彼はヒロインを選んだ——けれど最後に“愛した”のは私だった

みゅー

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 わたくしの名はリリアナ・フェルド。
 フェルド子爵家の一人娘として、社交界に名を連ねている。
 華やかなドレスと紅茶の香りに包まれた世界で育ち、日々の楽しみといえば——友人たちとのおしゃべりと、恋の噂話。

 わたくしにとって社交の場は、息をするのと同じくらい自然な場所だった。
 だから今日のお茶会も、いつも通りの楽しい午後になるはずだったのだ。

 アラン様——フェルド公爵家の嫡男であり、幼いころから兄のように慕ってきた方。
 いつも穏やかで、わたくしがどんなに騒いでも、ただ静かに笑って見守ってくださる。
 その姿に、少女だったわたくしは何度も胸をときめかせてきた。

 わたくしは彼の隣で、できるだけ明るく笑っていた。
 この時間を、少しでも楽しいものにしたかったから。

 だが——。

 その日、お茶会の扉から一人の女性が現れた瞬間、運命の歯車が音を立てて動き出したのだ。

 扉が開き、涼やかな声が広間に響いた。

「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。セシリア・ランベールと申します」

 その瞬間、場の空気がわずかに変わった。
 まるで風の流れが一度止まったように、令嬢たちの視線が一斉に彼女へと向かう。

 栗色の髪が光を受けて金に染まり、動くたびに小さな宝石のように輝く。
 その微笑みは完璧で、仕草の一つひとつがまるで舞台の上の貴婦人のようだった。

(なんて綺麗な方……)

 思わず息を呑んだわたくしの隣で、アラン様が静かに立ち上がる。
「ランベール侯爵家のご令嬢ですね。お会いできて光栄です」

 アラン様の声はいつも通り穏やかだったけれど、ほんのわずかに柔らかく感じた。
 それが何故か、胸の奥をちくりと刺した。

(アラン様が……笑っていらっしゃる?)

 わたくしは、いつものように笑顔を作ろうとした。
 けれど、その瞬間。

 彼の目が、ほんの一瞬だけセシリア嬢の方へと向いた。
 まるで、そこに光が差し込んだかのように。

 心臓が跳ねた。
 痛いくらいに。

(……どうして)

 その理由もわからないまま、わたくしの唇から笑みが消えていた。

(……あれ?)

 アラン様とセシリア嬢が並んで立つ光景を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 ほんの一瞬、世界がぐらりと揺らぐ。
 目の前の煌びやかな会場が、まるで色を失っていくように見えた。

 紅茶の香りも、笑い声も、遠のいていく。

 代わりに浮かんだのは——見知らぬ光景。
 本で読んだだけのはずの物語。

『彼はヒロインを選び、令嬢は身を引く』

 まるで誰かがそう囁いたように、頭の中で声が響いた。

(知ってる……この場面を、わたくし、知ってる)

 心臓の鼓動が早まる。冷たい汗が首筋を伝った。

 “このあと、アラン様は——彼女を選ぶ”

 意味も分からずに、涙がにじむ。
 けれど、誰にも悟られぬよう、わたくしは必死に笑顔を作った。

(馬鹿ね……こんなの、ただの夢のはずなのに)

 それでも、その瞬間、確信していた。

 この物語は、わたくしが知っている“あの物語”だと。
 そして——わたくしは“選ばれない側の令嬢”なのだと。

 帰りの馬車の中、窓の外では夕陽がゆるやかに沈みかけていた。
 街路樹の影が長く伸び、黄金の光がカーテンを透かしてゆらゆらと揺れている。
 けれど、その美しさすらわたくしの胸には響かなかった。

(——知ってる。このあと、アラン様はセシリア様を選ぶの)

 どうしてそんなことを“知っている”のか、わからない。
 けれど、確信だけはあった。
 彼は運命に導かれるように、彼女を選ぶ。
 そしてわたくしは——その物語の中で、身を引く側の人間。

 カツ、カツ、と馬車の車輪が石畳を刻む音が妙に耳に残った。
 胸の奥が締めつけられるように痛む。
 けれど、涙はもう出なかった。

「……前世、なんて、信じる方がどうかしているわ」
 そう呟いて、かすかに笑う。
 でも——確かに思い出した。
 本で読んだ“彼がヒロインを選ぶ世界”の終わりを。
 そして、そこにいた“脇役の令嬢”が、まぎれもなくわたくしだったということを。

