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詠み曇
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いまなら勝手に思っていたいのだ、あの頃の私に「違う」と。他人だからというものとは異なっていたのだと。
「……私も安心したような気がします、旦那様」
握った手はあの頃より遥かに逞しく、寄せれば仄かに墨の臭いがする。
何も言わないままに旦那様はふと、また端の部屋をぼんやりと眺めた。
旦那様とゆずさんの子供部屋だった場所。元は奥様が身重で臥せているときに増築したそう。庭の鯉が良く見えるのだと。
「……ゆずさんに少し、」
「うん、そうしてやってください」
「旦那様、」
言い掛けて、立った私を見上げた旦那様に、やはりやめておこうと「行ってきますね」と告げる。
「茶でも持っていきます」
子供はいつまで経っても親としては不安で仕方がない。
細井川家にやってきた時のゆずさんを思い出す。
誰もが、これで良かったんだろうかと思ったもので、彼もまた、ただ前向きになろうと、私には必死に見えていた。
けれどもふと、逞しく思える瞬間は多々ある。女と男なら尚更なのかもしれない。いまの決意に、あの頃の彼に痛みを覚えるような、とにかく……話をしたいと、そう思った。
坊っちゃんの癇癪はそうして収まっていなかったが、ふいに、掌の傷もぱたっとなくなったのは確か、クラス替えをした小学校の三年生あたりだった。
最近は手も大丈夫ですねと振ってみれば「そう言えばそうかも」だなんて自分の手を眺めていたのだ。
「まぁ、その…」
ともじもじした坊っちゃんの姿が浮かぶ。
声を掛け障子を開けた。
ゆずさんは布団で寝ていらした。いや、うとうとしていたのかもしれない。
私を見ては慌てたように起きる。
起き上がらなくて大丈夫ですよと手を翳したのだが、彼はやはり生まれもあるのか、正座までして私を見つめたのだった。
「起こしてしまってすみませんね」
何も言わないまま手を振る。これは、彼の癖なのだ。
「…実はいま、私の息子がお屋敷に来ていまして…」
彼は驚いたような、とにかくわからないことが起きた、という表情に至った。だがこれは普通に見ればきっと、大して変わっていないもの、感情をあまり露にしない子なのだ。
この家に来てからなのかもっと前からなのかはわからないが、彼はずっとそうだった。
元からそんな子なのかもしれないけれど、坊っちゃんがあの日に「友達になりたくて…」と俯いた姿を思い出す。
坊っちゃんのはにかみ方があの、幼稚園で花壇のチューリップをむしってしまった日と同じだった。
これは、きっと坊っちゃんに好きな子が出来たのだと思ったものだ。
「驚いちゃうだろ、そんな奴と友達になりたくないだろうし…」
坊っちゃんはいつもいつも、押さえられなかった癇癪を、やはり反省していたのだと、嬉しいような誇らしいような微笑ましいような、とにかく子供の成長とはこういうものなのだと私はその一言で思ったのだ。
「そうですか」
「それに…あんまり怒ることもなくなった気がする。
そいつはなんか、わかんないけど、ノートを見せてくれるんだ。いままでわかんなかったところとか、わかってさ。
おれ、なんかね、見えてなかったみたい。ずっと、先生が言ってる授業?わかんなかったんだけど、多分重要なことが書いてあったんだよ」
「あぁ…、」
赤や黄色のチョークは、確かに重要な単語が書いてあるだろうけど…。
「その子はそれを教えてくれるんですか?」
「そう。丸とか書いて教えてくれる」
「なるほど…」
その子は、その年でその対応が出来るのか。
「そいつはね、」
こんなに楽しそうに話す坊っちゃんは多分、いままでで一番だ。
「いつもニコニコしてるんだよ。なんか、そーゆーのっていいんだね。転校してきたらしいんだけどさ。
なんか…おれと仲良くしてんの、他のやつらに言われてる。おれわかるんだよ、まわりの言ってる奴らがおれとかそいつに言わなくても。でもあいつ気付いてないかも…」
「まぁ、それはそれで」
「いいのかなぁ?」
「……それほど、まぁ、坊っちゃんを見て、気付けて気遣いが出来る子ならば、確かに気付いているのかもしれないですよ?
