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終章

爪痕

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 雨が降っていた。
 リベラは森の中に立ちながら、雨に打たれるに任せて、体を濡らしていた。夜の森である。リベラの鋭敏な聴覚は、雨粒が葉を打つ音、地面に染みわたる音、己の肌の筋を伝う音が聞こえた。雨に打たれながら、音に溺れる感覚である。音に溺れて死ぬ、ということもあるのだろうかと、リベラは思って、目を閉じる。そうだとしたら、自分はとっくに死んでいる。モリスも、ロサも。五感が鋭敏な吸血鬼ヴァンパイアにとって、この感覚は当たり前のことで、ただ、その当たり前と思っていることにある日突然気づかされて、驚くことがあるというだけだ。胸に手を当てて、心臓が正しく脈打っていることに気が付いて、驚かされることがあるように。リベラはその気になれば、天から降ってくる雨粒の、一つ一つを数えることができた。
 リベラは、目を開けた。そして、足を濡らしながら、一歩ずつ、前へ進んだ。リベラは、靴を履いていなかった。裸足で、地面を踏みしめたいと思うときがある。濡れた草が、リベラの足の裏で、グシャリと潰れた。
 睫毛に、雨粒が引っ掛かった。瞬きをすると、落ちた。
 リベラは一本の木の前に立った。
 リベラの左手が、淡い銀色に発光する。リベラの目も輝き、瞳孔が縦長くなった。リベラは、光る手で、その木に触れた。途端に、リベラの中を駆け巡って、通り過ぎていくものがある。誰かが泣いている。誰かが笑っている。誰かが怒っている。誰かが生まれている。誰かが死んでいる。リベラを拒むように。リベラは目を細めて、こめかみに力を入れて、左手を強く、木の幹に押し当てた。
「お前も、懲りないね」
 声がした。
「そんなことをしたって、彼は帰って来ないよ」
 リベラが目を向けると、木の影からリベラの腰にも届かないくらいの背丈の少年が、ゆっくりと姿を現した。
「彼は、『記録者』になったんだ。だから君は、彼から『遣いアゴ―』の役目を引き継ぎ、『クラヴィス』を授かったんだろう?」
「お前も懲りないね」
 リベラは、先ほど少年から言われた言葉を繰り返した。
「いつまで『王様』気取りだよ。お前はただ、そういう『役割』を与えられただけだ」
 少年は、すっと目を細めて、口角を上げた。笑っているとは見えなかった。
「ルーメンから『鍵』を引き継いだとき、気が付いた。お前はみんなが信じているような『王様』じゃない。言語の統一……門の開け閉め……たどり着くモノ……始まりの大樹……お前が『お前』である為の『役割』」
 少年は、黙って、笑みのようなものを浮かべたまま、リベラに先を促すように、軽く頷いた。
「ルーメンは『記録者』になるべきじゃなかった」
 リベラは、言った。
「短命な吸血鬼が『記録者』としての素質を持ち合わせているわけがない。代々、『記録者』は長命な種族が受け継いできた。巨人、妖精、そして、人魚だ」
 少年は、表情を変えなかった。
「『記録者』になるべきだったのは、フロースだった」
「今は、彼だよ」
「彼じゃない、ルーメンだ」
 リベラは、強い声で言った。
「あいつを、いなかったモノのように言うのはやめろ」
 少年は、目を細めた。
「ルーメンは生きていた。守りたい人がいた。自分がいなくても、幸せになって欲しいと願って、あいつはフロースから、フロースが『記録者』として蓄えてきた全てを奪い、『記録者』になった」
「そして、私の命となってくれた」
 リベラは、少年の目を見据えた。
「ヴァンパイア――奪うだけで、与えることを知らない種族」
「ヴァンパイアじゃない、ルーメンだ」
 リベラは、大きく目を見開いた。
「あいつはちゃんと与えていたよ。『記録者』になんてなりたくなかっただろうよ。未練も山ほどあっただろうよ。でもあいつは……」
 水の中に無理やり体を沈められるように、体が重くなってきた。手足が痺れ、感覚がなくなっていく。そろそろ、戻らなければならない。
「あいつは『あいつ』の爪痕を残したぜ」
 ――ざまあみろ。
 雨が降っていた。
 リベラは立っていられなくなり、膝から崩れ落ちて、肩で息をした。喉の奥から鉄の塊のようなものが込み上げてきて、それを押しとどめる為に、口元を押さえた。無数の雨粒が、リベラを断罪するかのように、絶え間なく打ち付けてきた。
「……雪芽ゆきめが、アゴーになるってさ」
 誰もいない場所で、それでも誰かがリベラの声に耳を澄ませて聞いているように、リベラは言った。
「それで、『向こう側』に戻って『自分』がいた証を探すんだとさ」
 リベラは顔を上げて、顔に降ってくる雨粒を飲み込んだ。
「アーラも、アゴーになりたいってさ」
 リベラは、ゆっくりと立ち上がった。濡れたシャツやズボンが、肌にピッタリと張り付いている。立ち上がろうとした瞬間、膝が震えて、崩れ落ちそうになったが、何とか耐えた。
「そんなに簡単なものじゃねぇよ」
 リベラは、低い声で皮肉っぽく笑った。
「まぁ、なりたいものになればいいさ」
 ――信じたいモノを、信じればいいさ。
 ――なぁ、ルーメン。
 ――お前も、信じていたかったんだよな。
 リベラはその場から立ち去りかけて、最後に、一度だけ、そこに誰かいたかのように振り返ると、少しだけ目を細めて、その場から立ち去った。
 リベラがいなくなった後も、そこには誰もいなかった。
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