンと立っていた。
 リュカオンはそれを、郵便局の窓の向こうから見ていた。しっとりとした長い黒髪は濡れているように光り、薄緑色のリボンでゆったりと束ねている。肌の色は、傾いてきた夕日の中で、淡く浮かび上がるように白い。チューリップのそれぞれが、生きた心臓のような赤さだった。リュカオンは、カバンを肩から斜めにかけて、郵便局を出た。そして、今しがた気が付いたばかりのように、フロースに声をかけた。
「いつから待っていたンだよ?」
 大きな木の葉のように切れ込まれたダークブルーの目。頬の色が心配になるくらいに白い。口紅を塗っていない薄い唇に、フロースは淡い笑みを浮かべた。
「この時間なら、そろそろお仕事が終わる頃じゃないかと思って」
 フロースの声は、触れれば砕けるガラス細工のように透き通っていて、しかし、リュカオンの耳にすんなり届いた。
「それは?」
 それ、と言いながら、リュカオンはフロースが大切そうに胸に抱えているチューリップを、嫌そうな目で見た。近くで、しかも夕日の下で見ると、毒々しいまでに生きているように見えた。
「これ?」
 フロースは、赤いチューリップの花束を、軽く揺すった。
「さっき、カエサルさんからもらったの。庭にたくさん咲いたからって」
「……フロースは、隙があるからな」
 フロースは、薄い唇に曖昧な笑みを浮かべたまま、首を傾げた。リュカオンの言った、隙、の意味が分からない、というように。リュカオンは両手をポケットの中に突っ込んで、長い脚をぶらりと動かした。
 フロースは、女にしては背が高い。リュカオンと並んで歩くと、同じような丈の影法師が並んだ。リュカオンの方ががっしりとしていて、フロースの方がほっそりしている。リュカオンは、肘を突き出すように歩き、フロースはいるのかいないのか分からないほど静かに歩く。こうして二人で並んで歩くようになって、もう、二年以上経つのだろうか。
 途中、バスに乗って家にたどり着くと、フロースはテーブルの上にチューリップの花束を投げ出して、青い、細長い花瓶を取り出して洗い、水を満たしてチューリップの花束を入れた。バスに揺られて、幾分か萎れていたチューリップは、生気を取り戻したかのように、再び赤々とし始めた。赤い花びらが、花瓶から零れそうだった。
「随分、もらったンだな」
 チューリップの花の蕊に鼻先を寄せながら、リュカオンは言った。
「花の匂いは、苦手?」
「そうでもねぇさ」
 フロースが、リュカオンの隣に立って、リュカオンの真似をするように赤い花の中に鼻先を寄せた。フロースの薄い肩が、リュカオンのそれと触れそうになって、リュカオンは、そっと身を離した。
 リュカオンは湯を沸かして、二人分のコーヒーを注いだ。カップを持ってリビングに戻ると、フロースが赤い花びらを摘まんで、それを右から左へ確かめるように丁寧に観察していた。暫く見ていると、フロースは花びらを、そっと口の中に運んだ。フロースが花びらを咀嚼しているのを、リュカオンは黙って見ていた。フロースが二枚目の花びらをそっと摘まんで口に運び、三枚目に手を伸ばそうとしたとき、リュカオンはフロースに声をかけた。
「フロース、コーヒー」
 フロースは、リュカオンがフロースの行動を黙って見ていながら、何も言わなかったことに気づいていたのだろう。落ち着いた様子で、花びらを咀嚼したまま頷き、それをリュカオンが持ってきたコーヒーで深く、深く流し込んだ。
「ありがとう」
 口の中が空になると、唇を、赤い舌でペロリと舐めて、フロースは言った。フロースの口にした花びらよりも、彼女の舌の方が美味そうな色をしていると思いながら、リュカオンは軽く頷いて、それに答えた。フロースは、熱すぎるくらいのコーヒーをもう一口飲んで、また赤い舌で、ペロリと唇を舐めた。
「リュカオン、知っている?」
「何が?」
 リュカオンは未だにコーヒーを一口も飲めず、しきりに息を吹きかけながら答えた。料理上手なのはリュカオンの方だが、コーヒーや紅茶を美味しく淹れることができるのは、フロースに限る。リュカオンの淹れる飲み物は、大抵熱すぎる上に、味も濃過ぎるか、薄い。フロースの方が、そういった見極めは得意だ。
「女の子」
「女の子が、どうしたンだよ?」
「この頃、女の子が来たらしいのよ」
「……リベラが、連れてきたのか?」
「ううん、自分でたどり着いたみたい」
「へぇ……」
 リュカオンは、フロースの言葉の続きを待ったが、フロースは大切そうに両手でカップを持ったまま、答えようとしない。まだリュカオンはコーヒーを一口も飲めていないのに、もう半分ほど飲んでしまっている。
「もう、ここでの暮らしに馴染んでいるのか?」
 仕方なく、リュカオンの方から、口を開いた。
「何度も逃げ出そうとするって」
「へぇ……」
「それでリベラが、良かったら、私たちでどうかって……」
「どうかって……」
 犬や猫じゃねぇんだぞ、と言いかけて、リュカオンはやめた。フロースが、じっとリュカオンを見つめる目と、ぶつかったからだった。リュカオンは、冷たい唾を飲み込んだ。
「分かったよ」
 リュカオンは短く答えて、コーヒーにミルクを入れるために立ち上がった。たどり着いた末、何度も逃げ出そうとする、少女の年齢や名前などを、訊こうとは思わなかった。ただ、今までフロースと二人で描いていた線が、三角形になるのだと、漠然と思った。
 コーヒーにミルクを入れると、白い液体が滲んで、黒い液体が茶色に変わった。
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