(だったら……今度こそ、同じ結末にはしない)

 静かな決意が胸に灯る。
 頬を撫でる風が少し冷たくて、窓の向こうに見える空が紫色に染まっていく。
 黄金の午後が終わりを告げ、長い夜が始まる。
 それはまるで——新しい物語の幕開けのようだった。

 アラン様と距離を置こう——そう決めたのは、お茶会の翌朝だった。
 自室の窓から差し込む朝日が、やけに眩しく感じられた。
 胸の奥がまだ少し痛む。夢ではなかったのだ。

 鏡の前で微笑みを作り、心に言い聞かせる。
『もう、依存してはだめ』
 どれほど彼を想っても、物語の中でわたくしは“選ばれない令嬢”なのだから。

 けれど、実際に距離を置くというのは、想像以上に難しかった。
 数日後の乗馬練習で顔を合わせたとき、彼はいつものように優しく微笑んだ。
 それだけで、胸の奥がざわめいてしまう。

(いけないわ……もう前みたいに、甘えてはいけないのに)

 わたくしは努めて落ち着いた声で挨拶を返し、少し距離をとった。
 そんなわたくしを、アラン様は不思議そうに見つめていた。

 数日が経っても、胸のざわめきは静まらなかった。
 けれど、わたくしはいつも通りの笑顔を崩さなかった。

 今日も庭園では、お茶会が開かれている。
 咲き誇る花々、揺れるドレス、そして話題の中心は——やはりセシリア・ランベール嬢。

「この間の舞踏会で、殿下ともお話されていたのよ」
「まあ、やっぱりお綺麗だものね」

 華やかな笑い声が広がる中、わたくしはそっと紅茶を口にした。
 けれど、その甘さはもう感じられなかった。

(……知っているわ。アラン様は、彼女を選ぶ)

 まるで遠い物語をなぞるように、心の奥で誰かの声が囁く。
 それでも、わたくしは微笑んだ。

 “この結末を変えられないのなら、せめて胸を張って生きたい”

 紅茶の湯気が静かに揺れる。
 わたくしはカップを置き、背筋を伸ばした。

(運命に流されるだけの令嬢では、もういられない)

「……湖の別荘へ、ですか?」

 父の穏やかな声に、わたくしはそっとカップを置いた。
 紅茶の表面が揺れ、そこに映るわたくしの顔も、わずかに歪む。

「今年もフェルディナンド公爵家からお誘いが来ておる。
 アラン公爵もご一緒だそうだ。どうする、リリアナ?」

 父の言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。
 あの湖畔の別荘——例年なら、迷うことなどなかった。
 けれど今年は違う。

(……行けない。行ってはいけない)

 ほんの少しだけ視線を伏せて、わたくしは微笑んだ。
「申し訳ありませんわ。最近、少し体調が優れませんの。
 静かに過ごしたくて……今年はお断りしようと思います」

「そうか。無理をするな。涼しい場所へ行けば気も晴れるかと思ったが……」
 父の声には心配がにじんでいた。

 だが、わたくしは首を横に振る。
「大丈夫ですわ。屋敷でゆっくり過ごせばすぐに良くなりますから」

 そう言い訳をした。
 未来を知っている今、避けるのは当然のことだろう。

 誰もいなくなった午後、わたくしは屋敷のサロンで一人、ぬるくなった紅茶を見つめていた。

 ——湖畔の別荘。
 あの小説の中で、令嬢はそこへ赴き、想いを告げる。
『あなたをお慕いしています』と。
 けれど彼は、やさしく、けれど決して変わらぬ笑みで答えるのだ。

『君は妹のような存在だよ』

 小説を読んだときは、なんて愚かな令嬢なのだろうと思った。
 けれど今ならわかる。
 もしもわたくしが記憶を取り戻していなければ、きっと同じように笑って、同じように傷ついていたのだろう。

 静かな午後の風が、カーテンを揺らす。
 わたくしはそっと目を閉じて、紅茶を口に運んだ。

(もう、同じ結末は繰り返さない。
 この物語を、変えてみせる——)

