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第一章

土の中

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 ――よく、覚えています。
 暗くて、妙に温かい場所で、藻掻いていました。何かを掴もうとして掴めず、声を上げようとしても誰にも届かず、ただ、遠くで誰か――その、誰か、というのが判然としないのですが――が、私を呼んでいたのです。
 あそこは、水?空気?それとも……土の中?
 私は、死んでいたのでしょうか?
 死んで、土の中に埋められながら、藻掻いていたのでしょうか?
 それなのに――何故、私は今も生きているのでしょう?
 それとも、生きていたから、藻掻いていたのでしょうか?
 分かりません。分かりません。
 けれど、覚えています。
 ――私はかつて、ここではない「どこか」に居た。

 ◇◇◇

 バスのガラス窓に額をつけたまま、雪芽ゆきめはどんよりとした目を開けた。バスに揺すぶられながら、中途半端に眠っていた為か、頭の中が、灰色に濁った靄が詰められたように重い。雪芽は赤くなった目を擦って、窓の外の景色を眺めた。大小様々の大きさの建物が、ごみごみと敷き詰められている。窓ガラスをガタガタと鳴らしながら、苦労して開けると、雪芽はその隙間に頭を突き込んで、霞むように青い空を見上げた。鼻腔から冷たい風がひゅぅッと喉の奥まで入り込んで、雪芽は咳き込みながら、慌てて頭を引っ込めた。窓ガラスを閉めようとしたが、ガタガタと鳴るばかりで容易に閉まらない。咳き込み過ぎて、涙まで出てきた。停留所でバスが止まったとき、それを静かに見ていた隣の座席に座っていた老紳士が立ち上がって、窓ガラスをピシャリと閉めてしまった。雪芽は涙に潤んだ目を懸命に見開きながら、老紳士に、ありがとうございます、とつっかえながら礼を言った。老紳士はほほ笑んで会釈をして、バスを降りた。バスの運転手は鏡越しに、咳き込む雪芽をチラッと見つめているような気がした。雪芽が降りるのは、次の停留所である。
 水筒に持ってきたレモン水を一口飲むと、咳も落ち着いた。雪芽は口元を拭って、再び窓の外を見つめた。ごみごみとした住宅街を通り過ぎて、バスは静かな橋の上を渡った。信号もない道を、バスは風に背を押されるように、気持ちよさそうに走っている。雪芽はバスの揺れに任せて体を揺らしながら、ふと、昔、同じような経験をした気がしてならなかった。懐かしい。懐かしいが、手で掴むにはあまりにも遠すぎた。懐かしくて、色はないが、優しい。
 やがて、バスは停留所に着いた。雪芽は、予め教えられていた通りに、山羊の頭をした運転手に整理券と運賃を払った。山羊の頭の運転手は、下顎にぶら下がっている白というよりは黄色い髭を震わせて、何か言った。それが雪芽には、「メェ……」という、山羊の鳴き声に聞こえた。雪芽は、急に背筋がゾワッとして、慌ててバスを降りた。この停留所でバスから降りたのは、雪芽だけだった。そして、ここが終点であるらしかった。
 停留所には、雪芽以外にも誰かいた。
 バスは、ガタガタと走り去っていった。
 目鼻立ちは、美男子というわけではない。ただ、ボサボサと伸びた銀色の髪と、ドキリとするほど鮮やかな菫色の瞳が、雪芽の目を引いた。背はそれほど高くはないようだったが、肩幅ががっしりとしていて、小柄で華奢な雪芽には大柄に見えた。
「雪芽?」
 男は、以前から雪芽のことを知っていたような、軽い口調で言った。雪芽の返事は、少しまごついた。
「え?あ、はい、あの……」
「俺、リュカオンっていうんだけど」
 男は額にかかった長い前髪を振り払いながら言った。
 リュカオン、という名前を、雪芽は知っていた。
「あ、あなたが……えっと、リュカオンさん?」
「そ」
「雪芽です……あの……」
「ひとまず、家まで歩こうぜ。少し歩くけど、荷物、大丈夫か?」
「はい」
 リュカオンは、小気味良さそうに、ニヤリとした。そのとき、唇がめくれて、雪のように白い犬歯が、チラッと見えた。雪芽は、少ない荷物の入っているカバンを、胸の前で抱きしめた。
 リュカオンは、人狼なのだという。

