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第六章

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 髪紐が切れた。
 リュカオンは頭に手を当てて、広がる銀髪を押さえた。咄嗟に足元を探したが、切れた髪紐は見つからなかった。もっとも、この人混みの中では、既に誰かに踏みつけられてしまうか何かして、見つかることもないだろう。古い髪紐が切れた程度で不吉を感じるリュカオンではないが、何となく、出鼻を挫かれたような、一種不快の念を感じずにはいられなかった。リュカオンは仕方なしに、髪を手櫛で後ろに流し、フロースと雪芽を探した。誰かがつけているらしい香水の匂いが、ムッと鼻を刺した。
 道を通りながら、時折、屋根を色とりどりの花で飾っている家があるのを見つけた。赤、紫、青、黄……悲しみも忘れるほど鮮やかなその姿に、リュカオンは、一瞬見惚れた。女よりも、花の方が美しいと思う。花よりも、花をむフロースの方が、綺麗だと思う。リュカオンは、再び歩き出した。
 途中、背中の空いたワンピースを着たモリスを見かけた。誰か男と手を繋いで、陽気に踊っている。そのまま声もかけずに通り過ぎてしまったが、コツコツという足音が後ろから近づいてきて、振り返ってみると、モリスだった。大きな耳飾りをつけている。
「よぉ」
 モリスに肩を叩かれて挨拶をされて、リュカオンも仕方なく、挨拶を返した。
「よぉ」
「何よ、その取り乱した髪型」
 モリスはリュカオンを覗き込むような恰好をして、ニヤニヤした。モリスは、大抵の男より背が高い。リュカオンも、決して小柄ではないのだが、モリスよりは背が低かった。
「フロースと雪芽、知らねぇか?」
 リュカオンはモリスの質問には答えず、言った。
「一緒にいると思うンだけど」
「雪芽ちゃんは、ロサとアーラが連れて行ったかも」
 モリスは、少し目にかかっている前髪を、鬱陶しそうに払いながら言った。
「じゃあ、フロースは今、一人なのか?」
「お前はフロースのことになると、少し過保護の気味があるね」
 リュカオンは、当たり前だろ、と言いかけて、何故か言葉にならなかった。
「好きなら好きって言えばいいのに……お前、フロースのこと、結構好きだろ」
 弾けるような笑い声が、どこかで起こった。リュカオンは、こんな賑やかなところで、独りぼっちでいるフロースを思った。
「俺、もう行くから」
 そう言って、リュカオンは駆け出した。頭が割れそうだった。
 モリスは、男も女もないような奴だ。リュカオンやフロースとも、昔から気安く付き合っている。リュカオンは、モリスに女性的な魅力を感じたことは全くと言っていいほどなかったが、あのように着飾っている姿を見ると、確かに彼女も、美しい女の一人なんだと思う。しかしリュカオンには、普段の、男も女もないような恰好をしているモリスの方に、好感を持っていた。あの姿なら、モリスがリュカオンに気安く接してきたように、リュカオンも、モリスに気安く受け答えをすることができただろう。しかし、今日のモリスを見ると、まるで、他人に自身の内心を見透かされているようで、打ち解ける気になれなかった。
 フロースは、出店の、雑貨売り場にいた。フロースもまた、着飾っている。
「フロース」
 振り返ったフロースの目を見て、リュカオンは思わず、息を呑んだ。そのダークブルーの目は、まるで夢を見ているかのように焦点が合っていなかった。
「リュカオン」
 フロースは、はぁっ……と息を吐いて、顔を覆った。今にも、崩れ落ちてしまいそうだった。リュカオンは、フロースの隣に立った。フロースの薄い肩が、震えている。それでもリュカオンは、自分からフロースに手を伸ばすことが出来なかった。
「どうした?」
 フロースは、首を左右に振った。
「雪芽は?」
 フロースは、また、首を左右に振った。
「ロサとアーラが一緒にいるのか?」
 フロースは、ここで漸く、顔を覆ったまま、微かに、頷くような仕草をした。
「……独りだったのか?」
 フロースは、大きく息を吐いて、顔から手を退かした。化粧の下から、青白い肌の色が、透けて見えるようだった。しかし、その目は先ほどとは違って、妙に生き生きとしていた。
「リュカオン、ルーメンが……」
 フロースは、それ以上は言えないように、口を噤んだ。リュカオンも、何も言わず、ただ自分でも分かるほど青ざめた表情で、フロースの顔を見つめていた。
「いたのか?」
 リュカオンは、フロースに囁くように言った。
「あの男が、いたのか?」
 この祭りは、そもそも帰ってくる死者の魂を、温かく迎える為の祭りなのだ。帰って来れなくなったモノたちを、受け入れる為の祭り。年月を経て、祭りはただ、生きているモノたちが浮かれて楽しむ為のものに様式を変えていったが、その年に死んだモノがある家に花を飾るという風習は、今も残っている。リュカオンも、マリアとエリアスが死んだ年には、家を花で飾った。一人では出来なくて、モリスやリベラに手伝ってもらった。フロースが来て以来、花は飾っていない。
 今、踊っている人たちの中にも、ひょっとしたら、「向こう側」にも「ここ」にも帰って来れなくなったモノたちが、混ざっているのかもしれない。

