裸足の人魚

やわら碧水

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第一部

第二章・カミングアウト(その7)

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で隠した上に黒い学生服を身にまとって現れた潮音の姿を見て、暁子も少々戸惑っていた。

「やはり…友達に胸を見られるのはいやなの」

「ああ。体育の時間くらいはスポーツブラつけようと思うんだけど」

 しかしそのような日が数日続くと、クラスの空気は潮音が学校に戻る前とは明らかに違っていた。

 潮音に対して、気にかけるような視線を送っていたのはむしろ女子たちの方だった。顔つきや様子も女の子っぽくなった潮音が、黒い学生服を着て男装して学校に通っているのだから、女子としては気にするなという方が無理だろう。実際、女子の中には今まで潮音とつきあいがなかったにも関わらず、潮音に対していろいろと声をかけてくる者もいた。潮音自身もそのような女子たちへの対応の仕方にいささか困っていたが、むしろ浩三も含めた男子たちは、そのような潮音の様子をいささか複雑そうな面持ちで眺めていた。

 実際、潮音は入院まで仲が良かったクラスの男子たちと話の輪の中に入ろうとしたこともあった。しかし潮音がいくら話そうとしても、潮音を囲んでいる男子たちの態度からはよそよそしさが抜けなかった。男子たちは、潮音に対してどのように接すればいいのか戸惑っているように見えた。潮音はそのような意識のズレから、自分はもはや元の男子に戻ることはできないのだろうかと気になり出していた。

 そして潮音が学校に戻ってから一週間ほどが過ぎたある日の昼休み、潮音が席についていると玲花が声をかけてきた。

「藤坂君…高校どないするん」

 潮音は、これまでずっと自身がひそかに憧れていながら、言葉を交わすこともなかった玲花がいきなり話しかけてきたことに困惑した。しかし潮音は、これはあえてチャンスだと思い直すと、玲花に答えた。

「やはり南稜に行きたいよ…たしかにあの学校は進学コースでもいい実績出してるけど、何より校風自由で制服ないっていうからな」

「でも南稜の進学コースって偏差値高いで。今からでもちゃんと勉強せえへんと受からへんよ」

「それなんだけど…南稜行きたいって目標ができたら、やっと勉強できるようになったよ。学校行き出したばかりのころは、頭の中がグチャグチャでとても勉強なんか手につかなかったけれど」

「そりゃあんたにとって制服ないというのはええかもしれへんけど…制服ないのもええことばかりやないらしいよ。うちの一年上のお姉ちゃんは南稜行っとるけど、毎日服選ぶの大変やし、ファッションセンスがダサいとそれだけでいじめられるとか言うとったわ」

「南稜ほどの学校でも、いじめがあるなんて」

「そりゃいじめなんて、どんなええ学校行ったってあるよ」

 そこで玲花は、あらためて潮音の方を向き直すと、潮音の顔をまじまじと見つめながら言った。

「大切なんはどんな服着て学校行くかよりも、その学校行って何するかやろ」

 そして玲花は潮音の耳に顔を近づけると、他の生徒に聞かれないように小声でそっと潮音に耳打ちした。

「今日放課後時間あるなら、ちょっと私につきおうてみ」

 玲花からいきなりそのようなことを言われて、潮音は舞い上がりそうな気分になった。しかし玲花はそのような潮音の気持ちを知ってか知らずか、自席に戻って午後の授業の準備を始めた。


 放課後に玲花と一緒に学校を後にしたときには、潮音は胸の高鳴りが止まらなかった。ずっと憧れていた玲花と一緒に下校しているというだけで、潮音にとっては夢の中にいるような心地がした。

「尾上さん…どこに行くの」

「まあ黙ってついて来るとええよ」

 玲花が着いたのは、温水プールを併設した市営のスポーツセンターだった。そこで玲花はすぐに、潮音をプールのギャラリーに連れて行った。

「ちょっと見てみ」

 玲花は潮音に、ギャラリーからプールを見るように示してみせた。そこで潮音はガラス越しにプールに目を向けると、はっと息をついた。そこでは浩三が、一人で水泳の練習に取り組んでいたのだった。

「椎名君はね、学校のプールが使えへん間もずっとここに来てこうやって一生懸命練習しおるんよ」

 無駄のないフォームで悠然と力強く水をかいて泳ぐ浩三の姿、そしてそのプールの水面をじっと見据える真剣な目つきや鍛え上げたがっしりとした肉体を眺めているうちに、潮音は胸騒ぎを覚えていた。

「椎名君は口にこそあまり出さへんけど、やっぱり心の中では藤坂君のことが気になっとるみたいやね。だから水泳の練習に打ち込むことで、そのようなモヤモヤした思いを断ち切りたいんやないかな。これ見とったら、藤坂君かてそんなにクヨクヨしてばかりはおられへんやろ?」

 一人で水泳の練習に熱心に取り組む浩三の姿を眺めているうちに、潮音の心の中にプールで練習に取り組んでいた夏休みの記憶が蘇ってきて、熱いものがこみ上げるのを感じていた。

 そして潮音は、そこでふと口から言葉をもらしていた。

「オレも…泳ぎたい」

 その潮音の言葉を聞いたとき、玲花の表情に動揺の色が走った。

「ほんまにええの? そないするんやったら、あんたも女子の水着着いへんとあかんようになるんよ」

 その言葉を聞いて、潮音は一瞬言葉に窮した。もちろん、今の潮音にとって女子の水着を身にまとって泳ぐことに抵抗がないはずがない。しかし潮音は、今の自分に絶えずのしかかっている、うっとうしい気分を振り払うためには、自分も実際にプールで泳いで、水泳部にいたときの感触を取り戻すしかないと感じ始めていた。

 しばらくの間潮音の心の中でも、二つの相反する思いがせめぎ合っていた。そして潮音はやがてぐっと息を飲みこむと、決然とした表情で言い放った。

「それでもいいから」

 それでも玲花の表情からは、困惑の色が抜けなかった。

「そりゃ藤坂君が自分から何かしたいと言うてくれたんは嬉しいけど…あんまり無理せんといてよ」

 潮音が玲花と別れて自宅に戻った頃には、十二月の日は早くも暮れかけて辺りは薄暗くなりかけていた。潮音は家に入ると、さっそくプールで浩三の練習を見たこと、そして自分もプールで泳ぎたいと思ったことを則子と綾乃に話した。すると二人も潮音の言葉に一瞬目を丸くして驚きの表情を見せた。

「水着はどうするの?」

 則子の不安げな声を聞いても、潮音は自らの決意を覆そうとしなかった。

「そりゃ女子用着なきゃいけないけど…それでもいいんだ。失敗してもいいから、自分は何かやってみたいんだ」

 そこで則子と綾乃も、深くうなづいて潮音に声をかけた。

「わかったわ。水着のことは心配しなくていいから」

 翌日の夕方、則子はさっそくスポーツ用品店で女子用の競泳水着を買って家に戻ってきた。潮音は濃いブルーを基調にした、背中の大きく空いた競泳水着をいざ手に取ると、こんなに薄くて小さな生地の中に体が収まるのかと不思議でならなかった。しかし潮音は、ここまでくるともはや後には退けないと思って覚悟を決めた。
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