ポラリスの箱舟

二色燕𠀋

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 天の川を渡るのはきっと、こぐま座だ。
 その一等星はそう、ポラリス。

 天文学者だったあの人は星を見上げ、僕にそう言いました。
 あの時の、彼の子供みたいな優しい笑顔だけ、それだけは忘れられない物となり心に、刃物として残ったように感じるけれど。

 コン、コン。

 無機質な、扉を叩く音に意識は白と、無機質な研究室の日常風景を戻す。

 星空もあの人もいなくて。

 音がしたその背後を振り返るのは、少し癪なような気がしてしまったのは来訪者が誰だか、敢えて確認せずともわかったからに他ならない。

 しかしながらその人物がこうして己の存在を主張するからには理由が存在する筈だ。理由がないときには黙って、恐らくは自分の前のパイプ椅子に座り、顔を眺めたり、白衣の袖を勝手に捲って許可なく血液でも採取したりするような変人さを、持ち合わせているような奴だ。

 まぁなによりそいつは同業者。同じ分類の、人間でありここを使うのはわかる話だが。

 そこまで考えてから渋々、返事もせずに首筋が鬱陶しかった黒髪を耳に掛け、漸く振り向いてやった。

 やはり予想していた通り、スライドドアを開けたのは短髪で寝癖頭に近い取れかけたパーマのような茶髪、長身の男だった。
 壁に凭れにやっと笑いダルそうに、開いた扉を叩いた様がわざとらしい。

「…何かご用でしょうか南沢みなざわ准教授」
「冷たいなぁ、雨川あまがわくん」

 胡散臭いにやにやで茶髪、南沢みなざわ夏江なつえはそう言った。

「ご用件はなんでしょうか」
「いやぁね、君、今至極暇じゃないかと思って来たんだけどさぁ」

 確かにそれはそうだ。
 暇だから空白の時間が流れて無駄な時間を過ごしている。まぁ、だからと言って特になにかをやろうというわけでもなかったのだが。

 ただただこうして毎日を、この狭い研究室の机の上で雨川は過ごす。時に論文を書き時に研究をし時にこうして厄介者の相手をし。暇なのは、たまたまである。

 雨川はちょうど一昨日、自分の分野である天文学の「ポラリスAb」の論文をまとめて大学に出したところで、つまりは今日から暇だった。

 雨川あまがわ真冬まふゆ、28歳はとある大学研究施設の研究員である。研究生、ではない。

 なんの研究をしているか。
 大体は天文学だ。大体、というのは、雨川自身の性格と生態系、頭脳と友人関係、すべてが相まりさまざまな分野でまぁ、活躍をしているのだ。

 活躍と言えば聞こえはいいが、要するに雨川は雑用を任されている。
 これでは研究生と代わりがないように思えるが、そういうわけでもない。雨川は研究生よりはまだ頭も良いし研究内容もえげつなかった。そして分野により雨川は研究生では出来ない仕事をこなしているのだった。

 だが彼、南沢夏江の専門は、雨川とは研究内容が異なる生物学である。
 雨川の南沢への評価は単に「変態学者」だ。何が変態か、それは彼が生粋の「学者」頭であることを揶揄する表現のひとつだ。

 基本的に雨川は、忙しい。
 しかしこう、暇になることもある。
 この南沢という変態は不思議と、雨川のそんなときに舞い込んでくる。

「で、ご用件は何ですか」

 非常に不愉快そうに雨川は南沢に返すのがこの男への常。
 南沢はそれには毎度ながら僅かに愉快なのだが、苦笑に留めてしっかりと、その不機嫌に寄せられた薄い雨川の瞳を捉えるのだった。

「俺の新しいペットを君に見せてあげようかなぁと思ってさ」
「はぁ、そうですか」
「凄く興味がなさそうだね」
「興味がない、というより面倒です」
「まぁ来てよ。君、俺の検診も今月バックレてるし」
「忙しいので、あんなゴミ小屋に行きたくないなぁと思いまして。俺、潔癖症なんで」
「知ってるよ。綺麗にしたからさ。さぁ来て頂けない?」
「立つのがダルいです」
「女じゃないんだから。手をお貸ししましょうか」

 いちいち癪だ、この南沢という男は。

「お断りしたいと申し上げております」
「…真冬、」

 はっきりした雨川の進言に、南沢は胡散臭い笑顔を消す。
 だが雨川としては別にいい。腹が立ったのでそのまま応じず寝てやろう。そう雨川は思い付き、振り向いたその身体をまたデスクに向きを変え、突っ伏してやる。

「…仕方ないなぁ。君が来ないなら捨ててくるか」

 そんな雨川の不機嫌さに、南沢はわざとらしい口調で言ってみる。
 取り引き、いや、駆け引き。

「俺の口には合わないもの。新食感なんて」

 なんだか絶対に南沢は比喩をしている。それはわかるが。

「うるせぇなぁ…」

 煩わしい。
 再び雨川は南沢へ振り返る。
 南沢の野郎は綻ぶような笑顔で腕組みをしているのだった。

「え?来る気になったの真冬くん」
「…うるさいので。なんですか検診でしょうか」
「まぁまぁ、それもあるよ。しかし君もきっと好きなやつ。まぁ来て」

 それだけ言っておいて、前回のように暴君ハバネロだったらぶち殺しても良いハズだ。

「…辛いだけなのはセンスがありませんからね」
「大丈夫、もう少しカレーチックだから」

 仕方がない。
 雨川は漸く重い腰を上げて立ち上がる。仕方なく、嬉しそうににたにたしているクソ野郎の後ろについて南沢の研究室へ向かうことにした。
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