気付いていないのなら、まぁ悪口というのは聞いても嫌な思いしかしないでしょうしね。
坊っちゃんはお利口ですね。そういうことにちゃんと気付ける…例えばそれが本当は違う、実は他の子達は悪口なんて言っていなかったとしても、その子の事をちゃんと考えてあげられる子なんですね。大人でもそんなこと、なかなか出来ないですよ」
「なんか確かにそうだろうなと思う」
そういうことに幼い頃から気付いてしまうというのは正直複雑だったけれど、でも悪いことではないのは確かで。
「我慢は必要ですけれど、そうですね、私やお母様やお父様には、ちゃんと気持ちを話しても大丈夫ですからね」
抑制されることはたくさんあるのかもしれなくても。
不思議な気持ちだった。
「私の息子は、単刀直入に言えば私を…実家に戻せだなんて旦那様に言っていましてね…」
ゆずさんはただただ私を見つめて聞いている。
「……私も安心したような気がします、旦那様」
握った手はあの頃より遥かに逞しく、寄せれば仄かに墨の臭いがする。
何も言わないままに旦那様はふと、また端の部屋をぼんやりと眺めた。
旦那様とゆずさんの子供部屋だった場所。元は奥様が身重で臥せているときに増築したそう。庭の鯉が良く見えるのだと。
「……ゆずさんに少し、」
「うん、そうしてやってください」
「旦那様、」
言い掛けて、立った私を見上げた旦那様に、やはりやめておこうと「行ってきますね」と告げる。
「茶でも持っていきます」
子供はいつまで経っても親としては不安で仕方がない。
細井川家にやってきた時のゆずさんを思い出す。
誰もが、これで良かったんだろうかと思ったもので、彼もまた、ただ前向きになろうと、私には必死に見えていた。
けれどもふと、逞しく思える瞬間は多々ある。女と男なら尚更なのかもしれない。いまの決意に、あの頃の彼に痛みを覚えるような、とにかく……話をしたいと、そう思った。
坊っちゃんの癇癪はそうして収まっていなかったが、ふいに、掌の傷もぱたっとなくなったのは確か、クラス替えをした小学校の三年生あたりだった。
最近は手も大丈夫ですねと振ってみれば「そう言えばそうかも」だなんて自分の手を眺めていたのだ。
「まぁ、その…」
ともじもじした坊っちゃんの姿が浮かぶ。
声を掛け障子を開けた。
ゆずさんは布団で寝ていらした。いや、うとうとしていたのかもしれない。
私を見ては慌てたように起きる。
起き上がらなくて大丈夫ですよと手を翳したのだが、彼はやはり生まれもあるのか、正座までして私を見つめたのだった。
「起こしてしまってすみませんね」
何も言わないまま手を振る。これは、彼の癖なのだ。
「…実はいま、私の息子がお屋敷に来ていまして…」
彼は驚いたような、とにかくわからないことが起きた、という表情に至った。だがこれは普通に見ればきっと、大して変わっていないもの、感情をあまり露にしない子なのだ。
この家に来てからなのかもっと前からなのかはわからないが、彼はずっとそうだった。
元からそんな子なのかもしれないけれど、坊っちゃんがあの日に「友達になりたくて…」と俯いた姿を思い出す。
坊っちゃんのはにかみ方があの、幼稚園で花壇のチューリップをむしってしまった日と同じだった。
これは、きっと坊っちゃんに好きな子が出来たのだと思ったものだ。
「驚いちゃうだろ、そんな奴と友達になりたくないだろうし…」
坊っちゃんはいつもいつも、押さえられなかった癇癪を、やはり反省していたのだと、嬉しいような誇らしいような微笑ましいような、とにかく子供の成長とはこういうものなのだと私はその一言で思ったのだ。
「そうですか」
「それに…あんまり怒ることもなくなった気がする。
そいつはなんか、わかんないけど、ノートを見せてくれるんだ。いままでわかんなかったところとか、わかってさ。
おれ、なんかね、見えてなかったみたい。ずっと、先生が言ってる授業?わかんなかったんだけど、多分重要なことが書いてあったんだよ」
「あぁ…、」
赤や黄色のチョークは、確かに重要な単語が書いてあるだろうけど…。
「その子はそれを教えてくれるんですか?」
「そう。丸とか書いて教えてくれる」
「なるほど…」
その子は、その年でその対応が出来るのか。
「そいつはね、」
こんなに楽しそうに話す坊っちゃんは多分、いままでで一番だ。
「いつもニコニコしてるんだよ。なんか、そーゆーのっていいんだね。転校してきたらしいんだけどさ。
なんか…おれと仲良くしてんの、他のやつらに言われてる。おれわかるんだよ、まわりの言ってる奴らがおれとかそいつに言わなくても。でもあいつ気付いてないかも…」
「まぁ、それはそれで」
「いいのかなぁ?」
「……それほど、まぁ、坊っちゃんを見て、気付けて気遣いが出来る子ならば、確かに気付いているのかもしれないですよ?
気付いていないのなら、まぁ悪口というのは聞いても嫌な思いしかしないでしょうしね。
坊っちゃんはお利口ですね。そういうことにちゃんと気付ける…例えばそれが本当は違う、実は他の子達は悪口なんて言っていなかったとしても、その子の事をちゃんと考えてあげられる子なんですね。大人でもそんなこと、なかなか出来ないですよ」
「なんか確かにそうだろうなと思う」
そういうことに幼い頃から気付いてしまうというのは正直複雑だったけれど、でも悪いことではないのは確かで。
「我慢は必要ですけれど、そうですね、私やお母様やお父様には、ちゃんと気持ちを話しても大丈夫ですからね」
抑制されることはたくさんあるのかもしれなくても。
不思議な気持ちだった。
「私の息子は、単刀直入に言えば私を…実家に戻せだなんて旦那様に言っていましてね…」
ゆずさんはただただ私を見つめて聞いている。
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