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第三章

昔話と靄

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『その昔、
 何もないところから生まれた、何者でもない少年が、
 一粒の種だけを持って、旅をしていました。
 それは、果てのない旅でした。

 何者でもない少年は、花の国にたどり着きました。
 そこは、美しい国でした。
 何者でもない少年は、そこで花を摘み、花の香りに包まれて眠りました。
 しかしやがて、何者でもない少年は、そこを去りました。
 そこは、何者でもない少年の居場所ではなかったのです。

 何者でもない少年は、鳥の国にたどり着きました。
 そこは、美しい国でした。
 何者でもない少年は、そこで鳥たちと歌い、鳥たちの羽で作った衣を身に纏いました。
 しかしやがて、何者でもない少年は、そこを去りました。
 そこは、何者でもない少年の居場所ではなかったのです。

 何者でもない少年は、夜の国にたどり着きました。
 そこは、美しい国でした。
 何者でもない少年は、そこで月の女王様にお辞儀をし、煌めく星たちと一緒に踊りました。
 しかしやがて、何者でもない少年は、そこを去りました。
 そこは、何者でもない少年の居場所ではなかったのです。

 何者でもない少年は、白い砂漠にたどり着きました。
 そこは、悲しくなるほど美しい場所でした。
 何者でもない少年は、そこで小さな穴を掘り、その中に握りしめていた種を埋めました。
 何者でもない少年は、祈りました。
 僕に名前をください、と。
 何者でもない少年の目から、金の粒のような涙が一人でに溢れて、種を埋めた場所に落ちました。
 そして、何者でもない少年は微笑を浮かべたまま、そっと倒れ伏しました。
 何者でもない少年の傍らで、小さな芽が、砂の中からポッと現れました。』

 ◇◇◇

 モリスとの授業は、なかなか楽しかった。難しい問題に突き当たったときなどに、赤い線で添削された箇所を見て落ち込むこともあったが、日々、自分が成長していくのを実感するのを感じることができた。子供向けの短い物語なら、随分スラスラと読めるようになってきた。
「うん、なかなか良いと思うよ」
 雪芽が書いた「ここ」の言葉で書いた作文を添削しながら、モリスは言った。最初の頃、赤い線でぎっしりと埋め尽くされるようだった作文も、この頃は添削される箇所が減ってきて、雪芽の書いた黒い字が読めるようになってきた。
「これなら、初等部の教科書くらいなら、スラスラ読めるんじゃないかな。理解力は高いみたいだし、他の授業にも、すぐについていけるようになると思うよ。あたしより優秀だね」
「あ、ありがとうございます」
 素直にお礼を言っていいものか一瞬迷いながらも、やはり、褒められたことが嬉しくて、雪芽はつい、笑顔になった。モリスは初日に持ってきた参考書と言った絵本や童話集以外にも、来るたびに新聞から切り抜いたらしい小さな記事などを持ってきて、雪芽に読ませてくれた。本当に、毎日「ここ」の文字に触れているおかげか、雪芽の読解力はグングン上がった。
 しかし一方で、不安があった。それは、モリスが言ってくれる通り、自分は学校に馴染めるのだろうかという淡い危惧と、それから――誰にも言えていないのだが――今まで自分に寄り添ってくれていた「文字」が遠ざかっていってしまうという、寂寥感せきりょうかんにも似た気持ちだった。「ここ」にいる以上、「向こう側」の言葉を使う機会は、今後なくなっていくだろうということは分かっていたが、宙に蹴られた鞠のように、ポゥン……と放り出されていくような、虚しさがあった。
 そんなことを考えているうちに、表情が沈んでいったのか、パラパラと教科書を捲っていたモリスが、ふと顔を上げて、雪芽を見た。
「雪芽ちゃん、どうかした?少し、疲れた?」
「いえ……」
 雪芽は、慌てて首を左右に振った。
 モリスは、真剣な眼差しで、雪芽を見つめている。普段から、よく笑顔を見せるモリスから、このように無表情にも近い表情で見つめられると、雪芽の体の中心を通っている、芯のようなものが、冷たい手でキュウッと握られるようだった。
「大丈夫よ。クラスは違うけれど、学校にはロサとアーラも通っているし、あたしだっているんだから、困ったことがあったら、何でも言って」
「ありがとうございます」
 モリスから聞いたところによると、学校は、義務ではないらしい。十歳以降から、学校に通うことができるようになるが、勉強だけしたいのなら、モリスが雪芽の元に通うように、家庭教師を雇って、勉強をすることもある。学校のクラスは、大きく三つに分けられていて、下から順に、初等部、中等部、高等部とあって、それぞれ二年ずつのカリキュラムがある。更に専門的なことを学びたいのなら、「院」という制度があり、そこでより専門的な学びを深めることができるが、そこに通うには高等部卒業程度の学力が求められる。雪芽は大体十歳から十三歳の子どもたちが通う初等部に編入することが決まっている。ロサとアーラは、中等部に通っている。二人共、十四歳だ。雪芽は十二歳だから、初等部の中でも年長の部類に入る。そのことも、雪芽に不安を抱かせる要因の一つとなっていた。
「私以外、皆私より年下だったら、どうしよう……」
 雪芽は、思わずポツンと独り言のように不安を漏らした。それに対して、モリスは笑って、大丈夫だと言った。
「誰も年齢なんて気にしないわよ。初等部にはいないけれど、大人になってから学校に通い始める人だっているくらいなのよ。それに、雪芽ちゃんはもうこれくらい読み書きができるのだから、楽勝よ」
「そうでしょうか……?」
 モリスが明るく言っても、雪芽の気持ちは晴れなかった。そこに、モリスが持ってきた紅茶のシフォンケーキと、飲み物を持ってきたフロースが、ひっそりと入ってきた。
「雪芽より、リュカオンの方が大変だったみたいなのよ。授業は途中で抜け出すし、宿題もやらなかったし」
「そうなの?」
「リュカオンは十歳になってから、学校に通い始めたのだけどね」
 縁に絡まった蔓草模様のある、青い陶器の皿の上にふっくらとしたシフォンケーキを乗せて、最近お気に入りの、果実水を薄めたものを、白いカップに注いでいる。雪芽は茶を一口飲んで、その、スッキリとした甘みの混じった酸味に、思わず、キュッと目を閉じた。
「それで、学校は結局、一年通っただけで辞めてしまったの。でもその後、エリアスさんに勉強を教えてもらったの。エリアスさんは、昔、学校の先生をしていたから」
「そうなんだ……」
 フロースの語るリュカオンの過去は、意外なものだったが、それに妙に納得してしまう自分もいて、雪芽は思わず、小さく微笑んだ。フロースも、ふふ、と笑っている。
「フロースさんは、どうだったの?」
「私は、最初から学校には通わなかったの。ルーメンが、そういうことをあまり気にしなくて。リュカオンの家で、エリアスさんに勉強を教えてもらったの」
「ルーメンって、フロースにとって、どういう人?」
 フロースに訊くと、フロースは、薄い唇を閉ざした。目尻が下がって、口角が上がっているが、いつものように笑っているとは思われなかった。雪芽が、その表情に驚いて、けれど、喉の奥に何か痞えたようで謝ることもできずにいると、フロースは突然、不自然なくらい普段通りの表情になって、雪芽の質問に答えた。
「良い人」
 それだけだと、ピシャリと扉を閉じるような、だからこれ以上は踏み込んでくれるなというような拒絶が、そこにあった。初めてのフロースからの拒絶に、雪芽は戸惑い、確かに傷ついて、俯いた。
 モリスは、フロースと雪芽との間に流れた冷たい沈黙になど、一切無関心の様子で、紅茶のシフォンケーキを、果実水でゴクゴクと流し込んでいた。