「……久しぶりだね、リリアナ」

 ある日の昼下がり、避暑地から戻ったアランが突然屋敷を訪ねてきた。

 静かな午後、庭を渡る風がカーテンを揺らす。
 わたくしは慌てて立ち上がり、無理に微笑む。

「お久しぶりです、アラン様。今日はどうされたのです?」

「少し気になってね……体調はもう大丈夫なのか?」

 心配そうなその声音に、胸がざわめく。
 けれどわたくしはそっと唇をゆるめ、紅茶を差し出した。

「ええ、すっかり。ご心配をおかけしてしまいましたわね」

 一瞬、会話が途切れた。
 互いに何を話せばいいのか分からず、カップの音だけが静かに響く。

(……こんな沈黙、昔ならなかったのに)

 そのとき、不意にアラン様が口を開いた。

「そういえば——セシリア嬢が君のことを褒めていたよ」

「……わたくしを、ですか?」

「うん。社交の場での立ち居振る舞いが美しいと。
 “リリアナ様のようになりたい”って、そう言っていた」

 紅茶の香りが、ひどく遠く感じた。
 胸の奥が、ほんの少しだけ軋む。
 それでもわたくしは、やわらかく笑んだ。

「まあ……それは、光栄ですわね」

 リリアナはそう答えてなんとか笑顔を返すとその場をやり過ごした。

 ◆◆◆

 アランが屋敷を去ったあと、わたくし|の胸の奥は、ひどく痛んでいた。

 彼がセシリアの名を口にしたとき——その瞳が、ほんのわずかにやわらいだのをわたくし|は見逃さなかった。
 あの穏やかな表情。
 きっと、あれは彼女のことを思い浮かべていたから。

 そう考えた瞬間、息が詰まった。

 わたくし|がどれほど想っても、運命は変えられない。
 アランの心は、セシリアに向いているのだ。

 ……それなら、距離を置いてよかったのかもしれない。

 会えばきっと、もっと傷ついていたはず。
 これくらいの痛みで済んだのなら、それでいい。

 ——そう、これでいいのだ。

 何度も何度も心の中でそう繰り返しながら、わたくし|が窓の外を見ると、青空はどこまでも澄んで遠かった。

『最近、フェルド子爵家の令嬢、ずいぶん顔を見ないわね』
『どうやら体調を崩しているらしいのよ。ずっと屋敷に籠もっているとか』

 そんな囁きが、いつしか社交界に広がっていた。

 アラン様を避けるために、わたくし|は体調不良を言い訳に、お茶会も夜会もすべて断っていた。
 けれど、そうしているうちに、その噂はすっかり定着してしまったのだ。

 “病弱な子爵令嬢”——それで構わなかった。
 誤解されても、憐れまれてもいい。
 静けさの中に身を置いていなければ、心が崩れてしまいそうだったから。

 ……それでも、避け続けることはできなかった。

 国王陛下主催の舞踏会——。
 王都の貴族なら誰もが出席する、年に一度の大きな催し。
 さすがにそれを断ることはできず、わたくし|は重い心を抱えながら会場へ向かった。

 煌びやかなシャンデリアの下、楽団の音色と笑い声が入り混じる。
 けれど、その華やぎはわたくし|には遠い世界のもののように思えた。
 胸の奥が妙に冷えて、笑顔を作ることすら難しかった。

 やがて、喧騒から逃げるようにして、わたくし|はバルコニーへ出た。
 夜風が頬を撫で、ようやく息ができた気がした、そのとき——。

「……リリアナ」

 静かな声に振り向くと、そこにいたのは——アラン様だった。

 驚きで言葉を失うわたくし|に、彼は少し気まずそうに言った。
「セシリアが化粧室に行っている間に、外の空気を吸おうと思って」

「そう……でしたのね」

 変な態度をとるわけにもいかず、できるかぎり平静を装って言葉を返す。
 けれど、沈黙の間に心臓の鼓動ばかりが大きく響いた。

 少し間を置いて、アラン様がぽつりと口を開く。
「リリアナ……君は、セシリアのことをどう思う?」

「どう、とは……?」

「僕は……セシリアと婚約しようかと考えている」

 その言葉が夜気の中に溶けた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
 けれど、それを顔に出すことは許されない。

