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第六章

甘え

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 フロースは、郵便局の前にしゃがみ込んでいた。その姿は、スゥッ……と音もなく消え入りそうなほど、儚げだった。けれど、美しい。櫛を通さずとも濡れたように艶やかに真っ直ぐな髪が、背中に流れている。リュカオンは立ったまま、フロースに声をかけた。
「フロース」
 顔を上げたフロースの唇には、いつもと同じ、ひっそりとした笑みが浮かんでいたが、目の色は、様々な感情が入り混じって、揺らいでいるようだった。リュカオンは、このように訴えかけるような目をしたフロースを、これまでにも何度か見たことがあった。しかしフロースが、心からリュカオンに打ち解けて、何かを訴えてくれたことは、今まで一度もなかった。
「どうした?」
「眠くなっちゃった」
 フロースは、リュカオンの質問の答えになっているような、なっていないようなことを言って、平素の、静かなフロースに戻った。フロースは立ち上がり、長いスカートの裾を払った。それが、魚の尾のように揺らいで、絵でしか見たことのない人魚を思わせた。しかし、フロースに魚の尾はない。
「雪芽は?」
「私が家を出たときには、まだ帰ってきていなかったもの」
「それじゃあ、お前がここにいるって、知らないンじゃないか?」
 リュカオンは、赤くなった空を見上げて、さすがに呆れて言った。
「だから、急いで帰らないと」
 フロースは、風の吹かない日の湖水のように、落ち着いて言った。
 リュカオンは、フロースの雪芽に対する気持ちが、分からないときが多い。一緒に料理を作ったり、学校の宿題を手伝ったり、心から親しみを感じているのかと思えば、殆ど無関心のように振る舞うこともある。その点で、分からない、と言えば雪芽も同じで、リュカオンやフロースに、心から寄り添い、頼ってくれているとは思えなかった。しかし、リュカオンだって、彼女たちに自分の全てを信じ、明け渡しているのかと言えば、そうではない。フロースや雪芽が、リュカオンに対して壁を作っているというのなら、その壁は、リュカオンが作らせたようなものだ。つまりこの三人は、同じ家にいながら、互いに打ち解けず、壁を作って暮らしている。家族、というものにはほど遠い。ただ、居心地は良かった。
 リュカオンの知っている家族は、地下室と、鉄の匂いだった。
 マリアも、エリアスも、リュカオンを自分の息子のように愛してくれたが、リュカオンは、二人の息子にはなり得なかった。マリアもエリアスも、リュカオンに、自分達のことを「親」と呼ばせようとはしなかった。そう呼べば呼んだなりに、二人はリュカオンのことを自分達の「子」として扱ってくれたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
 フロースのことを考えると、必ずと言っていいほど、ルーメンの影が付き纏う。フロースは、ルーメンのことを平気で「ルーメン」と呼んでいたし、ルーメンも、そのことに満足しているようだった。フロースとルーメンも、同じ家に住んでいながら、親子でも、兄妹でも、ましてや、夫婦でもなかった。けれどフロースは、ルーメンを信じていた。多分、ルーメン以上に、フロースの心からの、愛、というものに似ているかもしれない信頼を得るものは、これからも現れないだろう。そしてリュカオンも、自分がフロースにとってそれだけの価値に値する男ではないことを、知っている。昔はそれが、悲しかった。辛かった。今だって、フロースが自分を信じてくれるのなら信じて欲しいが、昔のような、身を焼かれるような悲しみや辛さはなくなった。それは諦めというよりも、リュカオンの中で何かが死んだとしか思われなかった。ただ、フロースへの愛は生きている。幸せになって欲しい。怖いものや、残酷なものを見ないで欲しい。そして、いつかリュカオンの想いを見つけて欲しい。そのときこそ、一緒にルーメンを、探しに行こうと思えるから。

