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第五章

待ちぼうけ

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 雪芽が帰ると、玄関先でフロースが、誰か青年と話をしているのが見えた。素朴な外見をした青年は、雪芽を見ると、何か照れたような微笑をし、そそくさと帰路を辿った。フロースは、四角い箱を、大事そうに抱えていた。
「誰?」
 雪芽は、どこかで見たことのある青年だった気がしながらも、その名前が思い出せずに、フロースに訊いた。
「カエサルさん」
「知り合いなの?」
「チューリップをくれた人」
「フロースさんが、食べちゃった、チューリップ?」
 雪芽は、自分がフロースの真似をして、チューリップの花びらを口に含んでは噎せていたことを、今ではおかしく思いながら、言った。
「チューリップ以外にも、花が咲いたら、くれるのよ」
 フロースは、穏やかにほほ笑んで答えた。
「男の人だけれど、花が好きらしくて、綺麗に咲いたら、ご近所におすそ分けするの」
「あんな人、近所にいたかな」
 人通りの少ない場所なのだから、近所に誰か住んでいれば気づくはずだが、まさかフロースに会いたさにわざわざ来たのではないかと、妙にざわざわと嫌な感じを覚えながら、雪芽は言った。
「住んでいる場所は、街だけれど……」
 フロースは言いかけて、腰を屈めて、雪芽の顔色を見つめた。ダークブルーの目が、夕焼けの色を吸い込んで、いつもより温かみのある色彩を帯びているように見える。雪芽はその目の色を、不思議なものを見つめるように、じっと見つめていた。やがて、フロースのゾッとするほどに冷たい掌が、雪芽の額に触れた。
「どうしたの?」
「熱があるように思ったの」
 雪芽の額から掌を離して、前髪を整えてやりながら、フロースは言った。
「夕焼けのせいだよ、きっと」
「そうかしら……」
 フロースは、そう呟いてもどこか納得しかねる様子で雪芽の前髪を、櫛でくしけずるように撫でていたが、雪芽が、やめて、というように頭を振ると、その手がスッと離れた。雪芽は何だか、湿っぽいものが肩に寄りかかったような気持ちになった。フロースの手首で、キラッと光る鱗がある。雪芽はそれを、随分久しぶりに見るような気がした。
「何をもらったの?」
「これ?」
 フロースは、カタカタと、箱の中身を揺らした。
「クッキーよ。花を練りこんでいるみたい」
「花?……花を食べるの?」
「食用の花よ」
「私でも、食べられる?」
 フロースは、頷いた。フロースも、雪芽が花を食べようとしていたことを思い出して、あるいは、おかしく思っているのかもしれなかった。
 フロースに教わりながら、雪芽も裏庭でハーブを育てる手伝いをするので、食べられる植物があることは知っていた。フロースによると、元々はリュカオンが一人で育てていたらしいのを、途中からフロースが手伝うようになって、今ではその管理を殆どフロースが任されているらしかったが、その前は、リュカオンの保護者であるエリアスが薬草を育てていたらしいのを、エリアスが死んだ後、リュカオンが枯れてしまった薬草を全て引き抜いて、ハーブを植えたらしい。
 リュカオンによると、エリアスは医者だったそうだが、家庭で仕事の話をするような人ではなく、却って、リュカオンの目には暑い日でも首にタオルを巻いて、せっせと畑仕事をしている姿の方が印象に残っているくらいで、医者という感じは、あまりしなかったらしい。もう一人の保護者であるマリアの方は、リュカオンがたびたび口にするように、リュカオンに勉強、家事などを一通り叩き込んでくれただけあって、彼女との思い出は今でも色濃く残っているが、その一方でエリアスの方は、何かしてもらったという思い出よりも、薬草畑の雑草を引き抜くときの、丸まった背中の方をよく覚えているくらいで、顔もよく覚えていないというくらいだったが、後日、リュカオンの仕事が休みだったとき、部屋を掃除していたらしい彼が、ほら、と雪芽に渡してくれた紙切れには、茶色く色あせた色彩の中に、少年の頃のリュカオンらしい人物と、その両脇に、優し気な微笑を浮かべる婦人と、不器用そうに微笑む男性が映っていた。