 わたくし|は静かに微笑み、答えた。
「おめでとうございます、アラン様。きっと、お似合いですわ」

 アラン様は眉をひそめ、わたくし|を見つめた。
 まるで、何かを言いたげに唇を結んで——。

「……本当に? 本当に君はそれでいいのか?」

 その問いに、わたくし|は微笑んでうなずいた。
「もちろんです。アラン様が幸せなら、わたくし|も嬉しいですから」

 一瞬、彼の表情が固まる。
 それから、子どものように少しムッとした顔で言い放つ。

「……わかった。君がそう言うなら、僕はセシリアと婚約する」

 その反応の意味はわからなかった。
 けれど、これでよかったのだとわたくし|は自分に言い聞かせながら、セシリアの元へ向かうアランの背中を見送った。

 翌朝。

 父に呼び出され、応接間へ向かうと、彼は珍しく沈んだ顔をしていた。
 その表情を見ただけで、胸の奥がざわつく。

「リリアナ、おまえ……アラン殿とは、どうなんだ」

 唐突な問いに、わたくし|は一瞬言葉を失った。
 けれど、やがて静かに首を振る。

「なんともありません。アラン様は……セシリア様と婚約なさるそうです」

 そう告げると、父は深く息を吐き、遠くを見るように目を細めた。
「……そうか。ならば、これもひとつの縁だろう」

 そして、しばしの沈黙のあと、静かに続けた。
「隣国の国王陛下から申し出があった。おまえを側室として迎えたいと」

「……え?」

 あまりに突拍子のない言葉に、思わず声が漏れた。

 父によれば、隣国の国王陛下は齢八十を越えた老王で、病床の身にあるという。
 亡き王妃の若き日の面影が、わたくし|に似ているらしい。
 正式な婚姻ではなく、ただ穏やかに日々を共に過ごし、話し相手となってほしい——
 そのような願いだった。

「もちろん、嫌なら断っても構わん。だが……アラン殿が他の令嬢と結ばれるのなら、おまえも新しい道を歩んだ方がいい」

 わたくし|は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
 父の言うことは正しい。
 これ以上、未練を抱いていても、誰のためにもならない。

 そして、わかっていた。
 アランの心がもう別の誰かにあるのなら、ここに留まる意味はないのだと。

「……わかりました。お受けいたします」

 声が震えないように、精いっぱいの笑みを作った。
 こうして、わたくし|の新しい人生は、静かに動き出した。

「行かないでくれ!」

 振り向いたわたくし|の前で、アラン様は荒い息をつきながら立ち尽くしていた。
 風に金の髪が乱れ、いつもの冷静な面影はどこにもない。
 その姿を見て、わたくし|は息をのんだ。
 ——この方が、ここまで感情を乱すところを、見たことがなかった。

「……アラン様、なぜここに?」

 問いかけると、彼は俯いたまま、震える声で言った。
「僕は……君を傷つけた。あのとき、どうしていいか分からなかったんだ。君が離れていくのが怖くて、でも“寂しい”なんて言えなかった。だから、セシリアの名前を出して、君の気を引こうとした。そんな幼稚な真似をして、結局君を傷つけた。子どもだった。愚かだった。僕は君を失うところだったんだ」

 彼は顔を上げた。その瞳には、後悔と、どうしようもない愛しさが宿っていた。

「気づいたときには、もう君がいない世界が怖くて、息ができなかった。リリアナ……行かないでくれ。もう一度、君の隣にいさせてほしい」

 胸の奥に張りつめていた何かが、音を立てて崩れた。
 視界が滲み、頬を伝うものがあとからあとからこぼれ落ちる。
 それでも、わたくし|は涙を拭おうともせず、そっと問いかけた。

