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第七章
記録者
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暗くて湿っぽい地下室。燃えているのに、どこか冷たい蝋燭の灯り。じめじめした、冷たい床。僕は「化け物」だからそこにいた。水に沈めても、高いところから落としても死ななかった。だから僕は「化け物」だった。「化け物」の僕は、外に世界があるなんて知らなかった。ただ「化け物」の僕に与えられた世界でじっとしていれば、外に世界があることも、痛みを感じる心を知ることもなかった。けれど君は、僕に何もかもを教えてくれた。
外には空があるんだよ、と君は言った。晴れると空は青くなるんだ。それから太陽が沈んで、オレンジ色と金色が滲んで、燃えるようだと思っているうちに、群青色がやってきて、夜が来る。綺麗なものは空だけじゃないよ。春の野原、夏の雲、秋の果物、冬の雪、君に見せてあげたいものが、たくさんあるんだ。君はそう言っていた。
君は何も出来ない僕に、言葉を教えてくれた。君が僕に教えてくれる言葉は、どれも温かくて、どれも、綺麗だった。僕が言葉を一つ覚えるたびに、君は零れるような青い目を細めて、嬉しそうに笑ってくれたね。君が教えてくれた、青空というものは、きっと、君の目のような色をしているのだろうね、と僕が言うと、君は、僕なんか……と言って、綺麗な青い目を、隠すように伏せた。
僕は君から世界を教わった。赤、青、黄、白、紫……君が教えてくれる色は、どれも綺麗だった。
君はいつか僕に、空を見せてくれると言った。けれど、僕は実際、君が教えてくれる空を、それほど見たいとは思わなかったんだ、ごめんね。僕は君が、その目に閉じ込めてきた、青い空を見つめるだけで、切なくなるほど幸せだった。君がいれば、僕はそれだけで充分だった。
これ以上の幸せは望みません。君がいてくれれば、僕はそれでいい。
ねぇ、アーラ。
君も、僕と同じ気持ちでいてくれる?
君はいつも優しかった。
君はいつも正しかった。
君はいつも、僕の味方でいてくれた。
ねぇ、アーラ。
僕のこの「心」の名前を、君に教えて欲しい。
――そして、雪芽は目を覚ました。
見覚えのない天井。枕元の一輪挿しに、花が一輪挿されている。名前の分からないその花の色は、血のような赤だった。
「起きたか」
部屋の隅の椅子に、男が一人、項垂れるように腰かけていた。艶のある黒髪を無造作に結い上げ後れ毛を散らばしたその男は、褐色の肌に、銀色の切れ長の目をしていた。背筋が凍えるように美しいその男の名前を、雪芽は知っていた。
「リベラさん」
リベラは銀色に輝く、どこか金属的な目で、雪芽を見つめた。
「気分はどうだ」
言葉こそこちらを気遣うような内容だったが、そこに思いやりは感じられなかった。初めて病院で顔を合わせたときも、この男はこういう態度だった。そこが、今の雪芽にはありがたかった。
雪芽は、瞬きを一つした。涙が一滴、こめかみを伝って、枕に染みた。
「……悪くない、みたいです」
口を開くのさえ、億劫だったが、雪芽はどうにか言った。
「そうか」
リベラは素っ気なく言った。
「ロサが、お前のことを心配していた」
「そう、ですか……」
「さっきまで、フロースとリュカオンもいたが、今は二人共寝ている。起こしてくるか?」
「大丈夫です」
「そうか」
暫く、触れれば破れるような、淡い沈黙が下りた。雪芽は目を閉じて、その沈黙が破れないように、気を付けた。リベラの言葉によると、ここにはフロースもリュカオンもいるらしいが、住み慣れた二人の家とは思えなかった。だとすれば、ここはリベラの家だろうか。
雪芽は、ゆっくりと目を開けた。
「リベラさん」
破らないように注意していた沈黙を、雪芽は慎重に破った。
「あなたは、知っていたんですか?」
「何を?」
雪芽は、答えることをためらった。
「私は……あなたたちみたいな『化け物』とは違う。けれど、『向こう側』にも馴染めない」
リベラは、黙って、雪芽の話を聞いていた。
「私は……」
これ以上口にするのは、身を切られるように辛かった。しかし、雪芽はリベラに問うた。
「私は……『ナニモノ』?」
「お前は、『記録者』だ」
リベラは、あっさりと答えた。
「過去、あるいは未来、現在を渡り、あらゆるモノの記憶を辿り、心と痛みを知る」
リベラは続けた。
「そういうモノは、やがて膨大な記録の中で『自分』を失い、蓄えた『記録』と共に、『王様』と呼ばれる、あの大樹の養分となる」
リベラは、淡々と言った。
「あの大樹は、そうやって生き続ける」
雪芽は黙って、リベラの話を聞いていた。
「あのとき、お前はあの大樹と同化しかけた。だが、それにはまだ『記録』が足りていなかった。だからお前は、あの大樹と同化する寸前で分離した」
「……リベラさんは、『王様』のことを、『大樹』と呼ぶんですね」
「木に変わりはないだろう」
リベラは平気な顔をして言ったが、雪芽はその目つきや、不敬な口ぶりに、何だかゾッとするものを感じた。
「リベラさん」
雪芽は言った。その声は、震えていた。
「私はさっきも、誰かの生きていた『記録』を視たよ」
「そうか」
「さっきだけじゃない。何度も視た。何度も知った」
愛を。痛みを。願いを。悲しみを。寂しさを。
「リベラさん、私は、『私』で良いんだよね?」
