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奥庭に散る業火の仕業
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翌朝、のんちゃんはギターを持って帰って行った。
「ありがと。ちょっと前向けたよ」
そう言うのんちゃんの、ギターを背負って駅に消える背中はなんだか逞しく見えた。
俺はというと、朝早くにのんちゃんと家を出て、まずは三味線屋に立ち寄った。
昨日ぶっ壊してしまった三味線を修理に出し、大阪用となんとなく決めている二代目の比較的新しく、まだ馴染みの浅い三味線を持って国立劇場の密会場(稽古場)に一人閉じ籠った。
ひたすらに塩谷判官の死を偲ぶ。
正直に言ってしまえばわりとろくでもないヤツだなと、判官に思う。
しかし涙を誘う切腹場面。ここは正直語りよりは人形の見せ場だ。穂咲兄さんの息遣いの間、これは俺の技量。一歩出て、いや、出すぎてはならない。
1、2音と準備する。彼の想いはひとつある。巡らせて、巡らせて、
低めの息遣いで語ったあの時の、肺からの呼吸が忘れられない。
「兼て用意の腹切り刀」
しかし思い描いたよりは少し、素人にはわからない高さの違い、昨日まで聞き慣れたその切迫とした色のような声に、俺は我に帰って声がした障子を見上げる。
穂咲兄さんが障子戸に凭れ掛かり、しかし俺のことは見ずに虚空を眺め、「御前に直すれば、心静かに肩衣取り退け座をくつろげ」と続ける。
そこには頭を下げる力彌と、今か今かと待つ、なんとも言えない判官の刀を眺める様が浮かぶ。
そして目が合えば穂咲兄さんは、獣のような目と、しかしながら口角を歪めるような、妙な笑みを浮かべてきた。
「なかなか俺には勢いがないな」
「兄さん?」
「この演目は俺もそれほど好きじゃないんだ、紅葉」
急に目を伏せてしかも名前で呼ばれればもう、意識が切腹の屋敷から、霧散してしまった。
「君の凶器に似た音に、どうしても近付けなくてな、この場面」
「凶器、ですか」
「うん。脇差しのようなそれにね」
「まぁ…」
しかし。
「それはそれで俺が初音さんに寄せられてないのかもしれないですね」
「君は恐らく、この演目に誰かを見るんだ」
はっとした。
そうか。
どこかで俺もまだ、まだ追っているんだ、あの人を。
「…まだまだ、互いに近付けてはいませんね、兄さん」
そう言って笑おうと努めてみたが、ちょっと自分でもわかる、ぎこちなかった。
「越えられねぇかぁ…しかしまぁ、芸道は長いか。
ねぇ紅葉。なんだっていい、試しに、君が思い描く判官を弾いてみてくれ」
「えっ、」
「なぁに。ウチの気が短い師匠は多分あと30分後だが、君の師匠はマイペースだ。一時間はあるだろう」
「はぁ…」
「今のところ、最大の見せ場だが俺は決まらないんだ、なかなか」
しかし。
「俺は初音さんのそれもありだと思います。だってあんた、艶の穂咲だ。なんだかんだ、色は必要ですよ」
それに穂咲兄さんは、笑って答えない。
ただ俺の向かい側に座り、穂咲兄さんは懐から床本を出して広げる。
それから自然と1時間、二人で塩谷判官を語り、弾く。雀生師匠の嗄れたような、しかし筋のある「やっとるな」と言う声まで。
「師匠、」
小さな雀生師匠の後ろには、相方の花太夫師匠がいて。
二人とも俺と穂咲兄さんを見降ろして「ふむ」と花太夫師匠が言う。
「さぁて始めるかいな」
そう言ってそろそろと二人とも稽古場に入ってきて、俺と穂咲兄さんは場所を変え二人で横並び、向かい側に座った両師匠に三指をついて頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
息ぴったしに言えば師匠方も、寸分狂わず三指をついて頭を下げ、「よろしくお願いいたします」と言った。
師匠方が頭を上げ、それから我々も上げて目が合えば、師匠方は新鮮にも慈悲深い目だった。品格を知る。
少なくとも俺はわりと挑戦的に見つめ返そうと思った。
横に退かした二代目三味線を構えるのと、隣で気付ける穂咲兄さんの息遣いに、漸く1音捻り出す。
あとはただただ、互いの呼吸でそれぞれに色を移すように、弾いて、語って、間を置いて。判官、力彌、従者と、頭に浮かんだそればかりに演じてみて。
判官の襦袢を脱ぎ、帯を閉める様、互いに音がない、人形すらなくとも目の前には広がる。すらすらと、衣擦れすらそこにあるように。
「力彌/\。はっ。由良助は。
未だ……参上仕りませぬぅ…っ、
むむ」
勢いよりも確かな哀愁。しかし力彌も判官も語れない。この演目はそれが謙虚だ。
「いやなに御検使、御見届け下さるべしと」
あぁ、速度と力。息を呑む穂咲兄さんが見つめるものは、
「力彌/\。はぁっ。…由良助はァ。
未だ参上仕りませぬっ…っ、」
あぁ、それ、その畳み掛け。
撥を持つ手が滑りそうに、それ、狂気をみるような、それ。
「残念テ残り多やな是非に及ばぬ是までと刀逆手に取り直し弓手に突き立て引き廻す、御台二た目と見もやらず口に称名」
さぁ急げ。そこに入り交じれ、そして乗れ。
「ははっはァはっとばかりにどうと伏す後につづいて先崎・矢間、其の外の一家中ばァらばらとぉ、かけ入りたり国家老大星由良助ぇ、只今到着仕りました」
