裸足の人魚

やわら碧水

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第一部

第二章・カミングアウト(その6)

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 潮音が暁子や優菜と別れて自宅に戻り、制服を脱いだ後で上半身を覆っていたナベシャツも脱ぎ去ると、ようやく一日中胸を締めつけていたナベシャツの圧迫感から解放されて、ほっと一息つくことができた。潮音はそのまま素肌の上にTシャツを着ると、その上に部屋着代わりのジャージを着込んだ。

 潮音はなんとか一日を学校で過ごせたとはいえ、これからも毎日このような形で学校に通わなければならないのか、さらにそれは高校に進学してからも変らないのかと思うと、体中からどっと疲れが噴き出してきそうな心地がして、そのまま自室のじゅうたんの上にへたりこんでしまった。潮音はこれからが高校受験のラストスパートで勉強しなければならない時期にもかかわらず、このような心持では机に向かう気力もなかった。

 そのようにしているうちに、綾乃が大学から帰ってきた。潮音がようやく腰を上げて居間に向かうと、動くたびに胸が揺れるだけでなく、胸の先がTシャツの生地に擦れるのに戸惑いを覚えざるを得なかった。

 綾乃は居間で潮音と顔を合わせると、しばらくの間潮音の胸に目をやった後で困惑気味に声をあげた。

「あんた、その胸なんとかならないの」

「しょうがないだろ。あのナベシャツって、ずっと胸締めつけてて窮屈なんだよ。家にいるときくらいいいだろ」

「あんたはそれでよくても、周りは気になるの。こんなこともあるだろうと思って、病院からサイズ聞いて用意しておいたのよ」

 そう言って綾乃はポリ袋を取り出した。潮音はその中身を想像して身を引きそうになったが、綾乃はそのような潮音の様子などお構いなしにポリ袋の中身を取り出してみせた。

 綾乃がポリ袋から取り出したのは、ハーフトップのスポーツブラだった。

「どうせあんたのことだから、ブラっていうとリボンやフリルの飾りがついたようなやつだと思ってたんでしょ? これならタンクトップを小さくしたようなものだと思えばいいんじゃないかしら」

 それでも潮音の表情からは、困惑の色が抜けなかった。そこで綾乃はさらに言葉を継いだ。

「潮音、あんたがどうしても体が変ったことを受け入れられないというのなら、ナベシャツで胸を隠してりゃいいわ。そして大人になったら、性転換手術を受けることだってできるけど、本当にそうしたいなら私も応援してあげるよ。でもそれまでは、その胸をずっと締め付けていたら絶対体によくないし、体育の時間くらいはこれをつけた方がいいと思うの」

 そこまで言われて、ようやく潮音は綾乃の手からスポーツブラを受け取った。

 潮音は自室に戻ってからも、しばらくの間ブラを手にしたまま立ちすくんでいた。その後でようやく覚悟を決めると、潮音はジャージとTシャツを脱ぎ、頭からかぶるようにしてハーフトップのスポーツブラをつけた。

 潮音が両胸をブラで覆われる感触に戸惑っていると、ドアの外で綾乃の声がした。

「どう潮音、ちゃんとブラつけられた?」

 その綾乃の声に、潮音は思わずあわてふためいてしまった。

「ちょっと待ってよ姉ちゃん」

 そしてようやく潮音が綾乃を自分の部屋に通すと、綾乃は潮音の胸元を見てブラのつけ方にどこかぎこちなさを感じたため、ブラのつけ方を調整してやった。綾乃が潮音の背後からブラに手を入れて潮音の両胸がきちんとブラのカップに収まるようにしたときには、潮音は気恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、その場にへたりこみそうになった。

 ようやく綾乃がブラのつけ方を調整し終ると、スポーツブラは潮音の体形にぴったりフィットしていた。そこで綾乃は、潮音に少し上半身を動かしてみるように言った。

「窮屈なときや、何か気になることがあったときにはちゃんと言うのよ」

 しかし潮音は、いざ上半身を動かしてみると、両胸がブラに抑えられてだいぶ体を動かしやすくなっていることに気がついた。潮音はこれまで、ナベシャツで両胸を締め付けて苦しい思いをしていたのは何だったのかとさえ思って、ため息をつくともはやこれまでだと観念した。

 潮音はTシャツとジャージを着込んでも、両胸の先がTシャツに擦れる感触も気にならなくなっていることにほっとした。そこで綾乃は潮音に声をかけた。

「ほんとはちゃんと店でサイズはかってもらった方がいいんだけどね。もしあんたがもっとおしゃれな下着つけたくなったら、いつでも一緒に選んであげるよ」

「バカ」

 潮音は赤面しながら声をあげた。

 ちょうどそのころ、則子も仕事から家に帰ってきた。則子も潮音の胸元を見て少し驚いたようなそぶりを見せたが、それと綾乃の表情を交互に見比べると、だいたいの事情を察した。

「綾乃、心配なのはわかるけどこの子の気持ちも考えてあげて。綾乃だっていきなり顔からヒゲが生えてきて声が低くなったり、トイレも男子用に行かなきゃいけなくなったりしたらいやでしょう」

 そのように話す則子の口ぶりからは、不安げな様子が抜けていなかった。

 しかしそこで、潮音は則子に吹っ切れた様子で言った。

「いいんだ母さん…自分の体が変ってしまったことからはどっちにしても逃れられないから…。それにこうしてブラつけてみて、だいぶ動きやすくて楽になったよ…さすがにこの胸で学校行く気はしないけど」

 そこで則子はなんとか潮音をなだめた。

 そして三人で夕食を済ませた頃になって、インターホンが鳴った。塾から帰ってきた暁子が、心配のあまり潮音の家までたずねに来たのだった。

 しかし潮音が玄関先で暁子を迎えると、暁子は潮音の胸を前にして目のやり場に困っていた。

「あたしより…でかくない?」

「好きででかくなったんじゃないからな」

 潮音のつっけんどんな口調に、暁子も少々ムッとして答えた。

「何言ってんのよ。せっかくあんたのことが心配だったから来てやったのに」

 そうやって玄関先でいがみ合っている暁子と潮音を、綾乃と則子の二人もいささか呆れた表情で眺めていた。

「二人ともいいかげんにしなさい」

 綾乃にたしなめられると、ようやく潮音もおとなしくなった。そこで潮音は、ぼそりと口を開いて綾乃にきいてみた。

「暁子も…最初はやはりこんな気持ちがしたの」

 暁子は顔を赤らめて答えた。

「小学六年のころだったかな。お母さんからそろそろブラつけた方がいいと言われて、店に連れて行ってもらったっけ。女子の間ではもっと早いころから、このことを話題にしたこともあったけど。…やはりあたしも、最初はちょっと恥ずかしかったかな。体育の時間に着替えるときも、ほかの女の子の視線が気になったし…。でもこういうのは人によってみんな違うんだから、早いとか遅いとか、大きいとか小さいとか、そんなの気にすることないよ」

「暁子にそう言われると説得力あるよな」

「どういう意味よ、それ」

 暁子は頬を膨らませた。そこで則子が暁子をなだめた。

「ともかく暁子ちゃんが潮音のこと心配してくれて助かるわ。これからもこの子がいろいろ迷惑かけると思うけど、そのときはよろしくね」

 暁子が則子から声をかけられると、暁子も軽く笑顔を浮かべて隣の自宅に戻っていった。暁子は先ほど潮音が暁子に悪態をついたとき、潮音の心の中や性格は以前と変っていないのかもしれないと思って、内心で少し安堵していた。
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