雪芽が渡った時。誰かの「記録」された時。誰かの心。その痛み。
「私は、まだ『私』だよね」
「それは、俺の答えるべき質問の範疇を超えている」
リベラは、あっさりと言った。
「だけど、お前が『雪芽』でいたいなら、『雪芽』でいろ」
いつか「ここ」からいなくなる、その日まで。
外には空があるんだよ、と君は言った。晴れると空は青くなるんだ。それから太陽が沈んで、オレンジ色と金色が滲んで、燃えるようだと思っているうちに、群青色がやってきて、夜が来る。綺麗なものは空だけじゃないよ。春の野原、夏の雲、秋の果物、冬の雪、君に見せてあげたいものが、たくさんあるんだ。君はそう言っていた。
君は何も出来ない僕に、言葉を教えてくれた。君が僕に教えてくれる言葉は、どれも温かくて、どれも、綺麗だった。僕が言葉を一つ覚えるたびに、君は零れるような青い目を細めて、嬉しそうに笑ってくれたね。君が教えてくれた、青空というものは、きっと、君の目のような色をしているのだろうね、と僕が言うと、君は、僕なんか……と言って、綺麗な青い目を、隠すように伏せた。
僕は君から世界を教わった。赤、青、黄、白、紫……君が教えてくれる色は、どれも綺麗だった。
君はいつか僕に、空を見せてくれると言った。けれど、僕は実際、君が教えてくれる空を、それほど見たいとは思わなかったんだ、ごめんね。僕は君が、その目に閉じ込めてきた、青い空を見つめるだけで、切なくなるほど幸せだった。君がいれば、僕はそれだけで充分だった。
これ以上の幸せは望みません。君がいてくれれば、僕はそれでいい。
ねぇ、アーラ。
君も、僕と同じ気持ちでいてくれる?
君はいつも優しかった。
君はいつも正しかった。
君はいつも、僕の味方でいてくれた。
ねぇ、アーラ。
僕のこの「心」の名前を、君に教えて欲しい。
――そして、雪芽は目を覚ました。
見覚えのない天井。枕元の一輪挿しに、花が一輪挿されている。名前の分からないその花の色は、血のような赤だった。
「起きたか」
部屋の隅の椅子に、男が一人、項垂れるように腰かけていた。艶のある黒髪を無造作に結い上げ後れ毛を散らばしたその男は、褐色の肌に、銀色の切れ長の目をしていた。背筋が凍えるように美しいその男の名前を、雪芽は知っていた。
「リベラさん」
リベラは銀色に輝く、どこか金属的な目で、雪芽を見つめた。
「気分はどうだ」
言葉こそこちらを気遣うような内容だったが、そこに思いやりは感じられなかった。初めて病院で顔を合わせたときも、この男はこういう態度だった。そこが、今の雪芽にはありがたかった。
雪芽は、瞬きを一つした。涙が一滴、こめかみを伝って、枕に染みた。
「……悪くない、みたいです」
口を開くのさえ、億劫だったが、雪芽はどうにか言った。
「そうか」
リベラは素っ気なく言った。
「ロサが、お前のことを心配していた」
「そう、ですか……」
「さっきまで、フロースとリュカオンもいたが、今は二人共寝ている。起こしてくるか?」
「大丈夫です」
「そうか」
暫く、触れれば破れるような、淡い沈黙が下りた。雪芽は目を閉じて、その沈黙が破れないように、気を付けた。リベラの言葉によると、ここにはフロースもリュカオンもいるらしいが、住み慣れた二人の家とは思えなかった。だとすれば、ここはリベラの家だろうか。
雪芽は、ゆっくりと目を開けた。
「リベラさん」
破らないように注意していた沈黙を、雪芽は慎重に破った。
「あなたは、知っていたんですか?」
「何を?」
雪芽は、答えることをためらった。
「私は……あなたたちみたいな『化け物』とは違う。けれど、『向こう側』にも馴染めない」
リベラは、黙って、雪芽の話を聞いていた。
「私は……」
これ以上口にするのは、身を切られるように辛かった。しかし、雪芽はリベラに問うた。
「私は……『ナニモノ』?」
「お前は、『記録者』だ」
リベラは、あっさりと答えた。
「過去、あるいは未来、現在を渡り、あらゆるモノの記憶を辿り、心と痛みを知る」
リベラは続けた。
「そういうモノは、やがて膨大な記録の中で『自分』を失い、蓄えた『記録』と共に、『王様』と呼ばれる、あの大樹の養分となる」
リベラは、淡々と言った。
「あの大樹は、そうやって生き続ける」
雪芽は黙って、リベラの話を聞いていた。
「あのとき、お前はあの大樹と同化しかけた。だが、それにはまだ『記録』が足りていなかった。だからお前は、あの大樹と同化する寸前で分離した」
「……リベラさんは、『王様』のことを、『大樹』と呼ぶんですね」
「木に変わりはないだろう」
リベラは平気な顔をして言ったが、雪芽はその目つきや、不敬な口ぶりに、何だかゾッとするものを感じた。
「リベラさん」
雪芽は言った。その声は、震えていた。
「私はさっきも、誰かの生きていた『記録』を視たよ」
「そうか」
「さっきだけじゃない。何度も視た。何度も知った」
愛を。痛みを。願いを。悲しみを。寂しさを。
「リベラさん、私は、『私』で良いんだよね?」
雪芽が渡った時。誰かの「記録」された時。誰かの心。その痛み。
「私は、まだ『私』だよね」
「それは、俺の答えるべき質問の範疇を超えている」
リベラは、あっさりと言った。
「だけど、お前が『雪芽』でいたいなら、『雪芽』でいろ」
いつか「ここ」からいなくなる、その日まで。
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