上 下
30 / 31
第七章

しおりを挟む
 差し出した手には、様々な意味を込めているようであり、込めていないようでもあった。ロサは差し出された手を、差し出された手として握ったようだった。
「冷たいね」
 ロサの手は、温かくも冷たくもないよ、とアーラは言いかけてやめた。代わりに、ロサの指と自分の指を絡ませて、強く握り込んだ。ロサが、痛いよ、と言うくらい。痛いよ、と言ったロサの声は、柔らかい笑いを含んでいた。アーラは、ロサの手を握る力を、ユルユルと緩めた。ロサを妹のように愛していながら、時に恋人が与えてくれるような愛を彼女に求め、幼子が母親に無条件に抱かれるように、彼女に縋る。この心を「恋」と安易に名付けるには様々なものが複雑に絡み合っていて、アーラには分からない。分からないけれど、ロサが自分から離れることに不安を感じているのは確かだった。
 ロサの心は自由だと、心から彼女に告げるには、アーラの勇気では足りない。自分はロサと出会って、自由を知ったようなものなのに。
 ロサは生まれながらに自由でありながら、自由ではなかった。アーラが隣にいる限り、彼女は本当の意味では自由にならない。
 アーラは、ロサの自由を恐れている。
 ロサとアーラは、手を繋いで歩いていた。特に、目的はない。ただ、ロサが歩こうと言ったから、歩いている。繋いだ手に意味はない。意味はないけれど、離し難いロサの手だった。
「雪芽ちゃん、大丈夫だよね」
 ロサが言った。答えを求めていないような、ポタン、とした声だったから、アーラは黙っていた。
「きっと、元気になるよね。そうしたら、また一緒にお弁当を食べようかな。パンに挟んだハムを一枚だけ、池の中に投げたりしてさ。クラーケンって、何でも食べるんだよね。アーラも、一緒だよ」
「君は、雪芽がお気に入りなんだろ」
 アーラは、拗ねた調子でもなく、寧ろ楽しそうな声音を意識して言ったが、妙に上ずった声になった。変声期を越えたアーラの声は、低く、滑らかな声だった。アーラの声じゃないみたいだよ、と言ったロサに、すぐに慣れるよ、と言ったのはモリスだった。
「僕はアーラも雪芽ちゃんも、好きだよ」
「……あのさ」
 アーラはロサと握った手を振りながら、躊躇い勝ちに言った。
「……そろそろ、その話し方、やめなよ」
「……僕、何か変なこと言ったかな?」
「男みたいな話し方、やめなよ」
 アーラは、幾分か強い声で言った。ロサは、キョトンとした表情をした。その表情を真っ直ぐに見ていられず、アーラは、そっぽを向いた。思い出したのである。初めて会ったときも、ロサは同じような顔をして、アーラを見つめていた。あの頃アーラは自由を知らず、ロサは、空の色を知らなかった。
「僕の話し方を真似してるのは分かるよ。でも、君は女の子じゃないか」
「……僕は、僕の言葉で話しているつもりだけど?」
「君に言葉を教えたのは、僕だよ」
「そうだね。だからこれは、僕の言葉だ」
 アーラは、ロサの顔を見た。ロサは、朗らかに笑った。初めて彼女の笑顔を見たときも、アーラは、本当の太陽を見たような気がしたのだった。この太陽が、雲に遮られる日があっても、また顔を出し、等しく全てを照らすのが「幸せ」なのだと、アーラは信じている。
 ロサは、アーラにとっての太陽で、自由で、愛の象徴だった。
「ねぇ、アーラはどんな大人になりたい?」
 風が吹いて、ロサの黒髪が、輝くように靡いた。
「君は知っているだろう」
遣いアゴーになりたいことは知っているよ。前に、教えてくれたよね。けれど、リベラになりたいわけじゃ、ないんだろ?」
「あんな大人、なろうとしてなれるものじゃないよ」
 アゴーだって、クラヴィスが認めてくれなければ、なれるとは限らなかったが、アーラはそれについては何も言わなかった。
「ロサは、もっと女性らしくなりなよ。森に行くたびに、裸足で駆け回ったり、クラーケンにパンを投げつけたりしないでさ」
「僕はね……」
 ロサが、言った。
「僕は、『ここ』にいる」
 また、風が吹いた。アーラは、ロサと握っていない方の手で、ロサの黒髪を彼女の耳にかけた。髪が伸びたな、と思う。今は同じくらいの背丈だが、アーラの背も、いつかロサの背丈を、完全に越すのだろうか。そうなったら、ロサの髪を耳にかけるのに、いちいち腰を屈める必要があるのだろうか。
「『ここ』でアーラの帰りを待っている」
 ロサが、言葉を続けた。優しい声だった。
「そして、真っ先にアーラに『おかえり』って言いたい」
「それじゃあ……」
 アーラの声が震えた。震えたが、ロサに何を伝えるべきか分からず、口を閉ざした。
「アーラは、どこにでも行けるよ」
 ロサは、優しい声で言葉を続けた。
「でも、どこに行っても、きっと僕のところに帰って来てくれる。そういう予感がするんだよ」
「……あるとき、突然帰って来なくなるかもしれないよ」
 アーラは言った。その声は、やはり、震えていた。
「それでも、僕は待っているよ」
「どうして?」
「君を信じているから」
 当たり前だろう?というような、ごく軽い調子でロサが言うから、アーラは思わず、声を上げて笑った。ロサも笑った。鈴が鳴るような、コロコロとした、可愛らしい笑い方だった。
 もうすぐ、冬が来る。
しおりを挟む

処理中です...