碧の透水

二色燕𠀋

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 ひどく晴れ渡った空に、雲を作ってしまいそうなほどの黒煙が昇っていた。
 
 雪はそれを眺めてぼんやりと、ハイライトに火をつけ、勤務先のミュージックバーに電話を掛ける。

 煙はピンと糸のように天に登ってゆくが、あの煙よりも先に霧散してしまうな、とぼんやりと思いながら、全てを終了した旨と退職届の書類を請求したのだった。

 話し終わった頃に陽一が「終わったな」と背後から声を掛けやってきて、自分もマルボロに火を灯す。陽一もぼんやりと火葬場から排出される煙を眺めていた。

 葬儀は近親者、つまりは雪と陽一のみで行った。
 
 ただ流れていく煙を眺めながら、すべての後腐れはこうして灰になり永遠になくなってしまったんだと、二人は互いに何も言えないでいた。
 それでも、骨くらいは残るようだけど。

「…500って、何年くらい暮らせるかなぁ」

 そうぼんやりと言う陽一は晴れやかに見える気がした。

「…想像もつかない」
「お前、引っ越し代だけでよかったのか?」
「まぁ」

 雪と陽一は青柳から手切れ金をその場で渡され、正式に青柳とは絶縁となった。陽一は500万、雪は住居の引っ越し代として50万を札束で手渡された。

 心配していた母の三回忌と七回忌は青柳が持つとの約束になったので、それでも完全には絶縁とはならないのが現状だったが、失踪届けから死亡届けに変わり6年、それに似たようなものかと思えた。

「引っ越しって、場所は?」
「決めてない」
「…そうか」

 本当はこれからも一生終わることはないけれど、済んでしまえば急に数日前すらも、眩暈に似た幻想のような気がしてしまうけれど。

「…まぁ、何かあったら」

 陽一はベターに、昨日まで有効だった自分の名刺の裏に何かを書き、雪に渡してきたのだった。
 雪が受け取るのをなんとなく躊躇っていれば「仕方ねぇだろ」と、笑って無理矢理寄越してくる。

「これしかねぇんだから」
「…う~ん」
「後腐れか?」

 地味に突かれて雪は返答に困った。
 しかしどうやら、それを読み解かれるくらいのじわりとした間柄にはなっていたようだ。

「きっとさ、」

 陽一はまた黒煙を眺め、足元でタバコを踏み消し言うのだった。

「俺が言えた口でもないが、まぁ、……どうだろう、出会い方が少し違かったらな」

 どんなものが見えたのだろうか。

 それは、永遠にわからなくなってしまったようだ。
 そう陽一も思ったのだろうか、それ以上は続けなかった。

 気楽なように手を振って「また飲みに行くわ」と言った陽一の背中は清々しく見える。

 見送ってから誰かの、天に昇って逝く黒煙にふと、過った。

 あんなことを聞いてしまって、悪かったとは思っていない。一生付きまとっていく疑問なはずだから。
 だけど、ごめんね母さんと、なんとなく空中に浮かんでは霧散してしまった気がした、糸が切れたように。

 もう一本ハイライトに火をつけて、陽一からもらった名刺を眺めてみる。
 住所が書いてあった。わりとここから少し遠いが、電車で行ける距離だったんだと初めて知った。

 そうか、電車で帰るかと思い、雪は漸くその場をあとにする。

 一番近い駅よりは一駅遠くまで歩こうと考えているうちに、ふわっと、ぼんやりとした難聴に近い誰かの鼻声が聞こえた気がして。

 途中で郵便局に寄り、一度出したなら名刺を捨てようかと思ったが、それは止めておいた、なんとなく。

 駅について電車に乗り、さぁ自分はどこに行こうかと考えた。
 
 ふわっと、鼻唄が聞こえた気がして。

 そういえば母さんは、故郷が好きだったと前に言っていたな。

 空気も綺麗な、北関東の海もないところで、母の実家の近くには温泉と、なにより青く大きな川があるのだと言っていた。
 自分は東京で生まれ東京で育ったが、そういった母の故郷すらも訪れたことはなかった。

 財布の中身は確か二万円ほどあったか。葬式は赤字になる、というのも関係はなく、単純に金欠だった。

 ……果たして、辿り着くだろうか、北関東。母が言うには綺麗な川と、しかし、その滝は自殺の名所で有名なのだそうだ。
 死ぬほどの絶景、綺麗な川。それは果たして自分には何色に映るのだろうか。

 ジャズを口ずさむような気持ちで、雪は乗り換えもわからない電車から青空を、眺めたのだった。

〈完〉
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