🍞 ブレッド 🍞 ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~

光り輝く未来

文字の大きさ
27 / 34

ニューヨーク(3)

しおりを挟む

 翌日の昼前、日本食品の扱いが多いスーパーマーケットへ寄ってから、ルチオの家に向かった。夢の中で授けてくれた祖父の言葉を伝えに行くためだ。うまくいくかどうか不安だったが、胸ポケットに忍ばせた祖父の写真に手を当てて、心を落ち着かせた。

 ドアチャイムを押すと、今日は1回でドアが開いた。
「昨日の話なら聞く気はないぞ」
 顔を見るなり不機嫌そうな声を出したが、「おいしいものを作りに来たよ」と話をすり替えて家の中に入り、「どうせ何も食べていないんでしょ」と探りを入れた。 
 返事はなかった。しかし、図星のようだった。それで、「チャーハンオムレツを作るからね」と買い物袋から卵と冷凍食品を取り出すと、「なんて書いてあるんだい?」と興味深そうに覗き込んできた。弦は冷凍食品に印刷された日本語を指差した。
「鳥五目チャーハン」
「ふ~ん」
 わかったような、わからないような顔のルチオが口をすぼめた。
「椅子に座って待ってて」
 ルチオが素直に応じて腰を掛けたので、台所に行き、冷凍食品を電子レンジで解凍した。そして、チンという音を聞くと同時にフライパンを火にかけ、ボウルに卵を二個割って、塩、コショウを振ってから卵白を切るようにかきまぜた。それから、取り出した鳥五目チャーハンをフライパンに移してさっと炒め、それを二つの皿に移してこんもりとした形に整えた。そして、フライパンにバターを溶かして卵を流し込み、箸で混ぜながら半熟状になったのを確認して半月状に形を整え、フライ返しでひっくり返して軽く焼いてからチャーハンの上に乗せた。それから、同じことをもう1回繰り返して、二つの皿を完成させた。

「できたよ」
 ルチオの前に皿とスプーンとケチャップを置いたが、「でも、まだだよ」と制して、盛り上がった卵の中央をスプーンで切り裂いた。すると、左右に割れて半熟の部分が溢れ出した。
「うゎっ」
 初めて見たせいなのか、ルチオの目が真ん丸になった。
「召し上がれ」
 新しいスプーンを渡すと、口に入れた瞬間、頬が緩んだ。
「おいしいね」
 もう一口食べると更に頬が緩んだので、「ケチャップを付けても美味しいよ」と味変を促した。
「これもいけるね」
 左手の親指を立てて、一粒残らず食べ終えた。
「ユズルは器用だね。だし巻き玉子もオムレツもとても美味しかったよ」
 今までにない笑みがこぼれたので、チャンスと思ってさり気なく話を変えた。
「パンも上手に作るでしょ」
 するとルチオは、ん? というような表情になったが、すぐに笑みが戻った。
「まあね。まあ、師匠が素晴らしいからね」
 冗談ぽく自画自賛したが、弦はその流れを逃さなかった。
「もっとうまくなりたいと思っています」
 ルチオを真剣に見つめると、頷きが返ってきた。
「大丈夫だよ。ユズルだったら上手にパンを焼くことができると思うよ」
「じゃあ」
 しかし、本題を切り出す前にぴしゃりと止められた。
「それとこれとは別だ。ユズルの人生を巻き込むことはできない」
 険しい表情に戻ってしまった。頑として意見を曲げないという決意が漲っているように思えた。それでもその反応は予想の範囲内だったので、「僕は自分を犠牲にしているんじゃないんです」と居ずまいを正してルチオを正視した。
「本気でパン職人になりたいと思っています」
「違う。アントニオの病気を見かねて言っているだけだ」
「そんなことはありません。本気でなりたいんです」
 父親の敷いたレールの上を走るのではなく、自らの気持ちに正直に人生を歩みたいと訴えた。しかし、「いや、そんなことはないはずだ。ユズルは嘘をついている」と即座に否定された。それでも、一歩も引かなかった。
「嘘はついていません。ハーバードで勉強するより、跡を継いで社長になるより、パン職人になる方がよっぽど幸せなんです」 
「なんでそんなことがわかる」
「お客さんです」
「客?」
「そうです。お店に買いにくるお客さんはみんな幸せそうな顔をしています。それを見ていると、こちらまで幸せになるんです」
「でも、それはスキンケア製品だって同じだろ」
「確かにそうです。製品を気に入っていただいたお客さんは笑顔になってくれます。しかし、スキンケア製品を作るのも売るのも僕ではないのです。僕は経営をするだけなのです」
 するとルチオがウッというような感じになって、声が出てこなくなった。
「ここでアルバイトをするようになって、自分が作ったパンが店頭に並んで、それをお客さんが買ってくれて、おいしいと言ってくれて、ありがとうと言ってくれて、いっぱい笑顔を貰えるようになりました。これ以上幸せなことはないと思いました。これこそ自分が求めているものだと思うようになったんです」
 ルチオは黙って聞いていたが、話を止めようとする気はないように思えたので、更に一歩踏み込んだ。
「それに、パン職人になるのは運命だと思うんです」
「運命?」
「そうです。すべては運命という名の手によって導かれているように思うんです」
 同時多発テロの10年後に911メモリアルミュージアムでルチオと出会ったこと、そして再び出会いがあってベーカリーを訪れたこと、パン職人にはなんの関心もなかったのにアルバイトを始めてみるとはまっていったこと、今ではルチオをアメリカの祖父、アントニオと奥さんをアメリカの両親、アンドレアをアメリカの兄弟と思うようになったこと、そのすべてが運命によって導かれているように感じていることを伝えた。
「この広い世界の中で、800万人を超える大都市ニューヨークの中で、語学学校に通う日本人と移住してベーカリーを営むイタリア人が出会ったんですよ。これを運命と言わずしてなんと言えますか」
 弦は胸に手を当てて祖父の写真を確かめた。すると〈大丈夫だ〉という声が聞こえたような気がしたので、身を乗り出してルチオに迫った。
「それに僕には日本人の魂があります。それは武士道といってもいいかもしれません」
「武士道?」
「そうです、武士道です」
 それが実際どういったものかよくわかってはいなかったが、それでも、これから伝える言葉に最もふさわしいと信じ込んでいた。
「こんな言葉を知っていますか?」
 ルチオの目を真っすぐに見つめた。
「義を見てせざるは勇無きなり」
 しかし、ルチオに日本語がわかるはずもないので、英語で繰り返した。
 すると、ルチオの口がそれをなぞるように動いたので、「人として為すべきことと知りながら、それを実行しないのは勇気がないからである」と敢えて日本語で言い、英語で繰り返した。 
「目の前に困っている人がいるのに、それを放っておくことはできません」
 自分でも驚くほど腹の座った声が出たと思ったら、一瞬にしてルチオの顔が崩れた。それはダムが決壊した時のような崩れようで、張り詰めていた神経が一気に弛緩したような感じだった。
「支え合うのが家族です」
 今度も驚くほど落ち着いた声が出たので、「おじいちゃんと両親が困っているのに見捨てるわけにはいきません」と断固として言い切ろうとしたが、語尾が不意に揺れた。
「僕は……」
 言いかけて嗚咽が覆った。その瞬間、ルチオ以上に顔が崩れたと思った。それにつられるようにルチオの顔が崩れたのでその手に触れると、感極まったものが弦の指先に落ちた。もう、言葉はいらなかった。ルチオも何も言わなかった。静かな時の流れだけが二人を包み込んだ。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...