紫陽花

二色燕𠀋

文字の大きさ
上 下
46 / 90
ホワイトチョコレート

12

しおりを挟む
「そう言えばさ、みっちゃん。これ何色なの?」
「え?わからん。育ってからのお楽しみだ」
「なんとなく黄色かなぁ…」
「もう春だねぇ」

 山梨さんがしみじみと言いながら黒霧島くろきりしまをちびちび飲んでいる。この人はいつも、あまりつまみを食べない。

 客席を見渡せば満席だった。うちの店は客席が少ないのですぐ満席になる。

 余裕が出てきた頃、飲もうと思って久保田に手を伸ばしたら一本空いていて、しかも瓶が違う。変わったのかな?と思って銘柄を見てみた。

「何これ…」

 ウチで出してるのは久保田千寿だが、見たらそれは萬寿だった。

 え、発注ミスったかな。いや、そもそも値段がだいぶ違うよな。これ買うなら千寿3本いけるもんな。間違えるわけがない。

「小夜、発注伝票取って」

 間違えてたら大赤字だ。

 しかしふと棚を見ると、頭の中に記憶していた発注数通り千寿があることに気付いた。

「ん?
 小夜、お前発注いじった?」
「いじってないよー。先週は一回いじったけど…はい、今日のでしょ?」
「ありがと…」

 今日の伝票を見ても、やっぱり合ってる。
 ふとキッチンの方を見たら、おっさんが何かびくびくしてる。
 あぁ、あの野郎か。

「ちっと小夜、嫌味言ってくる」
「ん?はいはーい」

 キッチンに行こうとしたらおっさんは自ら怒られに来た。

「ごめんごめん、私物だよ。お前も飲んで良いから許して?」

 ヤケに甘えて言ってきやがって。

「マジ焦るから。ホント勘弁してって何回言ったら分かるの?」

 とか言ってる間にグラスに次いでくれて、俺もそれを自然な流れで受け取って一口飲んでしまう。

「それ二口目からだからね」

 言われるまま飲んでみたら確かに。三口目まで飲んでまた味が変わり、気が付いたらなくなっていた。無言でグラスを出すと、また注いでくれた。
 高いだけあって上品だがこれは怖いな。もしや真里、これを飲んだのかな。

「それ何?」

 ふと山梨さんが聞いてきた。

「ウチで出せますかね?」

 丁度グラスが空いてる。山梨さんに一杯だけ出した。

「光也ごめんって!」

 へっ。商品棚に私物を置いた罰だ。

 山梨さんは最初、「ん?何だこれ」と言っていたが、「二口目から」と言うとすぐに飲んで、「あれ?」と驚いている。

「女みたいな酒だなぁ」
「あ、それわかるかも!口にする度味が違いますよね」
「やだ、光也エロい」
「うるさい死ねクソじじい。俺のさっきの焦燥感なんだと思ってんだよ」
「発注ミスったかなって?」
「そうだよ」
「まぁ殴るよねー」
「これなんなの?」
「久保田の萬寿」
「うぉぉ…」

 思わず山梨さんもグラスを眺めている。

「店で出すにはコストすごいねぇ。取り敢えず美味い酒ありがとなー」
「喜んでくれて何よりです」

 山梨さんはおっさん向きのお客さんだし、一回離れよう。

 それなりに他のお客さんと話していると、なんとなくお客さんが帰り始め、入れ替わり、2回転目に入ったが、今日はわりとあっさりしていた。

 今日はこのままゆったり行くんだろうなと思い、白州を飲んでいたとき、ふとお客さんの腕時計が目に入った。

 21時5分くらい。これはもう二次のピークの客入りは収まったかな。

「今日はわりと暇だねぇ」
「そうだな」

 席もぼちぼち空いてきている。後はきっと今の客を帰すくらいかな。
 キッチンを眺めると、意外にも忙しそうだ。ちょっと手伝ってこようかな。

「小夜、ちょっと手伝ってくるわ」
「はーい」

 だがキッチンに入ろうかと思ったとき、おっさんがカウンターに出てきた。忙しいんじゃないのか?

