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第七章

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 ――ここは、どこだろう。
 雪芽は、湖の縁に立っていた。静かな水面に、銀色の月が、ぼかした水彩画のように映っているのが見えた。その月が、怖かった。怖かったけれど、懐かしかった。自分は、あの月に呼ばれているのだと思った。
 柔らかい草を踏みしめながら、一歩、また一歩と、月に近づいていく。水と土が混ざったような匂い。身体中に粘つくように絡みついて、雪芽を呼んでいる。そこには、あらゆる悲しみがあるのだ。あらゆる苦しみがあるのだ。あらゆる痛みがあるのだ。
 ――だから、何もないんだ。
 悲しみも。苦しみも。痛みも。
 湖に、足を踏み入れると、チャプン……と音がした。静かな水面が揺らいで、月が壊れる。
 雪芽は、重く纏わりつくような湖の水を、かき分けかき分け、進んでいく。体に、無数の鎖が絡みついているようだった。首から、胸元を通っている一本の軸が、キリキリと締め付けられているようだ。苦しい、のに、進まなければならない。
 一歩進んで欠けるような悲しみを知る。
 二歩進んで血を吐くような苦しみを知る。
 三歩進んで茨を掴むような痛みを知る。
 其れは――
「其れは、君がこれから記録するモノだ」
 誰か、声がした。
「今はまだ早い」
 振り返ると、褐色の肌に銀色の目の、背の高い男が立っていた。一瞬、リベラかと思ったが、声からして違うらしい。男は吸血鬼ヴァンパイアで、素晴らしく整った顔立ちをしていることは分かるが、全体の顔の印象を捉えようとしようと、霧の向こうの景色を見るように、ぼんやりした。男は、雪芽と同じように、湖の中に立っていた。今まで、この男の存在に気づかなかったのが、不思議だった。
 ――あなたは?
 そう問おうとして、声が出なかった。代わりに、水の中に潜っているかのように、口から、透明な気泡が漏れた。水の中に潜っているのではなく、立っているというのに。それでも、雪芽の言葉は、男に伝わったらしかった。
「僕は今の『記録者』の残滓だよ」
 男は、言った。どうやら笑ったらしかったが、その笑い方が、何故だか本当に水の中に潜っているように息が苦しくなるほど、悲しく、雪芽の胸を締め付けた。
「ほら、君はまだ自分の『悲しい』を持っているじゃないか」
 男は、少年のような声で言った。
「まだ見るべきモノ、聞くべきモノ、知るべきモノがたくさんある」
 水面が揺れる。
 月が砕ける。
 其れは、男の悲しみか、雪芽の悲しみか。
 雪芽――
「君はまだ、『ここ』に来るべきじゃない」
 ――私は、
 雪芽は、口を開いた。相変わらず声は出ず、口から気泡が漏れるばかりだったが、それでも訴えた。
 ――私は、どこにいればいいんですか?
 男の目が、じっと、雪芽に注がれた。
 ――「雪芽」は本当にいたんですか?「私」の存在を証明してくれる人は、どこにいるんですか?
 過去を渡り、今を渡り、未来を渡り、悲しみを知って、苦しみを知って、痛みを知って。
 歪なモノを、仮に「愛」と名付けて。
 ――誰を傷つけても、誰に愛されても「私」はいずれ、いなくなるんです。
 ガブリ、と気泡が口から溢れる。それは天に昇っていく魂のように、暗闇の中に吸い込まれていった。「雪芽」が流した涙も、闇に溶けて、やがて忘れられるのだろう。
 ――そのことに、意味はありますか?
「君は、君の命に意味を求めているの?」
 男は、幾分か雪芽をからかう調子で言った。
「いずれ君は、『記録者』になる。そうしたら、君の存在だってなくなるよ」
 男の言葉を、雪芽は大して残酷なものとも思わずに聞いた。ああ、やっぱり、と、諦観とも違う、差し出されたモノを胸に抱いたときの、何か安堵に似たものを覚えた。
「でも君は、今、確かに存在している」
 男は言った。
「今の君を、呼んでいる人がいるんだ」
 男は子どもがいたずら心を起こしたように、チャプチャプと、水面を揺らした。水面の月が、時々、キラリと銀色に輝きながら、砕けて、形を成した。
「僕が置いてきてしまった……ああ見えて、寂しがりやなんだ」
 水面を撫でるように揺らしながら、男は言った。その声は、微かな震えを帯びて、静まった。同時に、水面の揺れも、静まった。水面に映る月も、穏やかだった。
「あの子は今も、僕を信じてくれている。おかげで僕は、こうして残滓だけでもこの世界に留めておくことができる。僕はあの子にちっとも優しくなかった。僕はあの子を愛していなかった。僕はあの子を大事にしなかった。それなのに、あの子はどうして、僕を信じてくれるのか……」
 雪芽の頭を、誰かが撫でてくれたような気がした。
 気のせい、かもしれない。
「話せるうちに、ちゃんと、話しておくべきだったよ」
 ――泣いているの?
「泣かないよ」
 男は、本当に泣いていないらしい声で、朗らかに言った。
「君は帰って。振り返って、真っすぐに進んでいくんだ。振り向かないで」
 ――はい。
「僕と話したことも、君は忘れるんだろうね」
 ――私は、あなたのことを誰かに話したい気がする。
「僕はもう一度、あの子に会いたい」
 ――会いに行けばいいのに。
「会えないよ。あの子が僕を忘れる日を、僕は心待ちにしているんだ」
 ――嘘。
「うん、嘘」
 雪芽は後ろを向いて、一歩、進んだ。
 湖の水は、もう、重く絡みついてこなかった。

 ――そして、雪芽は目を覚ました。
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