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第二章

檻の中

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 デパートから、学校の制服が届いた。
 白いブラウスに頭からスッポリ被る紺色のワンピースで、襟首には青いリボンを結ぶ。リボンの結び方が立て結びになっているのを見ると、フロースがきちんとリボンを結び直してくれた。学校に通うようになるまでに、リボンの結び方を覚えなければならない。靴はマーテルが言っていた通り、実際の雪芽の足の大きさよりは大きめに作られていて、角度によってピカリと光る。光り過ぎではないかと雪芽は言ったが、歩いているうちに黒ずんで、ちょうどいい色合いになるから大丈夫だと、フロースは言ってくれた。夏服と冬服が届けられていて、冬服の方が生地が厚く、上着もついてくる。雪芽は、夏服で学校に通うことになる。鞄には、金色の留め口がついていた。
 デパートから届いたのは制服だけでなかった。雪芽の普段着や小物も、一緒に届けられた。リュカオンがマーテルのところで済ませた用事とは、このことだったらしい。どれもこれからの季節に合わせた色合いの、素敵なものばかりで、雪芽は吃逆しゃっくりが止まらなくなった人のように何度もつっかえながら、リュカオンにお礼を言った。
「あ、あ、ありがとう……私、その、何て言ったらいいか……」
「お前、面白い顔になってるぞ」
 リュカオンの言う通り、確かに雪芽は、面白い顔をしているに違いなかった。全身の血が顔に集まったのではないかと思うほど燃えるように熱く、クラクラして何も考えられない。新しい、軽い服が手の上で滑りそうだった。
「今までは、白い服ばかりだったものね」
 リュカオンが雪芽に贈った服の中から、淡いオレンジのワンピース、水色のブラウス、腰に藤色のリボンがついたワンピース、と、次々に雪芽の胸の前に当てて見ながら、フロースが言った。まるで、色の洪水が雪芽の目の前に押し迫ってくるようだった。
「それにしても、リュカオン、奮発したわね」
 フロースは、今度は薄桃色の、袖のないワンピースを雪芽の胸の前に当てた。雪芽の胸は、微かに熱を持って高鳴っていた。
「で、でも、こんなにたくさん……お金、かかったのじゃないですか?」
 その口調も、思わず、最初に来たばかりの頃のように、硬くなってしまう。
「俺がケチみたいに、言うな。心配しないでも、あの店にあった古着だよ」
 古着だとしても、うっとりするような上等なものばかりだった。雪芽は、半ば夢中になって、フロースが次々と胸の前に当てる服を撫でては、ほぉ、とか、はぁ、とか、ため息ばかりを吐いていた。
「こんなにたくさん、もらっても、いいの?」
「いいの。ガキは大人に遠慮するな」
 リュカオンは、わざとらしく呆れたようなため息と一緒に言った。フロースが、それを見て小さく笑った。
「秋には、お祭りもあるものね。そのときの衣装も、用意しておかないと」
「お祭り?」
「死者の霊を招いて、一緒に歌や踊りを楽しみましょうって、祭りがあるンだよ。……本当に、死者の霊が来るかどうかは知らンけど」
 雪芽の問いに、リュカオンが答えた。
「人狼や人魚がいるのなら、死者の霊だって、いるのじゃないの?」
 雪芽は、リュカオンとフロースの顔を、交互に見ながら言った。
「いるかもしれないけれど、肉体から切り離されたモノを、『いる』と言うのはどうかなぁ……」
 下唇を摘まみながら、リュカオンは何か考え込むような口調で言った。
「偶に、何か、えている風な様子を見せる人もいるわよね」
 黄色い花柄のスカートを手に持ったまま、フロースが言った。
「赤ん坊とか、年寄だろ。でもそいつらが視ているのだって、本当に死者の霊と言っていいものなのかどうか……」
「違うかもしれないの?」
「仮にそいつらの目に何か映ったとして、名前が分からないから仮に『霊』と名付けているだけで、もしかしたら『霊』と名付けられた別のモノかも……」
「リュカオンは、『霊』を信じていないの?」
 雪芽が言った。
「信じ……うーん……そう呼ばれるモノは確かに『いる』だろうけれど、死んだ人の『霊』が本当に『いる』かどうかは、疑問だな。俺たちが仮に『霊』と呼ぶモノたちも、俺たちが勝手にそう決めつけて、そう呼んでいるだけなんだから、別の名前を与えればそれになるということだろうし……」
「でも、例えば私が、『フロース』と呼ばれたところで、『フロース』になることはないでしょう?」
「それはお前に肉体があるからだ」
 リュカオンが、幾分か力の籠った声で言った。雪芽は思わず、背筋を正した。
「肉体は、魂をこの世に留めておくためのくさびとされている。肉体があるから俺たちは呼吸をし、食事をし、痛みを感じ、感情を持つ。他にも、色々あるだろうけれど、それらが複雑に絡み合って、俺は俺だという意識が生まれる。他人に勝手な名前を呼ばれたくらいでそれに成り代わるような、いい加減な存在じゃない」
「はぁ……」
 リュカオンの説明に、雪芽は思わずため息を零し、自身の手を見た。手の甲を見ると、薄い皮膚の内側に、青い血管が透けて見える、ひっくり返して掌を見ると、いくつも重なった皺が模様になっている。また手をひっくり返して、手の甲の皮を摘まんでみた。微かな痛みがあったが、皮膚に痕も残らないほどだった。
 死者の『霊』は、誰かの目に偶々映ったものを、そう呼んでいるだけ……しかし例えばそれに、別の名前を与えれば、死者の『霊』と呼ばれていたものはその存在を変える……しかし、生きている者たちには肉体があるから、別の名前で呼ばれたからといって、その存在を変えるような曖昧なものではない……ということだろうか。
 フロースの顔を見ると、何故だかフロースは、からかうような目つきでリュカオンを見ていた。リュカオンはそれに気づいたらしく、ムスッとした目を、フロースに向けた。
「何だよ?」
「リュカオン、それ、雪芽の教科書に書いてあった」
 リュカオンは、ツンとそっぽを向いて、何も答えなかったが、その耳は赤く染まっていた。
 雪芽は思わず、小難しく考え込む表情をやめて、ポカンと口を開けた。
 その場で笑っていたのは、フロースだけだった。

