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第六章

祭り

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 あの諍いの日以来、リュカオンとフロースの間に、何か変化があったかというと、そうでもなかった。満月が過ぎれば、リュカオンはいつものリュカオンに戻り、フロースも、こちらは満月が来ようと何だろうと関係ないといった様子で、物静かだった。そして、あの諍いの日に感じたぎこちなさが薄れるにつれ、雪芽ゆきめの関心を引いたのは、祭りに関することだった。祭りも一週間前に迫ると、何となく街全体に活気が生まれ、学校の生徒たちも、ソワソワして、何となく、授業に身が入らないといった様子だった。雪芽も、その浮かれた空気に当てられて、何となく、落ち着かない日が増えた気がする。
「皆、そんなものだよ」
 そう言うアーラは、割と落ち着いていた。ロサと昼食を食べているとき、珍しくアーラも、混ざってきたのだった。三人はぐるりと円を描くようにして座り、各々、弁当を食べた。
「ロサだって、落ち着いていないよ」
「僕は落ち着いているよ」
「先生が話をしている最中に、窓の外を眺めたり、僕の方を向いてはニヤッと変な笑い方をしたり」
「僕、そんなことしてないよ」
「注文していたお祭りの衣装が届いた途端、当日まで仕舞っておきなさいって言われていたのに、その場で包みをビリビリに破いて……」
「待ちきれなかったんだよ」
「何だ、やっぱり落ち着いていないじゃないか」
 アーラは、どこか勝ち誇ったように、ふふん、と鼻先で笑った。ロサは不満そうに、上目遣いでアーラを睨んだが、凄みが足りなかった。どうやら、図星であることはロサ自身、分かっているらしかった。
「お祭りが近くなってくると、何だかこう、足元がフワフワしてこない?ね、雪芽ちゃん」
「雪芽は『ここ』でのお祭りは初めてなんだから、そんなの分からないだろ」
 同意を求めるかのようなロサの、湖水に映る月のように輝く銀色の目に見据えられ、雪芽は思わず、背中をのけぞらした。ロサの目は、何だか相手を取って抑えるような、不思議な力があるようだった。
「えっと……」
 雪芽は、否定とも肯定ともつかないような、曖昧な返事をするしかなかった。こういうとき、いつもロサの手綱を握るのはアーラであるから、彼に助けを求めるように視線を注ぐと、アーラはもう、弁当を平らげて、片付けているところだった。弁当の蓋を閉じるとき、チラッと雪芽を見ただけで、知らん顔をしている。雪芽は、何となくガックリとした。
「お、お祭りの衣装って、どんなの?」
「素敵だよ」
 ロサは雪芽から身を引いて、ニッコリとした。雪芽はホッと息を吐いて、変な体勢でのけぞっていた為に軋むように感じられる腰を、グッと伸ばした。
「実際に見て、驚いて欲しいから詳しくは言わないけれど、生地の色はアーラが選んでくれたんだ」
「リベラはそういうことになるとさっぱりだし、モリスはいつまでもグズグズして、決めないから」
 アーラは、特に照れた様子もなく、言った。しかし、その耳がほんのりと赤くなっている。雪芽は不意に、微笑ましいものを見せられたような気持ちになって、つい、笑みを浮かべかけたが、こういうときに笑うとアーラが不機嫌になることは何となく察しがついたので、頬の内側を強く噛んで、強いて堪えた。
「アーラも、おしゃれするよ。雪芽ちゃんもするでしょう?」
「うーん、私は、よく分からない……」
 雪芽は、言った。少し前に、そのような話が、あったようななかったような気がするのだが、それっきりだったので、雪芽はすっかり忘れてしまっていた。ひょっとしたら、フロースもリュカオンも、そういうことにはあまり頓着しないのかもしれなかった。そういえば、学校や街では祭りのことで何となく皆、ソワソワと活気付いているのに、あの二人はいつもと変わらず、それこそ祭りが来ようが嵐が来ようが関係ない、といった態度だった。
「フロースさんは、そういうのほっとかないでしょ」
 そう言ったのは、雪芽にとっては意外なことに、アーラだった。
「あの人も、賑やかなことは嫌いじゃないみたいだし、去年のお祭りだって、綺麗にしてたから」
「そうそう。水色の、ヒラヒラしたドレスみたいな服を着て……」
「水色?紫じゃなかった?」
「そうだっけ?」
「水色だよ」
「もう」
 ロサは立ち上がって、スカートの裾を摘まみ、その場でつま先立ちになって、クルリと一回転してみせた。
「お姫様みたいで、綺麗だったよ」
「へぇ……」
 雪芽は、いつも物静かなフロースの、賑やかなことは嫌いじゃない、という意外と言えば意外な一面に驚いていた。寧ろ、リュカオンの方が、そういうことは嫌いじゃなさそうな気がする。しかし、考えてみると、リュカオンの場合はそういった場でも物怖じしないというだけで、特別好きというわけでもないのかもしれなかった。そういえば、以前リュカオンとフロースと、三人でデパートに出かけたときも、デパートという場所を初めて目にした雪芽があっちこっちに目移りしてしまうのは仕方ないとして、フロースも雪芽のお付き合いといった体で寄り道をして、前を歩くリュカオンに置いてけぼりにされそうになったことがあった気がする。
「ロサ、座って」
 アーラに注意されると、ロサは大人しく、その場に座って、スカートの裾を整えた。この二人のこういう場面に出くわすと、まるで、血の繋がっている家族以上に、本当の兄妹のように見えた。しかし、アーラがロサのことを、姉妹と思っていないということは、何を根拠にすることもなく、雪芽には伝わってきた。リュカオンとフロースが、兄妹になりきれないのと同じように。
「雪芽ちゃん」
 ロサが言った。
「『王様』に会いに行こうよ」
「『王様』……?」
「お祭りの日は、『王様』も姿を現すんだ」
「『王様』って……?」
「ね、行こうよ」
 ね、と言いながら、ロサは雪芽の手を握った。雪芽のことを信じて、甘えて寄り添うかのようだった。今まで、そのように触れられたことのなかった雪芽は、戸惑って、アーラの方に視線を向けた。アーラの表情は、長い前髪に遮られて分からない。ただその視線は、以前ロサが、サンドイッチを投げた池に注がれているようだった。
「大丈夫だよ、『王様』は優しいから」
 ロサは雪芽の手を握ったまま、尚も言い募った。

 その日、雪芽の元に、デパートから小包が届いた。
 開けてみると、祭りに来ていく為だろうと思われる、オレンジ色の、ヒラヒラしたドレスのような服が入っていた。
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