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第七章

願い

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 祭りから一日経った日、雪芽は学校を休んだ。二日目も、学校を休んだ。三日目、ロサとアーラが学校帰りに家に寄ってくれたが、雪芽は会わず、フロースが代わりに応対した。
 雪芽は、ずっと苦しんでいるようだった。額は、寧ろ冷たかった。腹が空けば食事をとったし、手洗いにも自分で立って行けたが、肉体は「ここ」にあっても「心」はどこか遠くに行ってしまったようだった。フロースは、そんな雪芽の隣で眠っていた。
「うなされているのよ」
 ある日リュカオンが、雪芽の様子をフロースに訊ねると、フロースはこう答えた。リュカオンは、それならばこの数日の間、自分が鳥の声だと思って気味悪く聞いていたものは、雪芽の唸り声だったのかと気が付いた。
「悪夢か」
 リュカオンは、言った。その声は、我ながら薄情に感じるほど、平坦だった。
「誰かの痛みや苦しみを、辿っているのか」
 リュカオンには、ベッドに横たわる雪芽が、自分の知っている「雪芽」か、既に違う「雪芽」に変わろうとしているのか、分からなかった。そもそもリュカオンの知る「雪芽」とは「何」だったのか。リュカオンは彼女の、風に揺れる短い黒髪や、ぼかされたように潤んだ目を覚えているばかりだった。こんなことを思う前に、もっと、話をしておけば良かったと思う。
 今の雪芽には、休息が必要だった。しかし、肉体は眠っていても、彼女の精神は放浪し、「記録」を蓄えていく。そしていつか「雪芽」が「雪芽」ではなくなる日がくる。そのことだけが分かっている。
 雪芽がうなされていると、フロースから聞かされた晩、リュカオンは、目を覚ました。湖の縁に立って、鳥の声を聞く夢を見ていた。雪芽の苦しむ声を、鳥の声のようだと思ったから、そのような夢を見たのかもしれない。リュカオンは幾日も、似たような夢を見ていた。ああ……ああ……という声だった。リュカオンは、急にじっとしていられないほどの胸騒ぎを感じて、立ち上がった。
 雪芽の部屋では、フロースが、雪芽に覆いかぶさるような恰好をしていた。雪芽は、フロースの下で藻掻いていた。フロースが、雪芽を苦しめているように見える。リュカオンの目には、フロースの喉が、淡く光っているのが見えた。
「止せ」
 リュカオンは半ば叫ぶような声で言ったが、雪芽を抱きしめ、そのこめかみに口づけているフロースの苦し気な横顔には、何も聞こえていないようだった。リュカオンは雪芽の部屋に入り、フロースの肩を掴んで、強く揺すぶった。
「止せ」
 フロースは、リュカオンを見つめた。リュカオンは、このように強い悲しみを帯びたフロースの目を、見たことがなかった。フロースの胸元で、青い光が煌々と輝いている。リュカオンは、その光る胸元に、手を当てた。
「もう、止せ」
 リュカオンは、三度目の「止せ」を言った。
「人魚は人間を食べるのよ」
 フロースは言った。
「人間の、『心』を食べるの」
 雪芽の呼吸が安らかになっていくのに合わせて、フロースの胸元の光も明滅し、暗くなっていった。
「お前がそんなことをする必要はない」
 リュカオンは言った。
「お前も雪芽も、苦しむ時間が長くなるだけだ」
「私は苦しくない」
「お前が雪芽の『心』を食べたところで、雪芽はいずれ『雪芽』じゃなくなる」
 フロースは、大きく目を見開いた。リュカオンは、フロースの胸元から、そっと手を退けた。
「私は、雪芽にもっと長い時間『雪芽』でいて欲しいだけよ」
「分かってる」
 リュカオンは、苦しかった。
「分かってるよ」
 フロースは、リュカオンの手を握りしめ、その手の甲に、冷たい額を押し当てた。フロースは、震えているようだった。
「お前が苦しいのも、痛いのも、分かっているつもりだよ」
 フロースは、リュカオンの手の甲に額を押し当てたまま、首を左右に振った。
 泣いているらしかった。
「リュカオンは分かっていない」
 フロースは、悲痛な声を押し殺して言った。
「苦しいのも、痛いのも、雪芽よ……ッ!」
 リュカオンは暗い目をして、眠る雪芽の顔を見つめた。
 そこに、涙の痕はなかった。しかし、泣いていないからと言って、それが悲しんでいない理由にはならないと、リュカオンは知っている。
 フロースの願いは、「雪芽」に届いているのだろうか。
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