「……アラン様、本当にわたくし|でよろしいんですか?」

 その言葉に、彼は静かにうなずいた。
 伸ばされた手が、わたくし|の指先を包み込む。
 その温もりに触れた瞬間、胸の奥に残っていた痛みが、静かにほどけていった。


 アラン視点

 彼女が変わり始めたのは、お茶会のあとからだった。

 それはいつもと変わらぬ退屈なお茶会でのこと。僕はいつものように、穏やかな笑顔を貼りつけて場をこなしていた。

 そんなとき——セシリア・ランベール侯爵令嬢と挨拶を交わした瞬間たった。リリアナが一瞬だけ、絶望したような顔をしたのだ。

 それはほんの刹那の出来事だった。
 けれど、あの表情は今でも脳裏に焼きついて離れない。

 もちろん彼女はすぐに笑顔を取り戻し、いつも通りの明るく優しいリリアナに戻った。

 ……だが、それ以降、彼女は僕を避けるようになった。

 毎年恒例の湖畔の別荘への同行も、今年は断られた。

 その知らせを受けたとき、なぜか僕の胸の奥に小さな苛立ちが芽生えた。それがなぜだか、このときの僕には分からなかった。

 ただ——無性に、彼女と話がしたかった。会いたかった。

 気づけば僕は、両親に『急用ができた』と嘘をつき、屋敷へ戻っていた。

 理由なんてなかった。ただ、彼女に会いたかっただけだ。

 そして屋敷を訪れるリリアナに声をかけると、彼女は、僕の予想に反してほんの一瞬だけ残念そうな顔をした。

 いつもなら嬉しそうに出迎えてくれるはずなのに、だ。

 それから、いつもよりずっと素っ気ない態度を取った。

 胸の奥がざらついた。

 どうにかして、彼女にこちらを見てほしかった。
 まるで母親の関心を引きたがる子どものように、
 僕は、彼女の反応ばかりを追っていた。

 子どもだった。
 ……本当に、幼稚だったのだ。

 こうして気まずい沈黙が続き、僕は苦し紛れにセシリアの話題を口にした。

 その名を出した瞬間、リリアナの表情がかすかに揺れた。

 僕はそレを見逃さなかった。あろうことか、その反応が嬉しくてつい何度も彼女の話をするようになった。

 それが、彼女を追い詰めていることにも気づかぬまま。

 ——そして、あの舞踏会の日。

 僕はついに、言ってはいけない言葉を口にした。

『セシリアと婚約することにした』と。

 そのときリリアナは、ほんの少し寂しげに笑い、僕を祝福した。

 それが、ひどく気に入らなかった。

 どうして、そんな顔で笑えるんだ。

 僕が欲しいのはそんな反応ではなかった。だからといってどうして欲しいのか、僕にはそれすら分からなかった。

 数日後、セシリアが僕を訪ねてきた。

 彼女は泣きながら言った——

「リリアナ様に嫌がらせを受けているのです」と。

 馬鹿馬鹿しい。くだらない。
 リリアナがそんなことをするはずがない。
 それくらい、僕が一番よく知っている。

 僕はセシリアを軽く追い返した。
 そして——ようやく我に返った。

 僕はようやく気づいた。

 自分が、どれほど愚かなことをしていたのか。

 リリアナに会って、きちんと話をしなければ。

 そんな焦燥感にかられ、僕は急いで彼女の屋敷へ向かった。だが——

 彼女はもう、そこにはいなかった。

 彼女は、隣国の国王陛下の側室として迎えられることになり、すでに屋敷を発ったあとだった。

 彼女の父上は言った。

『リリアナはあなたの幸せを最後まで願っていた』と。

 そこで更に自分の愚かさを知ったのだ。

 彼女が僕のために泣き、苦しみ、それでも笑って去っていったのた,

 そんなことは耐えらない。

 だから、僕は走った。
 なりふり構わず、彼女を追いかけた。

 港にたどり着いたとき、
 夕陽の中に、一人佇むリリアナの姿が見えた。

 風が吹き抜ける。
 その横顔が振り返る。

 気づけば、喉が裂けるほどの声を上げていた。

「——行かないでくれ!」

 と。

 数年後

 春の風が、穏やかに頬を撫でた。
 バルコニーに立つ私《わたくし》の隣で、アランが静かに紅茶を口にする。
 彼は変わらない。
 あの頃と同じ、落ち着いた灰青の瞳で私《わたくし》を見つめ、何も言わずに微笑む。

「……こうして穏やかな日々が訪れるなんて、思ってもみませんでしたわ」

 そう言うと、アランはゆるやかにカップを置いた。
 少し照れたように口元を緩めて、短く答える。

「僕もだ。君を失う未来しか見えていなかったからな」

 私《わたくし》はそっと視線を落とす。
 指輪の輝きが陽に透け、白い光を放った。
 それはまるで——運命を越えて、ようやく手に入れた“幸福”の証。

「アラン様、あのとき……わたくしが行ってしまっていたら、どうなっていたと思いますか?」

「……さぁな。けれど、きっと僕は、二度と笑わなかっただろう」

 その言葉に、胸が温かくなる。
 私《わたくし》はカップを手に取り、静かに頷いた。

「それなら、やはりこうして戻ってきてよかったのですね」

「当然だ。君がいない世界など、考えられない」

 春の陽が降り注ぐ。
 どこからか花びらが舞い込み、私《わたくし》の髪に触れた。
 アランがそれを指で摘み、そっと微笑む。

 ——この人の隣で、生きていく。

 それが私《わたくし》の選んだ未来。
 かつて“選ばれなかった令嬢”であった私《わたくし》は、ようやく自分の物語を生き始めたのだ。
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