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家に帰るとたまに、名前も知らないおじさんが何か、母にパンフレットを見せつけ力説をしていることがある。
「あ、お邪魔してます慧くん。こんばんは」
そのおじさんは毎回気まずそうに取り繕い、俺はそれに「早く帰った方がいいよ」と挨拶をするだけ。
そうするとおじさんはそそくさと帰る、そんな日常。
多分、母が若いせいだと思っていた。
「ただいま、母さん」
おじさんが来た日は、母は決まって早口で「ねぇねぇ慧いま×××さんがね、」と、夕飯も構わずに捲し立て、それを俺に見せようとしてくる。
「母さん」
「ここ全寮制でね、×××さんとこのお孫さんは」
俺はその、名前も思い出せないおじさんのおかげで嘲笑というものを覚えたのだと思う。
「嫌だよ、そんなとこ」
決まって母は決まり悪く黙り込み、それから夕飯の支度をし始めるのが何年もの日課になっていた。
俺が小さい頃の母は確か、普通の人だった。
母がヒステリックになり始めたのはやはりその、小学何年生かくらいだったと思う。
恐らく俺にとっても中途半端な年齢で、だからこそ母が疎ましくて仕方がなくなっていく、嫌いになっていくのが、あの頃はとても怖かった。
部屋に置かれているパンフレットと何かの“教え”。
それは勝手に数学と理科、ノートの上に構わずポンと置かれている。
この雑念を頭からどうにか追い払いたくて、そんな日は部屋に籠り、ヘッドホンで何かを聴くことにしていた。ラジオだったのかもしれないし、テキトーな何かだったのかもしれない。
どこがどう違いどう変わってしまったのかというのもわかっていたから、学校では普通にやり込めていた。
その日、珍しく母は夕飯を置くに飽き足らず俺からヘッドホンを取り上げ、隈の出来た顔で言ったのだ。
「学校に言っといたから。来週まではおやすみね」
…それが14歳、誕生日の2日前の出来事だった。
「…なんで」
「さっき言ったでしょ?高校は寮に入って」
「だから、そんなとこ行かないって言ってるじゃん」
「じゃあどこに行くって言うの?絶対慧の為になるよ、この高校」
そう母に反抗するクセに俺は、自分の未来なんて、絞り込んで決めていたわけではなかったけれども。
「……絶対?」
「ま、良いわ。あ、お誕生日まではお野菜ね。入隊は卒業まで待つから」
「…ちょっと何言ってるかわかんないけど、絶対って何、入隊って何、」
「お誕生日までは先生のところに行きましょうね」
母に俺の日本語が通じないのは、結構前からだった。
母が俺になんて何一つ興味がないと思ったのも、一度や二度ではなかったのに。
「昼は母さん、お仕事だけど、お菓子も食べないでね。夜にお野菜を」
「…野菜だけ?」
「入隊も待ってあげてるでしょ?我が儘言わないで」
「死んじゃうんだけど、ホントに」
「あら?どうして?いつも」
「…言わなかったけど、流石に先生に話したよ、給食は普通に食べてるんだよ母さん、ねぇ、」
「……なんてこと言ってんのあんた、はぁ?何それちょっと待って、生き物は」
「野菜だって生き物ですけど何か?」
うるさいなと、母からヘッドホンを取り返したのだが「何してんのよあんたっ!」と、頬をひっ叩かれた。
でも、例えば母さんを殴ってしまったらといつも考えてしまう。そういう理性が残っているのも…あんたよりは世の中を見ているからだよと思う自分が、悲しくて仕方なかった。
それはきっと一度だけ、俺がイライラして「どこの誰だかわからん男の子供だからって、」とまで言ってしまい、母親を大号泣させてしまったことがあったからかもしれない。
甘んじてビンタも、泣きながら馬乗りで胸ぐらを掴まれ床にガンガンやられるのも、その程度ならまだ、まだやってはいけないと、そう思っていた。
だって、何が悪いかわからないし、相手はただ弱く…泣いているのだからと、早く、この家を出て行きたい、そう思って嵐が去るのを待つのにも、随分慣れてしまっていた。
母さんだってこうしたかったわけじゃないだろう、あのジジイ変に母さんを刺激しやがって、母さんだって父親と一緒に居たかったかもしれない、勝手に産んじゃったらしいねというご近所の声、じゃあ、なんで産もうとしたのか、「当たり前じゃない、産みたかったもの、慧を」と言った昔の母さんの笑顔、顔も知らない養育費だけのバカ野郎、払い忘れもあるらしいが、こんなバカらしいことに使うなら、それが正しいよと。
濁流のようだ、この思考はまるで。
母が癇癪で部屋から出て行き、ボタン、一個取れちゃったなと裁縫セットに手を伸ばすときが一番泣きたくなる。
だからヘッドホンは、俺にとっては必要不可欠なものだった。
最近家庭科の授業で習った玉結び、難しいな、なんて、本当はまどろっこしくてイライラしているはずなのに。
何度も、何度も出来なくて結び直して、結局ボタンは外れかけたまま。
明日、女子に頼もう。
あ、ダメだ。明日から一週間、学校に行けない。
ただただやり場もなくて、別に泣いても良いだろうに、居たたまれなさに歯を食い縛るしかなかった。