 あれは、何度目に逃げたときだっただろう。
 リュカオンは、左右の手で地を掴み、獣のように走っていた。ただ、帰りたい。帰らなければいけない、という願いに突き動かされて。指先から血が噴き出して、喉の奥が燃えるように熱くなり、欠けた月に向かって叫ぼうとしても、ただヒュウヒュウという、弱弱しい音が鳴るばかりだった。リュカオンを「ここ」につれてきた男は、リュカオンを「化け物」だと言った。俺と同じ化け物。人間の世界には馴染めない。自らを化け物だと言ったその男は、化け物の世界にも馴染めなかったのか。
 リュカオンは力尽き、倒れた。体のあちこちが痛くて、自らの意思で動くこともできなかったのに、涙は流れた。リュカオンは疲れていた。リュカオンは眠らなけらばならなかった。リュカオンは、自分を化け物だと認めなければならなかった。母と妹の住む世界に、リュカオンの居場所はない。そんなこと、もっと早くに気づけば良かったのに。
「……フロース」
 リュカオンの声は、小さかったが、自分でも思いがけず、強い声になった。
「フロース、行こう」
 フロースは俯いて、死んだように動かなかった。
「フロース」
「リュカオン」
 フロースは顔を上げて、リュカオンの目を見つめた。明るい菫色の目と、潤んだダークブルーの目がぶつかった。フロースは、その目をだんだんと、大きく見開いていった。今にも、涙が零れそうだった。
「手を握って」
 フロースは言った。
「私の手を、握って」
 祭りの喧騒が。
 陽気な笑い声が。
 誰かの鳴らす下手な笛の音が。
 遠くに、聞こえた。
 ――水の中に、いるようだった。
「私を、ルーメンのところに連れて行って」
 フロースの声は、水の中にいてもはっきりと聞こえた。
「お願い」
 フロースは、小さな子どもに戻ったように、頼りなかった。
「独りで行くのは怖いのよ」
 リュカオンは、フロースの手を握った。
 ずっと水の中にいたような冷たい手は、柔らかかった。
 フロースの手を握ったと同時に、リュカオンの体は水の中から浮かび上がり、彼は二本の脚で立っていた。フロースも、立っていた。
 こんなに簡単なことだったのか、とリュカオンは思った。
 ずっと、フロースに触れるのが怖かった。怖い中に、悲しさと、寂しさがあった。そして、愛しさがあった。「化け物」と呼ばれた自分に、そのような感情があるのが不思議だった。
 暗闇を恐れる心。
 独りを悲しむ心。
 愛を求める寂しさ。
 誰かを想う愛しさ。
 人間が名付けたと言われるその感情を、リュカオンもフロースも持っていた。「化け物」たちの世界に足を踏み入れながら、それでも俺は人間だったよと、幼いリュカオンが叫んでいる。リュカオンは、分かっているよと、彼を抱きしめることが出来た。フロースの手を握ったことで、「化け物」の彼女を愛したことで、リュカオンは漸くそれが出来た。
 自分で自分の命を許すのに、随分長い年月をかけてしまった。
「ルーメンは、フロースを愛していたよ」
 リュカオンは言った。フロースの、冷たくても柔らかい手を握りながら。
「フロースは、今もルーメンを信じているンだよな」
「うん」
「俺は……」
 リュカオンは、フロースの手を取って、その場から歩き出した。
「俺は、フロースが好きだよ」
 フロースを愛しているから、今もルーメンを愛しているフロースに、愛していると、告げることは出来なかった。以前のリュカオンなら、それを臆病だと思っていた。けれど今は、それでも良いと思っている。フロースを愛しているこの心は、「化け物」のリュカオンの胸を温めてくれるから。
「ずっと、好きだよ」
 フロースは、何も言わなかった。ただ、リュカオンの手を握る手に、力が籠った。
 フロースはいつも、水のように静かで、美しかった。
 本当は、出会った頃から知っていた。
 リュカオンは、フロースを愛している。
 今はそれだけが、リュカオンが「ここ」にいる理由だった。

 ――そのとき雪芽は、「王様」の傍で意識を失っていた。
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