これは何?と雪芽が訊くと、リュカオンは、写真、と淡白に答えた。それから、婦人の方がマリアで、男性の方がエリアス、真ん中の少年は、やはり、リュカオンだという説明を、雪芽は受けた。エリアスさんは笑うのが下手くそで、写真家から何度も、肩の力を抜いてください、と言われたことがおかしく、自分はちょっと気を抜くとゲラゲラ笑ってしまいそうになるのを堪えるのに苦労した、とリュカオンは語った。フロースは、雪芽の肩から雪芽の持つ「シャシン」というものを眺めながら、そう言われてみると、変な顔をしているわね、と言ったが、変な顔は生まれつきだと、リュカオンは言い返した。フロースの、私はリュカオンの顔、良いと思うよ、という言葉を聞きながら、雪芽はその、ふとした瞬間にポロポロと崩れてしまいそうな写真を、しげしげと眺めていた。だから、リュカオンの顔を、良いと思う、とフロースに言われたリュカオンが、どんな表情をしていたか、など、雪芽には知るはずもないのだった。
「ルーメンさんの写真は、ないの?」
 フロースの注いでくれた紅茶とクッキーを合わせて口に運びながら、雪芽は言った。花を練りこんだクッキーというものを、雪芽は初めて口にしたが、独特の風味と癖があって、二つだけ口にして、後は遠慮して、紅茶ばかりを飲んだ。フロースは、美味しそうにクッキーを食べていたが、その指の運び方や、そっと口を開ける仕草などが、深紅の花びらをむ彼女を思い起こさせた。
「ないわ」
 フロースは、簡単に答えた。
「ルーメンも興味がなかったろうし、私も、特に撮りたいとは思わなかったな」
「そっか」
 フロースは、暫く黙って、雪芽の顔を見つめていたが、ふと、口を開いた。
「ルーメンの話、聞きたい?」
「うん」
 フロースは、そっと笑みを深めた。
「ルーメンは、優しい人だったの。でも、彼ほど優しくなかった人を、私は知らない」
「優しいのに、優しくないの?」
 どういうことだろう、と、単純に思った。
「私もリュカオンも、ルーメンに『ここ』に連れて来られたの」
 フロースは、言った。
「リュカオンの方が先輩で、私は、リュカオンより後に連れて来られたの。リュカオンの方は、マリアさんとエリアスさんが面倒を見てくれていたけれど、ルーメンは、そのまま私を引き取った。……人魚って、不吉の象徴みたいなものだから、誰も引き取りたがらなかったのかもしれないけれど」
「不吉……」
 フロースは片手をダラリと持ち上げた。手首の鱗が、キラキラと光っている。
「ルーメンは、マリアさんやエリアスさんがリュカオンに与えてくれたような思い出を、私にはくれなかった。大抵、ほったらかしで、でも、自分が寂しくなると黙って手を握ってきたりした……大人だったのに、寂しがりなんて、可笑しいでしょう?」
「そうかな?」
 雪芽の答えに、フロースは、一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着いた、フロースの目の大きさに戻った。
「寂しがりだったのに、ある日、突然いなくなったの」
「……いなくなった?」
「どうでもよくなったのね、私のこと」
 フロースは、大して悲しくもなさそうに言って、雪芽の顔を見つめた。
「どうして、雪芽はそんな表情をしているの?」
「え?」
 雪芽は、そのとき自分がどんな表情をしていたのか分からず、慌てて顔を擦った。すると、指先に濡れた感触があった。何だろう、と思って見てみると、それは、涙の痕であるらしかった。
「その後、フロースさんはどうしたの?」
「ルーメンの帰りを待っていた」
 本に書かれている文章を読み上げるように、フロースは、淡々と言った。
「ずっと」
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