上 下
8 / 31
第二章

吸血鬼

しおりを挟む
 吸血鬼ヴァンパイアは血を吸う怪物とされているが、実際に人間の血を吸うことはないらしい。ただその昔、今際の際の同族の血を啜る文化があった為、そのような伝承が伝わったとされている。個体差があるものの、身体能力が非常に高く、また、異様に美しい外貌がいぼうをしていた為、人間たちから酷い迫害を受けて、一族で方々と彷徨さまよった挙句、この地に流れ着いたのだという。
 「ここ」には、そうした吸血鬼たちのようにして流れ着いた一族の子孫が互いの文化を尊重し合って暮らしている。ごく稀に、雪芽のように「たどり着くモノ」もいれば、「ここ」と向こう側を自由に出入りすることのできる「遣いアゴ―」によって、連れて来られるモノもいる。
「『あごー』?」
 雪芽が首を傾げると、ロサが答えた。
「『ここ』と『向こう側』を自由に出入りすることのできる、唯一の役割を持った人のことさ。掌に『クラヴィス』を持っていて、それで『ここ』と『向こう側』を繋ぐ『門』を、自由に開け閉めすることができる」
「『門』?」
「普段は閉ざされていて、『アゴ―』以外の人はその場所を知らないし、たどり着くことすらできない」
「もちろん、例外はいるみたいだけれど」
 雪芽をチラッと見ながら、アーラが言った。デパートで会ったときよりも、その目つきに険はないようで、ふと気が抜けたときなどは、動物のような愛嬌が漂うが、アーラはそれが不本意であるかのように、わざと素っ気ない態度をとっているようにも見えた。
「私も、その『門』をくぐったのかしら……」
 雪芽は、自身の手を見下ろして、ギュッと閉じて、開いた。扉のようなものを押し開けたときの感触を、思い出そうとするかのように。
「『ここ』にいるってことは、そういうことだろ」
 アーラは、当たり前のことを言うな、というような口調で言った。雪芽は、叱りつけられたように、首を縮めた。
「偶にあるみたいなんだよ。『門』に綻びが生じているときが」
 ロサが言った。
「『クラヴィス』を持っているのが『アゴ―』だからといって、実際に『門』の主導権を握っているのは、『王様』みたいなものだからね。でも、実際に『アゴ―』以外に、『門』が開いているのが見える人はいないから、『ここ』から『向こう側』に出ていくという人は、まずいない」
「じゃあ、私は『門』が開いているのが見えなくて、うっかり、迷い込んでしまった……ということ?」
「それは……うーん、どうだろう」
 ロサは口籠った。
 アーラが、後を続けた。
「『ここ』にたどり着く人たちは、皆、それぞれどうしてたどり着いたのか『理由』がある。君の言うように、『うっかり』というのもひょっとしたらあるかもしれないけれど、『門』をくぐることを『王様』に許されたなら、きっと、それなりの『理由』がある」
「『理由』……」
「僕はそんなこと、知らないけれど」
 アーラは、急に雪芽を突き放すような口調になって、言った。
 昼間、ロサが、バスケットを持ったアーラと共にフロースと雪芽の元を訪れた。ロサは、いつも肩の上に流している髪を高い位置で結って、ひらひらとした、動きやすそうなワンピースを着ていた。アーラはズボンに、薄手のシャツを着て、前髪だけもじゃもじゃと伸ばした金髪で、右目を隠していた。ロサは雪芽に、雪芽が最初に『ここ』に来た場所――詳しく言うなら子どもたちに見つかった森の中――を見に行こうと言った。雪芽自身は、そこが東の方角にあることは聞いていたが、肝心の当人にその記憶がなかった。フロースは、家事は一通り済んだから、行ってきてもいい、ついでに、アーラとロサともお友達になるといい、と言ってくれたが、雪芽は、頼みの綱に、宙にポンと放り出されたような気がして、ならなかった。雪芽が、「はい」とか「いいえ」とかハッキリしないうちに、すっかり行くことに決まってしまって、雪芽は外に出た。何となく不思議に感じられたのは、雪芽が見つかった場所を目的に歩いているはずだったのに、ロサが先頭を切って、アーラがその後をついて歩き、雪芽がさらにその後ろをついて歩くという並び順だったが、見つかったときの記憶が全くない雪芽はともかく、ロサとアーラは雪芽に比べて先輩であるらしいので、それも当然と言えた。