 家に帰ると、雪芽がデパートの包装紙を開けて、膝の上にオレンジ色の鮮やかなドレスに似た衣装を広げて、俯いていた。リュカオンとフロースの顔を見ると、出会った頃よりは大人びた顔に、不安そうな表情を浮かべている。
「これ……」
 雪芽は言いかけて、それ以上は口に出来ないように、俯いた。
「マーテルさんのところに頼んでいた、祭りの衣装」
 リュカオンは、サクサクと、簡単に言った。
「こんな、素敵なの……あの」
 雪芽は歯切れ悪く言って、俯いた。
「雪芽、立ってみて」
 フロースは雪芽を立たせて背中に回り、胸の前に出来上がったばかりの衣装を当てた。風のように軽い蜘蛛の糸で繕われたスカートの部分が、キラキラと、虹色の光沢を帯びた。それを見て、リュカオンは雪芽の顔色よりも、フロースの手首に輝く鱗を思った。
「綺麗でしょう?ね」
 フロースは、いつもの調子で、穏やかに言った。それが、自分に向かって言われている言葉だと、リュカオンはすぐに気づくことが出来なかった。
「あ?」
 と、言ってから、慌てて平静を装って、雪芽の顔をまともに見据えて言った。
「衣装は良いけれど、その表情はどうにかならんかね?マーテルさんも骨を折った甲斐がないだろうが……あの人のどこに骨があるのかは知らないけれど」
「で、でも」
 雪芽は、狼狽えたような口調で言った。黒い目が、リュカオンのものと合わず、落ち着かなげに斜め下を向いている。
「子どもは、大人に、遠慮しない」
 リュカオンは、わざと、幾分か意地悪っぽく言った。雪芽は俯き加減のまま、おずおずと背中に立っているフロースを見上げた。
「こんな素敵な衣装……フロースさんの方が、似合うだろうし……」
「フロースがそんな派手な衣装を着たら、衣装の印象ばかり強くなって、顔が負けるだろ」
 そう言って、リュカオンは、チラッとフロースを見たが、フロースは黙ってニコニコとして、拗ねる様子もない。特に何を期待していたのかと訊かれても困るが、リュカオンは、何となく失望した。
 フロースも雪芽も同じ黒髪だが、こうして二人顔を揃えているのを見ると、まるで印象が違う。フロースは、色が白くて、どこか寂しげな面差しで、雪芽の方は、年齢を考えれば子どもっぽい顔の作りをしているのは勿論だが、化粧をすれば、また顔の印象も変わるだろう。フロースは普段から、口紅さえ塗らないが、去年の祭りのときは、さすがに華やかな装いをしていた。
「似てないなぁ」
 リュカオンは、思わず独り言を呟いた。
「当然でしょ。血の繋がりもないのだもの」
 フロースは、ヒヤリとするようなことを、ニコニコしながら口にした。リュカオンはギョッとして、雪芽の顔を見たが、こちらはフロースの顔よりも、リュカオンの顔にじっと視線を注いでいた。
「リュカオンさん、私、確かに美人じゃないかもしれないけれど……」
「雪芽、私のこと、美人って思ってくれているの?」
 フロースは珍しく、弾んだ声を出した。
「いや……」
 リュカオンは、口の中でもぐもぐと言い訳らしく呟いたが、何を言っても形勢不利だということを察して、一つため息だけついて、手を洗う為に洗面所に向かった。ついでに、顔を洗っていると、ひょっとして、雪芽の先程のあの言葉や表情は、リュカオンやフロースへの甘えではないかと思った。

 呻き声で、リュカオンは目を覚ました。それは、ああっ……という、押し殺した叫びに似ていた。リュカオンは、ベッドの中から抜けた。
 フロースは、雪芽の枕元に膝をついていた。リュカオンが扉を開けたことにも気づいていない様子で、雪芽の頭の辺りに、顔を寄せていた。
「フロース」
 呼ぶと、振り向いた。フロースの白目の部分は、月のように輝いていた。その光は、フロースが瞬きを繰り返すうち、柔らかく消えていった。それに合わせるように、雪芽の呼吸も落ち着いてきた。
 リュカオンはフロースの隣に跪いて、雪芽の額に手を当てた。汗ばんでいたのに、寧ろ冷たかった。
「悪夢かな……?」
 リュカオンは、呟いた。フロースは答えず、長い髪を指で掬って、耳にかけた。リュカオンは、その横顔の、静かで、落ち着いているのを見た。
「辛くないか?」
 フロースは、口元だけでそっとほほ笑んだようだった。
「悲しくないか?」
 フロースは、何も答えなかった。リュカオンは下を向いて、汗でしっとりと濡れている雪芽の頭を撫でた。特に意味のない、無意識の行動だった。雪芽が微かに身動いだ感触で、初めて自分が、雪芽の頭に手を当てていたと、気づいたほど。
 人魚は昔、不老不死の迷信から人間たちからの乱獲に遭い、絶滅寸前にまで追い込まれたのだという。
 しかし実際は、人間が人魚を喰うのではない。
 人魚が、人間を喰らうのだ。
 それでもリュカオンは、フロースを恐ろしいと思ったことは、一度もなかった。フロースも、リュカオンに対して、「狼」の恐怖を感じたことは、なかっただろう。
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