 ◇◇◇

 暗くて狭いところが、嫌いだ。
 ひとりぼっちは、もっと嫌いだ。
 手の皮が擦り剝けるほど硬い扉を叩いて、お願い出してと喉が裂けるほどの大声で訴えても、返事はなく、ただ、微かに、母の啜り泣く声が聞こえた。
 暗くて狭い、湿った匂いのするその場所は――
 地下牢。

 ◇◇◇

 ――これは、何?
 雪芽は、混乱していた。
 一つの肉体に、二つの魂。
 暗くて、狭い……じめじめとした悪寒が纏わりつくような、四角い部屋。
 雪芽は雪芽のままでありながら、誰かの肉体に、その魂と共に存在している。
 肉体の苦痛と、その魂の苦痛が雪芽に襲い掛かって、引き裂こうとする。
 悲鳴を上げようにも、声が出ない。
 腕を伸ばそうと思っても腕がない。
 立ち上がろうとしても、脚がない。
 足首には、ジャラリ、と、冷たい……血を啜ったかせが……
 ここは――檻だ。

 ◇◇◇

 祖父はその当時では珍しく、大学まで卒業した秀才で、皆が皆、祖父はこの村を出て、きっと大成するだろうと思っていたのに、祖父は大学を卒業すると、お金持ちでも、大して美しくもない、平凡な妻をめとって、地方で教鞭きょうべんをとった。祖父の家は村でも有数の名家で、祖父の学費全てを負担した両親は、地方で平凡な教師に甘んじる息子に失望したが、月々、負担していた学費は祖父の懐からキチンと送り返されてきたので、文句の言いようもなかった。まぁ、自分たちが生きているうちに学校を出て、こうしてキチンと勤めを果たしているのなら良し、と、諦めがついたらしい。その後、曾祖父がわずらって、祖父は妻と子を連れて、故郷に帰った。祖父は一人っ子で他に兄弟はなく、家は名家だったからそのままにしておくわけにもいかず、また、患った父と、年老いた母を捨て置くこともできず、悩んだ末に教職をして、家業を引き継いだ。家を売ってしまって、父は病院に預け、母を連れて今の家に移り住むことも考えた。しかし、現在はどうだか知らないが、当時、田舎いなかで家一つを潰すとなると相当な事件で、また、親戚一同も何かと口やかましく言ってくるだろうということは察しがついたので、そのような処置をとったそうである。曾祖父は、それからすぐに亡くなった。曾祖母も、その後を追うように、曾祖父の死から一年も経たないうちに、亡くなった。
 祖父は、使用人には厳しかったというが、自分は、優しい祖父の姿しか覚えていない。祖父の記憶は殆どなく、祖母も、自分が物心つく前に死んでしまったが、朧気おぼろげながらも、皺くちゃの硬い手で、優しく抱き上げてもらったことを覚えている。それとも、これは、老人の手とはそうあるべきという、自分の妄想なのだろうか?

 ◇◇◇

 これは、誰の記憶――?
 雪芽の中が、雪芽ではない誰かの記憶で満たされていく。

 ◇◇◇

 父は、所謂いわゆる趣味人とでもいうのだろうか?
 弟と妹が一人ずついて、妹の方は当時としては早い方で嫁ぎ、弟の方は都会で画商になって、それぞれ裕福な暮らしを送っていた。一方父の方には、叔父や叔母のような運が巡って来なかったらしい。せっかく祖父の代から継いだ家業も、上手くいかなかった。それでも、先祖代々の財産のおかげで、金に不自由することはなかった。父は自分の自由になる金を使って、絵の具や画布を買い込んでは、暇を見つけて、地下室で絵を描いていた。父は村の人たちから、変わり者と言われた。父は自分に描いたばかりの絵の具の乾いていない絵を見せては、どうだ、と言ったが、自分には、父が何を描いていたのか、さっぱり分からなかった。それから父は、自分は本当は画家になりたかったのだが、長男だったので、家業を継ぐべきだと、親父に反対されたと、自分に度々言っていた。自分に家業を譲ったら、父は山に籠って、ひたすら好きな絵を描いて過ごすのだ、とも言った。今でも充分好き勝手生きているように見える自分には、父の言い分がよく分からなかった。