息遣い、一気に語りさらに狂気を呑み込んで。音は走らずしかし急く。1音1音の腹の力がそこにくる。
そう、判官、力を入れて。
「ありがと。ちょっと前向けたよ」
そう言うのんちゃんの、ギターを背負って駅に消える背中はなんだか逞しく見えた。
俺はというと、朝早くにのんちゃんと家を出て、まずは三味線屋に立ち寄った。
昨日ぶっ壊してしまった三味線を修理に出し、大阪用となんとなく決めている二代目の比較的新しく、まだ馴染みの浅い三味線を持って国立劇場の密会場(稽古場)に一人閉じ籠った。
ひたすらに塩谷判官の死を偲ぶ。
正直に言ってしまえばわりとろくでもないヤツだなと、判官に思う。
しかし涙を誘う切腹場面。ここは正直語りよりは人形の見せ場だ。穂咲兄さんの息遣いの間、これは俺の技量。一歩出て、いや、出すぎてはならない。
1、2音と準備する。彼の想いはひとつある。巡らせて、巡らせて、
低めの息遣いで語ったあの時の、肺からの呼吸が忘れられない。
「兼て用意の腹切り刀」
しかし思い描いたよりは少し、素人にはわからない高さの違い、昨日まで聞き慣れたその切迫とした色のような声に、俺は我に帰って声がした障子を見上げる。
穂咲兄さんが障子戸に凭れ掛かり、しかし俺のことは見ずに虚空を眺め、「御前に直すれば、心静かに肩衣取り退け座をくつろげ」と続ける。
そこには頭を下げる力彌と、今か今かと待つ、なんとも言えない判官の刀を眺める様が浮かぶ。
そして目が合えば穂咲兄さんは、獣のような目と、しかしながら口角を歪めるような、妙な笑みを浮かべてきた。
「なかなか俺には勢いがないな」
「兄さん?」
「この演目は俺もそれほど好きじゃないんだ、紅葉」
急に目を伏せてしかも名前で呼ばれればもう、意識が切腹の屋敷から、霧散してしまった。
「君の凶器に似た音に、どうしても近付けなくてな、この場面」
「凶器、ですか」
「うん。脇差しのようなそれにね」
「まぁ…」
しかし。
「それはそれで俺が初音さんに寄せられてないのかもしれないですね」
「君は恐らく、この演目に誰かを見るんだ」
はっとした。
そうか。
どこかで俺もまだ、まだ追っているんだ、あの人を。
「…まだまだ、互いに近付けてはいませんね、兄さん」
そう言って笑おうと努めてみたが、ちょっと自分でもわかる、ぎこちなかった。
「越えられねぇかぁ…しかしまぁ、芸道は長いか。
ねぇ紅葉。なんだっていい、試しに、君が思い描く判官を弾いてみてくれ」
「えっ、」
「なぁに。ウチの気が短い師匠は多分あと30分後だが、君の師匠はマイペースだ。一時間はあるだろう」
「はぁ…」
「今のところ、最大の見せ場だが俺は決まらないんだ、なかなか」
しかし。
「俺は初音さんのそれもありだと思います。だってあんた、艶の穂咲だ。なんだかんだ、色は必要ですよ」
それに穂咲兄さんは、笑って答えない。
ただ俺の向かい側に座り、穂咲兄さんは懐から床本を出して広げる。
それから自然と1時間、二人で塩谷判官を語り、弾く。雀生師匠の嗄れたような、しかし筋のある「やっとるな」と言う声まで。
「師匠、」
小さな雀生師匠の後ろには、相方の花太夫師匠がいて。
二人とも俺と穂咲兄さんを見降ろして「ふむ」と花太夫師匠が言う。
「さぁて始めるかいな」
そう言ってそろそろと二人とも稽古場に入ってきて、俺と穂咲兄さんは場所を変え二人で横並び、向かい側に座った両師匠に三指をついて頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
息ぴったしに言えば師匠方も、寸分狂わず三指をついて頭を下げ、「よろしくお願いいたします」と言った。
師匠方が頭を上げ、それから我々も上げて目が合えば、師匠方は新鮮にも慈悲深い目だった。品格を知る。
少なくとも俺はわりと挑戦的に見つめ返そうと思った。
横に退かした二代目三味線を構えるのと、隣で気付ける穂咲兄さんの息遣いに、漸く1音捻り出す。
あとはただただ、互いの呼吸でそれぞれに色を移すように、弾いて、語って、間を置いて。判官、力彌、従者と、頭に浮かんだそればかりに演じてみて。
判官の襦袢を脱ぎ、帯を閉める様、互いに音がない、人形すらなくとも目の前には広がる。すらすらと、衣擦れすらそこにあるように。
「力彌/\。はっ。由良助は。
未だ……参上仕りませぬぅ…っ、
むむ」
勢いよりも確かな哀愁。しかし力彌も判官も語れない。この演目はそれが謙虚だ。
「いやなに御検使、御見届け下さるべしと」
あぁ、速度と力。息を呑む穂咲兄さんが見つめるものは、
「力彌/\。はぁっ。…由良助はァ。
未だ参上仕りませぬっ…っ、」
あぁ、それ、その畳み掛け。
撥を持つ手が滑りそうに、それ、狂気をみるような、それ。
「残念テ残り多やな是非に及ばぬ是までと刀逆手に取り直し弓手に突き立て引き廻す、御台二た目と見もやらず口に称名」
さぁ急げ。そこに入り交じれ、そして乗れ。
「ははっはァはっとばかりにどうと伏す後につづいて先崎・矢間、其の外の一家中ばァらばらとぉ、かけ入りたり国家老大星由良助ぇ、只今到着仕りました」
息遣い、一気に語りさらに狂気を呑み込んで。音は走らずしかし急く。1音1音の腹の力がそこにくる。
そう、判官、力を入れて。
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