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第三章

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 もったいない、という言葉を、フロースは三回は繰り返していた。雪芽は耳元で、シャキシャキと鋏が動いていく音を聞いている。服の上から包み込んだ白い前掛けに、切られたばかりの黒い髪が、パラパラと落ちていく。モリスが、雪芽の髪を切っていた。
 カラリと晴れた、午後のことだった。一通り基本は押さえたということで、この頃は勉強と言っても、以前ほどキチキチではなく、のんびりと過ごす時間が増えていた。その日も、そんな風にのんびりと勉強をしている合間に、雪芽が、実は髪を切りたいと思っている、という話をポツリと零すと、それじゃあ、あたしが切ってあげようかとモリスが言って、勝手にあちらこちらをテキパキといじって、庭で髪を切る支度をしてしまうと、雪芽に、さぁどうぞと、折り畳み式の椅子に座るように促した。フロースが、もったいない、と本当に惜しそうに言うのが、雪芽には少し、可笑しかった。
「今くらいの髪の長さなら、色々な髪型ができるのに」
 フロースは、尚も惜しそうにしている。そういうフロースは、今日は暑さに降参するように、長い黒髪を編み込んで、幅広の水色のリボンで纏めている。白く、ほっそりとした首には汗が伝っているが、いつもよりは涼しそうに見えた。
「短い髪もいいわよ。楽に洗えるし、手入れも簡単だし」
 モリスが、器用に鋏を動かしながらフロースに言った。
 モリスもフロースも、艶のある綺麗な黒髪をしている。しかし、それぞれ、微妙に色の、深み、というのか、同じ黒髪ではない。頭の形に沿うように髪を短くしているモリスの黒髪は茶色がかっていて、フロースは、肌の色が青白い為もあるのだろう、モリスの黒髪よりも「黒」という色の深みが強い。雪芽は前掛けの上に落ちた自分の黒髪を見つめた。それは、弱弱しい双葉に似ているように思えた。二人の美しい黒髪が、羨ましく感じられた。
 襟足の産毛を剃って、それを柔らかいブラシで払う瞬間は、思わず身を捩らせてしまうほどに、くすぐったかった。モリスは笑いながら、こら、と雪芽に言った。
 モリスは、雪芽に手鏡を持たせて、頭の具合を確かめさせた。雪芽はモリスと同じくらいにまで、髪を切られていた。前髪は、眉毛にかからない程度。両脇の髪が、耳に軽くかかっている。雪芽は後ろに手を回して、産毛を剃ったばかりの項を撫でた。
「可愛いじゃない」
 モリスは、満足そうに言った。
「顔が小さいから、短い髪がよく似合うわね。学校に通うようになったら、もてちゃうかもよ?」
「学校……」
 モリスの言った、学校、という言葉に、雪芽は、そこに通うようになるまで、あと幾日もないことを思い出した。雪芽は、切ったばかりの髪を、そっと撫でた。鏡の中の、自分の不安そうな顔を見つめながら、雪芽はちょっと、口角をあげてみた。そうすると、何となくだが、モリスの言った通り、新しい髪型が雪芽によく似合っているようで、少しだけ、嬉しくなった。
「フロースは、昔から髪が長かったわよね」
 モリスが、急に思い出した、というように言った。
「それで、毎日色んなリボンをつけていたわね」
「ルーメンが、くれるのだもの」
 フロースが、雪芽の切られた髪をそっと摘まみながら言った。
「食べちゃダメだよ」
「食べないわよ」
 咄嗟に言った雪芽に、フロースが答えた。それでも尚、じっと雪芽がこちらを見ているのを見ると、フロースは苦笑して、摘まんでいた髪を前掛けの上に落とした。
「お祭りのとき、髪を巻いてきたことがあったでしょ」
「あったわ。リュカオンが、げ、って顔をしていたから、もうしないって、決めたわ」
「リュカオンは、髪を切らないの?」
 雪芽が言った。リュカオンは、男にしては長い銀髪を、紐でいい加減に結っている。碌に、手入れもしていないようだったが、きちんと手入れをすれば、さぞ綺麗になるだろうと思われた。
「鬱陶しくなったら、自分で切るわよ。でも、面倒くさいみたいね」
 フロースが、笑いながら答えた。
「綺麗な色なのにね。……自分のことには、無頓着なのよ」
「フロースとリュカオンは、そういうところが合うんだよね」
 モリスが言った。
「合うって、どういう意味?」
 雪芽が訊いたが、フロースは、静かに笑って答えなかった。モリスも、何も言うつもりはないようだった。
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