 ◇◇◇

 記憶。思い出。感情。痛み。匂い。光。音。
 違う違う。これは雪芽のものではない。
 これは、雪芽ではない。

 ◇◇◇

 自分が目覚めたのは、地方の、とある病院だった。野犬に襲われたらしかった。
 祖母の親類の葬儀に出るために、身重みおもの母を残して、父と共に祖母の故郷を訪れていたのだ。その目的には、もちろん、葬儀への出席も含まれていたけれど、父は、自分が幼いころ、たびたび駆け回っていた野山を息子にも見せて、自分も懐かしみたいという思いから、自分を連れてきたらしかった。
 自分は、野犬に腕を噛まれていた。父は、野犬に顔を食い散らかされて、原型をとどめぬほどだった。父の葬儀の日、母は子どものように泣きじゃくった。叔父が母に代わって、父の葬式の手配をしてくれた。叔父夫婦は母に、家業を畳んで一緒に暮らさないかと言ってくれた。今は昔ほど煩いことを言う連中もいないし、都会の方が色々と便宜べんぎだから、と。しかし母は、頷かなかった。叔父夫婦は、何か困ったことがあったら、遠慮なく自分たちに言ってくれと言って、帰った。帰り際、叔父は自分の顔を覗き込むようにして、これからはお前が頼りだ、しっかりお母さんを支えておやり、と、力の籠った口調で言った。はい、と自分が頷くと、叔父は、良い子だ、と言って、自分の頭を撫でてくれた。
 それから母は――

 ◇◇◇
 
 雪芽のものではない記憶。
 雪芽のものではない思い出。
 雪芽のものではない感情。
 雪芽のものではない痛み。
 雪芽のものではない匂い。
 雪芽のものではない光。
 雪芽のものではない音。

 ◇◇◇

 ――いやだいやだいやだ。
 ――おかあさん、ちかろうはいやだ。
 ――おかあさん、どうしておともだちとあそんじゃいけないの?
 ――おかあさん、どうしていもうととあそんじゃいけないの?
 ――おかあさん、ここはいやだ。
 ――おかあさん、いたいのはいやだ。
 ――おかあさん、ひとりにしないで。
 ――おかあさん、……

 ◇◇◇

 たすけて……。

 ◇◇◇

 激痛。
 骨が歪む。
 背中が曲がる。
 全身から硬い毛が生えてくる。
 足首にミシミシと、鉄の枷が食い込んで、血が滲んだ。
 ひび割れた鏡に映ったあの姿。
 あれは――

 ◇◇◇

 私は――

 ◇◇◇

 俺は――『狼』だ。

 ◇◇◇

 ――化け物。

 ◇◇◇

「雪芽」
 雪芽は、リュカオンの腕に食らいついて、藻掻いていた。土の中で藻掻くように。
「雪芽、おい、雪芽ッ!」
 雪芽の歯がリュカオンの腕にブツリと食い込んで、口の中に血の味が滲んだ。
 雪芽は、逃げたかった。
 暗くて、狭い――あそこは、嫌だ。
 血肉が欲しい。
 柔らかい、子どもが良い。
 お腹が空いた。
 寒い。
 嫌だ嫌だ嫌だ。
 ――嫌だ。
「雪芽ッ!」
 ガンッと床の上に叩きつけられた衝撃で、雪芽は雪芽に戻った。
 リュカオンが、肩で大きく息をしている後ろから、裸体を濡らしたフロースが、心配そうに覗き込んでいた。雪芽が、ゆっくりと口を開くと、リュカオンの腕から、血の色が混じった唾液が、糸を引いた。
「わ、私……」
 雪芽は、急にガタガタと震えだした。体の表面は冷たかったのに、目から流れる涙が、燃えるように熱かった。
 フロースが、恐らく、風呂場からそのまま飛び出してきたのだろう濡れた裸体で、雪芽を抱きしめた。驚くほど冷たい体だったが、それがフロースの体温なのだと思うと、安心した。
「私……私、また、逃げようと……?」
「さぁ?」
 リュカオンは、ソファに沈み込むように腰かけた。その目が、妙に血走っていた。
「リュカオンさん……ご、ごめんなさい……」
「何が……?これが?」
 リュカオンはどんよりとした表情で、腕の傷を見た。
「これくらい、大したことない。ガキは大人に遠慮するな」
 そうは言っても、腕の傷から血が滴って、床の上にポタポタと落ちていた。雪芽は、舌の根が噛みあわないほど震えて、目の前の、冷たいフロースの体に、しがみついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 雪芽には、謝ることしかできなかった。
 ただ――ひとりが恐ろしくて。
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