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第五章

後悔

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「アーラは、風の声が聞こえるんだよ」
 踊っている、というよりも、羽ばたいている、というよりも、まるで泳いでいるよう、というのとも形容し難い。ただ、手足を自由にクルクル動かすロサは、花のように美しい。花と違うのは、地面に根を張っていないことである。時々、さっと身を翻す度に、綺麗に切りそろえた黒髪がふわりと舞い上がって、絹のように滑らかな項がチラリと見える。ロサがその、スラリとした脚を大きく振り上げると、水たまりがパシャン、と目が覚めるような音を立てた。雨上がりの、森の中である。自然の中にいると、ロサの輪郭が不思議な色をした光で縁どられるように、彼女は輝かしかった。吸血鬼ヴァンパイアがそういうものなのか、ロサという少女がそういうものなのか、雪芽には判断がつきかねた。アーラに風の声が聞こえる、というロサの言葉も、片方の耳からもう片方の耳へとスッと通り抜けていって、ちょっと理解しかねた。遅れて、その言葉が頭の中に届いたとき、雪芽は、言葉は分かっていてもやはり理解は追いつかなくて、声を上げた。
「え?」
 ロサはその場でつま先立ちになってクルリと回り、雪芽に向かって、笑いかけた。乱れた黒髪を、そっと耳にかける仕草が、普段、雪芽が知っているロサよりも大人びて見えた。
「ロサ、そういうこと、あまり言わないで」
 アーラは、不機嫌そうに顔を顰めた。
 蒸し暑い日が過ぎて、過ごしやすい気候になってきた。制服も、夏服から変わった。もう少ししたらお祭りがある、その日は学校も休みなのだと、ロサははしゃいでいる。雪芽はその言葉を聞くと、もうそんな時期になったのかと感慨深かったが、アーラはロサよりも数段冷静で、祭りまでにはあと何週間もある、今からそうやってはしゃぐものではない、とロサを窘めている。
「風の声が聞こえるって、どういうこと?」
 雪芽は首を傾げて、アーラを見上げた。アーラはジロッと、雪芽を見下ろした。未だ雪芽は、彼と打ち解け切れてはいないが、こうして一緒に過ごす時間が増えてくると、ある種の気安さのようなものが湧いてきて、こうした、砕けた口の利き方もできるようになった。そう感じられるようになったのは、雪芽がアーラに打ち解けようと特別に努力したわけでもないし、また、アーラが雪芽に歩み寄ろうとしたわけでも、無論ない。二人の間にロサという緩衝材があって、漸く二人は、互いに打ち解けようとすることができるようだった。それは、雪芽の努力やアーラの気遣いというよりも、ロサの才能だろう。
 アーラは、後頭部で渦を巻く金髪を、大きな掌でグルリとかき回した。身長はロサと同じくらいのアーラだが、それはアーラが小柄というわけではなく、ロサの方が一般の少女と比べてかなり背が高い為であって、アーラも決して、少年として体格が劣っているわけではない。寧ろ、掌は普通より大きく出来ているのではないだろうか。こうして後頭部をかき回す仕草を見ていると、常よりも、大きく、平べったく見える。そういえば、リュカオンとフロースも、リュカオンの方がフロースより少し背が高いくらいだが、体つきは、フロースが華奢なせいもあってそう見えるのかもしれないが、リュカオンの方ががっしりとしていて、掌は大きく、青い血管が浮いて見える。ただ、リュカオンが爪の手入れにあまり頓着しないのに対して、アーラは、その点には気を配っているようだった。
「聞こえるだけだよ。大抵は意味のない囁き声だけれど、偶に役に立つことも教えてくれる。探し物をどこで見かけたとか、明日は雨が降る、とか」
 アーラは、そこで少し言葉を切った。
「偶に嘘を教えられることもあるけれど」
 アーラは目の上に手で日陰を作って、眩しそうに空を見上げた。
「多分、生まれたときから、ずっと当たり前だったんだ。だから、他の人には僕の聞こえているものが聞こえていないと知ったときには、驚いたな」
「僕は、アーラが聞いている声を聞きたい」
 ロサが大きく手を広げて、広々とした声で言った。アーラは黙って、ニヤッとした。
「そういうロサには、僕の聞こえていないものが、聞こえるんだろ?」
「そうかな……?」
 フゥッ……と風が耳元を撫でたとき、雪芽は半ば目を伏せて、その声を聞こうとした。しかし、雪芽の耳には、ただ、サワサワと木の葉が揺れる音が届くだけで、アーラが言うような、風の声は聞こえない。ロサが聞いているという、アーラには聞こえていないものも、雪芽には分からなかった。
「でも、同じ空を見る人はいないって、リベラも言っていたからね」
「どういうこと?」
 雪芽が訊くと、ロサは、自分の中でその言葉の意味を、粘土をこね回すのと同じ手つきをしながら、暫く考え込んでいる様子だったが、やがて、ポツポツと、口を開いた。
「例えば……同じ青い空でも、幸福な人が見ると、それは幸福な色をして見えるけれど、悲しい思いをしている人が、同じ空を見上げても、そこには悲しみが映っている……自分が見ているモノ……感じているモノ……聞いているモノ……触れているモノ……それらを、他人と共有するのはできないって」
 ロサはそこまで言って、アーラに向き直った。
「リベラって、時々、変なことを言うよね?」
「そうかな。僕は、リベラの言うことには、大抵賛成だよ。遣いアゴーだもの」
 アーラは、アゴーであることが全ての免罪符であるかのように、ロサに言った。ロサは、ふっと目を伏せた。長い睫毛が、ロサの目の縁に影を作ったが、なんだろうと思っているうちに、その影も消えて、いつもの、朗らかなロサの表情になった。
「アーラは」
 雪芽は、一瞬、口にすべきかどうか、躊躇した。
「アーラは、アゴーになりたいの?」
 アーラとロサが、ほぼ同時に雪芽の顔を見つめた。アーラは、常から無愛想な表情を一層険しくさせて。ロサは、不思議そうな顔をして雪芽を見つめた後、再びアーラに向き直った。
「……そうなの?」
 アーラは、答えることを拒むように、顔を伏せた。その横顔は、長い前髪に遮られて、表情を伺うことはできない。しかし雪芽は、やはり、自分は余計なことを言ってしまったのだろうかと、暗い後悔を感じていた。
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