 人狼は、普段は人間の姿をして暮らしているが、満月の晩になると、どう猛な狼に変身する。その力は大の男の万力を軽く凌ぎ、その牙は鋼鉄さえも嚙み砕くという。皮膚は弾丸を弾き返すほどに分厚く、毛皮は満月の光を浴びて、煌々と輝く。そして、人狼に噛みつかれた者もまた、人狼となり、銀の弾丸で心臓を撃ち抜かない限り、絶命することはない。
 それが、雪芽が予め聞かされていた、人狼というものである。人狼は、人間であるうちは殆ど無害で、複雑な思考にも耐え得るが、ひとたび狼となれば理性を失い、女も子どもも構わず襲い掛かるという。
 しかし、それは一昔前までの話で、今は薬も開発されて、狼の姿になっても、ある程度の理性を保つことができるようになった――と、雪芽は聞かされている。
 リュカオンもまた、薬によって狼の狂気を、ある程度抑え込むことができるという。実際、リュカオンと並んで歩いても、雪芽がリュカオンの姿に狼を感じたのは最初に彼の犬歯を見たときだけで、後はチラッとも、彼に狼の影を見出すことはなかった。
 しかし、自然と探るような目遣いになっていた雪芽に気が付いたのか、リュカオンが横目で雪芽を面白そうに見つめた。リュカオンは、黒目の割に白目が大きく、それが星の光を集めたように、艶々と光って見えた。
「怯えてる?」
 雪芽は赤くなった顔を伏せた。それは、その通りと言っているようなものだったが、リュカオンは気を悪くした様子もなく、笑った。
「取って食いやしねぇよ」
 雪芽は、微かに顎を引いて、頷いた。
 やがてたどり着いた家は、元は白かっただろう壁に黄みがかかっていて、それが、何とも言えない温かみを帯びていた。滑り台のような三角屋根で、四角い煙突がついている。リュカオンは、扉を開けた。
「ただいま」
 雪芽は何と言っていいか分からず、リュカオンの後ろでむにゃむにゃと、自分でもわけのわからないことを言って、軽くお辞儀をした。甘いような、酸っぱいような匂いがした。
「おかえりなさい」
 台所の方から、しっとりと濡れたような黒髪の、背の高い女性が現れた。目の縁が、何となく寂しげで、口元に微笑を浮かべている。綺麗な人だと思った。
 女性が姿を現すと、甘いような、酸っぱいような匂いが、濃くなった。
「リュカオン、その子が……」
「ああ、雪芽」
 リュカオンは、彼の後ろで縮こまっていた雪芽の背に軽く手を置いて、前へ押し出した。雪芽は、いきなり前に押し出されたことよりも、リュカオンの掌の、思いがけない温かさに驚いた。
「フロースです。よろしく」
 フロースは腰を屈めて、雪芽に手を差し伸べながら言った。握手を求めている仕草だと分かったが、雪芽は少し、ためらった。握手、という文化に慣れていない為だった。それでも、恐る恐るフロースの手を握ると、驚くような冷たさだった。フロースが、雪芽の手を軽く握っただけで、パッと離したことに、思わず安堵を覚えたほどだった。そのとき、フロースの手首で、キラキラと光るものが目についた。それは、鱗だった。よく見ると、ほっそりとした首にも、切れ込みのような痕がある。
 フロースは、人間と人魚の混血だと聞いている。
「何か、美味そうな匂いがするな」
 鼻をひくつかせながら、リュカオンは言った。
「イチゴのジャムを作っていたの」
 フロースが答えた。
「お前、ジャムなんか作れたのかよ」
「意外?」
「だって、今まで一度も作ったこと、なかったじゃンか」
「あのね、実はね……」
 フロースは、ふふ、と低い声で笑った。
「私も、今日初めて作ったの」
「そうかよ」
「そうよ」
「食えるのか?」
「パンに塗って、食べるのよ」
 フロースとリュカオンは、軽快に言葉を交わした。
 ふと、雪芽の目に、チューリップの花が、目についた。それは、フロースの背の、斜め向こうにあった。青い花瓶に零れるばかりに無造作に生けられている。その一つ一つが、生身の肉体を割って取り出した、心臓のようだった。一輪のチューリップの蕊から、赤い花びらが落ちて、卓の上に降った。雪芽はその、ポタリ、という音を聞いたと思った。

 人狼のリュカオン。
 人間と人魚の混血のフロース。

 それでは、雪芽は……

 ――私は一体、何者なのでしょう?
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