碧の透水

二色燕𠀋

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「…お前の兄貴分がここに出入りしてるよなぁ?」
「兄貴分なんていませんけど」
「川上だよ川上。あいつ何企んでんだよ」
「何かありましたか」
「惚けんなよ。
 なぁ、俺お前をくしてやったよなあ、これからもそうしていくつもりだけど、なぁ」

 田野倉はひそひそ話で声を掛けてきては太ももあたりに指を這わしてくる。色々と背筋に鳥肌が立つようだ。

 何が好くしてやっただこの三下野郎がと、雪は微笑んだが田野倉のネクタイを引っ張り、少し相手が油断した耳元で「営業妨害とセクハラで警察呼ばれたいですか」とゆったりと話す。

 「痛ぇよっ、おいっ、」とネクタイを捕んだ雪の手を「ギブアップ」の合図で叩く田野倉に、仕方なくネクタイを離してやった。
 睨みを利かせて田野倉はネクタイを外し、「はっ、このタラシが」と吐き捨てた。

「ガキが、随分と大人になりやがったな」
「田野倉さんには随分、世話になりましたよ。もう顔も忘れるくらい」
「はっ、楽しそうで何よりっ、」
「そういうわけなんで帰…」

 腕を引かれた。
 そのままエレベーターに向かっていく田野倉に「なんなんですかっ、」と振り払おうとするが、

「クリーンな客だよお坊ちゃん。今ので若干燃えたね」

 あぁ、こいつとの接し方はどうやら染みてしまっている。そうだったこいつはかなり性悪でたちも悪い三下だ。プライドをにじり潰す方が難しい。

「…この変態っ、」
「ははっ、思い出したようで幸いだよ雪ちゃん」

 仕方ない。
 春斗さん、変態様一名ですと心のインカムで言うしかない。

 やれやれとエレベーターに二人で乗った。犬のように雪の首筋あたりの臭いを嗅いでくる変態に雪は心底から溜め息を吐いた。

 エレベーターから降りて雪と田野倉を見た春斗が一瞬、蟀谷こめかみをピクッとさせてから「いらっしゃいませ」と笑顔を作ったのが雪にはわかった。

 田野倉は席にぐでんと座り、春斗がメニューを出そうとしたがすぐに「ショット、テキーラ」と頭の悪い倒置法にもならない文法で言う。

 笑顔のまま雪を見て「はぁ、」と言った春斗に内心で謝りながら「いや、あの」と雪が言うも、

「なんや置いとらんのかい」

 急なヤクザ弁で怒鳴るように田野倉は威張る。
 客がいなくて本当によかった。

「テキーラのショットですね。置いてありますが…
 お客様、表のお店は見ました?裏から来たんですかね?」
「あ?」
「んーと、大通り側と言いますか」
「あんやキャバクラの事かいな」
「あ、ご覧になりましたかね。
 えっとすみません、ウチ、今日は従業員二人でして、つまりはああいったシステムとは違うお店なんですけれどもお楽しみ頂けるでしょうか?
 ワンドリンクは確かに頂くんですけれども…例えばボトルキープとかね、そういう感じではなく…。
 もしもああいったタイプのお店をお求めでしたら」
「いや、知り合いがおったから来ただけなんやけど」
「あー…」

 春斗にちらっと見られた。
 確かに説明はしていない。

「それではお店の概要としては、ここは所謂ディスコだとか、クラブの類いのバーでして。そうですねぇ…お好きな曲ってありま」
「ええからテキーラ!」

 ああ…。
 ふと一歩引いた春斗が何かを言う前に、「すみません春斗さん」と、雪はバーカウンターに戻る。
 肘でつんとされた。

「僕がお付き合いします。ワンショットですよね。田野倉さん、音楽は何が好きでしたっけ。ブルース?」
「はぁ?」
「まずは飲んでからにしましょうか?」
「ええけど…」

 春斗は溜め息を吐きながら仕方なしと、店内音楽スピーカーをいじり、「The Thrills Gone」を流した。
 多分、このヤクザは音楽なんて聴かないだろう、重鎮のド定番だったとしても。

 雪が用意したテキーラのセットに田野倉が疑問顔。
 「なんやこれ」の間に指にライムを絞り塩をつける雪に「なんやつまみか?」なんて言う田野倉。
 そしてその塩を舐めた雪に田野倉は唖然としていた。

「何って、ショットでしょ?田野倉さん」
「は、」
「あ、お客さんそのままいっちゃうタイプですかぁ。まあ、好きな飲み方がいいんじゃないですか?」

 微妙な春斗の煽りに「春斗さん、」と雪が制する。

「まぁ、あの店やらなかったですよね」

 あの店。
 春斗はそれで察した。

 「おぉう、そや!」と田野倉がショットを持ったところで互いに一気。

 飲み終えたところでライムを齧る雪に「どや!」と田野倉が言うのも、わりと聞いていない態度で雪は手を洗った。 

 どうやら田野倉はそれで勝った気にはなったらしい。
 「あんちゃん」と、春斗に振る。

「この店、最近ヤーさんうろついてないか?」

 ショットというかドストレートで来やがったなこのヤクザ、というかそれ、お前やねんと言いたいのを堪え、春斗は笑みを作った。
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