 ◇◇◇

 夢を、見たのだ。

 ミルクに虹を溶かしたような、不思議な靄に包まれたような夢だった。その向こうに、一人の少女が横たわっている。生まれてから一度も切ったことのないような長い黒髪で顔が隠されているが、美しい少女だと分かった。少女は、眠っているようだった。雪芽は少女の元へ行こうとしたが、虹色の靄に押し返されるようで、それ以上、少女に近づけなかった。少女が、寝返りを打った。綻びかけた花のように開いた、白い手が見えた。その手首に、光るものがある。鱗だ、と思った。
 ピチャン、と水を打つような音がして、そちらを向くと、褐色の肌の、背の高い男性がいた。……本当に、背が高い。男性は長い脚で大股に少女に近寄ると、少女の元に、跪いて、その耳元で、何か囁くような仕草をした。しかし、雪芽にその声は届かなかった。少女には、届いたのかどうか。雪芽は、少女が頷いたのかどうかを、判然と確かめることができなかった。男性の左手が、少女の頭を優しく撫でるように触れた。その掌が、淡い銀色に輝いている。
 ミルクの入ったコーヒーをかき回すように、場面が変わった。
 少女が、一本の木からぶら下がっているブランコに乗っている。伸び放題だった髪を肩の辺りで綺麗に切り揃えられて、薄桃色の可愛らしいリボンで髪を結っていた。それが、少女がブランコで揺れる度に、尻尾のように動いた。そうして、少女は暫く揺れていたが、やがて、ピョンとブランコから飛び降りると、野兎のように駆けていく。褐色の肌の、背の高い男性が、少女の細い体を、肩の上に軽々と抱え上げて、笑った。
 また、場面がグルリと変わった。
 再び、少女が、ブランコに揺れている。少し、髪が伸びたかもしれない。ブランコを揺らしていた少女は、また、いきなりピョンとブランコから下りると、先ほどと同じ男性に向かって駆けて行く。男性は長い腕を振って、笑いながら、少女の体を抱え上げた。こうして、毎日ブランコに揺られながら、少女は男性の帰りを待っているのだと、雪芽は思った。
 グルリ、と場面が変わった。
 やはり少女は、ブランコに揺られながら、男性の帰りを待っている。しかし、男性は帰ってこない。

 分かっている。「彼」は二度と「ここ」には帰らない。

 ◇◇◇

 何か冷たいものが、額に触れた気がした。
 雪芽はベッドに横たわったまま、目尻から熱い涙を零していた。心臓が、苦しいほど高鳴って、頭が割れそうなほど痛んでいた。スゥ、と息を吸おうとすると、喉がビリビリと、焼けるように痛んだ。枕元をみると、透明な水が、コップ一杯分注がれていた。雪芽はそれを、半分ほどゴクゴクと飲んで、渇いた喉を潤した。
 何が何だか分からず、枕に顔を押し付けて一頻り泣くと、雪芽は再び眠りに就いた。
 翌朝、雪芽は昨日の夢のことを、すっかり忘れていた。
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