もう、なんでもいいやなんて、最後にはいつも疲れてふて寝をしていた、それまでのこと。
「あ、お邪魔してます慧くん。こんばんは」
そのおじさんは毎回気まずそうに取り繕い、俺はそれに「早く帰った方がいいよ」と挨拶をするだけ。
そうするとおじさんはそそくさと帰る、そんな日常。
多分、母が若いせいだと思っていた。
「ただいま、母さん」
おじさんが来た日は、母は決まって早口で「ねぇねぇ慧いま×××さんがね、」と、夕飯も構わずに捲し立て、それを俺に見せようとしてくる。
「母さん」
「ここ全寮制でね、×××さんとこのお孫さんは」
俺はその、名前も思い出せないおじさんのおかげで嘲笑というものを覚えたのだと思う。
「嫌だよ、そんなとこ」
決まって母は決まり悪く黙り込み、それから夕飯の支度をし始めるのが何年もの日課になっていた。
俺が小さい頃の母は確か、普通の人だった。
母がヒステリックになり始めたのはやはりその、小学何年生かくらいだったと思う。
恐らく俺にとっても中途半端な年齢で、だからこそ母が疎ましくて仕方がなくなっていく、嫌いになっていくのが、あの頃はとても怖かった。
部屋に置かれているパンフレットと何かの“教え”。
それは勝手に数学と理科、ノートの上に構わずポンと置かれている。
この雑念を頭からどうにか追い払いたくて、そんな日は部屋に籠り、ヘッドホンで何かを聴くことにしていた。ラジオだったのかもしれないし、テキトーな何かだったのかもしれない。
どこがどう違いどう変わってしまったのかというのもわかっていたから、学校では普通にやり込めていた。
その日、珍しく母は夕飯を置くに飽き足らず俺からヘッドホンを取り上げ、隈の出来た顔で言ったのだ。
「学校に言っといたから。来週まではおやすみね」
…それが14歳、誕生日の2日前の出来事だった。
「…なんで」
「さっき言ったでしょ?高校は寮に入って」
「だから、そんなとこ行かないって言ってるじゃん」
「じゃあどこに行くって言うの?絶対慧の為になるよ、この高校」
そう母に反抗するクセに俺は、自分の未来なんて、絞り込んで決めていたわけではなかったけれども。
「……絶対?」
「ま、良いわ。あ、お誕生日まではお野菜ね。入隊は卒業まで待つから」
「…ちょっと何言ってるかわかんないけど、絶対って何、入隊って何、」
「お誕生日までは先生のところに行きましょうね」
母に俺の日本語が通じないのは、結構前からだった。
母が俺になんて何一つ興味がないと思ったのも、一度や二度ではなかったのに。
「昼は母さん、お仕事だけど、お菓子も食べないでね。夜にお野菜を」
「…野菜だけ?」
「入隊も待ってあげてるでしょ?我が儘言わないで」
「死んじゃうんだけど、ホントに」
「あら?どうして?いつも」
「…言わなかったけど、流石に先生に話したよ、給食は普通に食べてるんだよ母さん、ねぇ、」
「……なんてこと言ってんのあんた、はぁ?何それちょっと待って、生き物は」
「野菜だって生き物ですけど何か?」
うるさいなと、母からヘッドホンを取り返したのだが「何してんのよあんたっ!」と、頬をひっ叩かれた。
でも、例えば母さんを殴ってしまったらといつも考えてしまう。そういう理性が残っているのも…あんたよりは世の中を見ているからだよと思う自分が、悲しくて仕方なかった。
それはきっと一度だけ、俺がイライラして「どこの誰だかわからん男の子供だからって、」とまで言ってしまい、母親を大号泣させてしまったことがあったからかもしれない。
甘んじてビンタも、泣きながら馬乗りで胸ぐらを掴まれ床にガンガンやられるのも、その程度ならまだ、まだやってはいけないと、そう思っていた。
だって、何が悪いかわからないし、相手はただ弱く…泣いているのだからと、早く、この家を出て行きたい、そう思って嵐が去るのを待つのにも、随分慣れてしまっていた。
母さんだってこうしたかったわけじゃないだろう、あのジジイ変に母さんを刺激しやがって、母さんだって父親と一緒に居たかったかもしれない、勝手に産んじゃったらしいねというご近所の声、じゃあ、なんで産もうとしたのか、「当たり前じゃない、産みたかったもの、慧を」と言った昔の母さんの笑顔、顔も知らない養育費だけのバカ野郎、払い忘れもあるらしいが、こんなバカらしいことに使うなら、それが正しいよと。
濁流のようだ、この思考はまるで。
母が癇癪で部屋から出て行き、ボタン、一個取れちゃったなと裁縫セットに手を伸ばすときが一番泣きたくなる。
だからヘッドホンは、俺にとっては必要不可欠なものだった。
最近家庭科の授業で習った玉結び、難しいな、なんて、本当はまどろっこしくてイライラしているはずなのに。
何度も、何度も出来なくて結び直して、結局ボタンは外れかけたまま。
明日、女子に頼もう。
あ、ダメだ。明日から一週間、学校に行けない。
ただただやり場もなくて、別に泣いても良いだろうに、居たたまれなさに歯を食い縛るしかなかった。
もう、なんでもいいやなんて、最後にはいつも疲れてふて寝をしていた、それまでのこと。
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