 それにしても困ったのが、ロサが木の根が飛び出しているところや、ゴロゴロと石が転がっている場所を、面白がって通ることだった。アーラは慣れているらしいが、雪芽はすぐに、息が上がってきた。ロサは仕舞いには脱いだ靴を持って裸足になり、ピョンピョンと、石の上に立つこともあれば、木を伝って枝から飛び降りたりして、野兎のように駆けていく。雪芽がロサの姿をどうにか見失わずにいられたのは、特に歩きにくい道を渡るときに、アーラが手を貸してくれたおかげだった。また、ロサも、雪芽とアーラが遅れているのに気づくと、戻ってきて、手振りで謝ってくれた。
 漸くなだらかな道が続いて、三人は肩を並べて歩くことができた。肩を並べるといっても、実際に肩を並べているのは同じ背丈のアーラとロサで、雪芽はその間に、チョコンと挟まっているようなものだった。
「うーん、ここら辺じゃないかなぁ……」
 ロサが立ち止まって、辺りをグルリと見渡した。そこは、木々が生い茂っていて、互いに葉を擦り合わせて、サワサワと、気持ちのいい音を立てていた。
「雪芽ちゃん、どこら辺に倒れていたか、覚えている?」
 いつのまにか髪を解いて肩の上に滑らせていたロサが、手に嵌めた靴をパタパタ言わせながら、雪芽に訊いた。そう言われても、雪芽にそのときの記憶はなかった。また、思い出せそう、という前兆もなかった。
「この子はそのときの記憶がないって、言ってるだろ」
「あ、そうか」
 アーラに言われて、ロサはあっさり答えた。
「僕、お腹空いたなー」
「はいはい、そう言うと思って、サンドイッチ持ってきたよ……どこか日陰になりそうなところ……」
 三人は、木陰に座って、サンドイッチを食べた。トマトとレタスを挟んだサンドイッチ。イチゴとは違う、甘酸っぱいジャムの挟まったサンドイッチ。ハムとチーズの間に、ブニュッとしたクリームが挟まったサンドイッチ。分からない具材の名前はロサに教えてもらいながら食べた。サンドイッチは、大きなバスケットにギュウギュウと敷き詰められて、少しジャムが飛び出しているものや、殆どペチャンコになっているものがあったが、どれも美味しかった。三人の中で、一番食べたのはロサだった。喉が渇いたな、と思っていると、ロサは茂みの方に行って、花を摘んできた。アーラはロサから花を手渡されて、その細まっている部分にためらいなく口を当てて吸ったが、雪芽はロサに花を手渡されても、すぐに口をつける気にはなれなかった。チューリップの花びらを咀嚼していた、フロースを思い出したのだった。しかし、意を決して花の蜜を吸うと、思ったよりは甘くなく、不思議な味だった。
 ロサは手の中に花を閉じ込めると、何かを祈るような恰好で、そのまま手を閉じ、目も閉じていた。ロサが再び手を開くと、花は勝手に浮かび上がり、蛹から飛び出したばかりの蝶のように、空を漂った。驚きのあまり声の出ない雪芽に、ロサはニッコリと笑いかけた。
「ロサ、そういうの、やめて」
 アーラに叱られて、ロサはヒョイッと肩を竦めた。その目が、星のようにキラキラと光っている。
 ロサが命を与えた花は、ふわふわと空を漂って、やがて、見えなくなった。
しおりを挟む

処理中です...