「いやー暇だな、今日は」
「忙しそうだったけど」
「あぁ、料理教室の準備もあるからな」
「ん?何それ」
「小夜ちゃーん、今日早めにやっちゃう?」

 なんだそれ。

「いいんですか!?」
「おうよ。ただ、今は真里の料理教室中でわたわたしてるからもうちょいねー」
「マリちゃん!?」
「うん。あ、なんなら参考に見てきたら?」
「そうする!マリちゃーん!」

 とか言って小夜がキッチンに入った。なんだ、状況が掴めない。

「訳わかんねぇって顔してんな」
「うん…訳わかんない」
「今二人に料理教えてんだよ」
「あっそう…」

 久保田萬寿を渡して軽く乾杯。何口か飲んで、「うん、これ出しちゃってもいいや。なんか俺には合わない」とか無責任なことを言いやがる。

「お前こーゆーの好きじゃない?」
「うーん。なんとも…俺千寿の方が好きかも」
「まぁお前がっつり酔いたいタイプだもんな。店いるときこれ飲んで良いよ」
「あ、それはちょうど良いかもね」

 もったいない気もするが、どうせなら飲んでやろう。

 ふと扉を見る。さっきからわりと見てしまう。しかし、扉は開かない。お客さんがお会計を済ませて帰るくらいだ。

「光也」
「ん?」
「なんかお前、ぼーっとしてね?」
「え?そう?」
「閉店間際まで今日は開けとく?」

 暇なのになんでだろう。いつもだったら閉めてるだろう。

「待ってるんだろ?」
「え?」
「まぁいいや、一回戻るわ」

 そう言うとおっさんはキッチンに戻った。なんだったんだ、一体。

 結局それから22時まで客入りはなかった。ほとんどお客さんも帰っちゃったし、今日は早く閉めるのかな。

 真里が珍しくカウンターに出てきた。

「珍しいな」
「ん?うん。今からは小夜の料理教室だから」
「その料理教室ってなに?」
「ん?内緒」

 ますます訳がわからん。なんかみんなで企んでる?

「まぁそのうちわかるよ。光也さんも習ってみたら?」
「なんか企んでる?」
「うん、企んでる」

 そんなあっさり白状されても…。

「大丈夫、罠系じゃないから」

 なんだよそれ。そんななんか素敵な笑顔で言われても機嫌悪くなるからな。

「あ、ちょっと機嫌悪い」
「うるさいなぁ…」

 これだから昔からの知り合いは嫌なんだよ。すぐ顔色で悟られるから。

「てか、ホール来るとか珍しくない?」
「うん。暇になっちゃったからさ。なんか飲まして」
「また飲むのか。てかすっかり元気だな」
「ほどよく酔ってるよ。山崎水割りがいいな」
「はいはい」

 仕方なく山崎の水割りを作ってると、カウンターに座っていたおじいちゃんに、「この揚げ出し豆腐兄ちゃんお手製?」と、声を掛けられ、「あぁ…はぁ…」と、ちぐはぐに返していた。

「美味しいね。なんか優しい味がする。お母さんの味」

 そう言いながら静かに染々と揚げ出し豆腐をつまみに黒伊佐錦くろきさにしきを飲むおじいちゃん。それを見て、どことなく誇らしげではあった。

 いいなぁ、料理人。こーゆーとき、嬉しいんだろうな。

「たまにはいいだろ、ホールも」
「…そうかもね」

 ふと、カウンターのチューリップが目についた。まだ色なんてないけれど。これが咲くまであと一ヶ月だ。

 雪子さん、来ないなぁ。

「ため息吐くと幸せ逃げてくよ」

 真里に言われて我に返る。

「疲れたの?」
「うん、まぁ…」

 もうなんだかわからない。ただなんだか気分は下がり気味だ。取り敢えず飲もう。そう思って酒を注いだ時だった。
しおりを挟む

処理中です...