裸足の人魚

やわら碧水

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第一部

第二章・カミングアウト(その8)

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 そして二学期の終業式も目前に迫ったある日、放課後になると玲花はさっそく潮音のもとに来た。その傍らには優菜の姿もあった。

「優菜も来るんやて。優菜も水泳部で一緒やったし、藤坂君のことは心配みたいやしな」

「あの…私かて藤坂君にははよう元気になってほしいから」

 潮音を前にしてそのように言う優菜は、どこか面映そうな顔つきをしていた。

 そこで潮音が席を立とうとすると、玲花が声をかけた。

「待ちや。そんな制服で女子更衣室に入るわけにはいかんやろ。ジャージに着替えてきいや」

 潮音はそれもそうだと思って、控室で制服を脱ぎ、ナベシャツもスポーツブラに付け替えると学校指定のジャージを着た。

 そして潮音は、玲花や優菜と一緒にクリスマスソングが流れる、日も暮れかけた冬の街をスポーツセンターに向かった。潮音が女子更衣室に足を踏み入れるのにはやはり勇気を要したが、幸いシーズンオフということもあって、プールも空いていた。

 潮音はそそくさと玲花や優菜と離れたロッカーの前に行き、目を伏せてジャージを脱ぎだした。下着も全て脱いで、持ってきていた競泳水着を手に取ったときには、やはり心拍数が跳ね上がるのを感じた。潮音は雑念を断ち切るようにして水着に両足を通し、それを勢いよく引き上げると肩紐に両腕を通して着心地を整えた。

 あらためて競泳水着を身に着けてみると、潮音は薄くて弾力のある水着の生地に体を締め付けられる感触に戸惑いを覚えずにはいられなかった。競泳水着の背中が大きく空いていることも、潮音の胸をどぎまぎさせた。そのようにして潮音が気恥ずかしさで体をこわばらせていたとき、ロッカーの向こうから玲花の声がした。

「藤坂君どない? ちゃんと水着着られたん?」

 潮音が戸惑う間もなく、ロッカーの陰から姿を現した玲花と優菜も、早速水着に着替え終っていた。

 しかし玲花と優菜も、潮音の水着姿を見て思わず息をのんだ。潮音の両胸とヒップはふくよかな曲線を描き、均整の取れたプロポーションを示していた。そして水着から伸びたムダ毛のない両足も、贅肉がなくすらりと引き締まっていた。さらに、ボーイッシュなショートヘアの髪型は一見潮音の女性的なスタイルとミスマッチにも見えたが、それがかえって中性的で不思議な魅力をかもし出しているようにも見えた。

「藤坂君…けっこうきれいやん」

 玲花が驚きの声をあげて潮音の体のあちこちを見る一方で、優菜は複雑そうな表情を浮かべながら無言を貫いていた。潮音が気恥ずかしそうに肩をすくめて、身をかがめながらもじもじしていると、玲花が勢いよく潮音を叱咤した。

「藤坂君、恥ずかしがることないで。今まで水泳部で練習しおったんやろ? はよスイミングキャップかぶりいな」

 そこでようやく潮音は、ショートヘアの髪をまとめてその上にスイミングキャップをかぶった。そして潮音はためらいを断ち切ろうとするかのように、シャワーを浴びてプールに向かった。

 黄昏時のプールは、人気も少なく静かでがらんとしていた。潮音はプールの湿気を含んだ空気を吸い、両目にゴーグルを当てて揺れる水面を眺めると、水泳部で練習に明け暮れていたときのことを思い出して、いやおうなしに気分が高揚してくるのを覚えていた。軽く準備運動を済ませた後でプールに足を踏み入れると、潮音はプールの水が心の中のわだかまりを解きほぐしてくれるように感じた。そして潮音はそのまま何往復か泳いでみると、久しぶりに味わった「体を動かしている」という感覚に、なんともいえない心地よさを覚えていた。潮音はそのまま、一心に両腕で水をかいていた。

 もはや潮音の心の中からは、自分の体が女性に変ってしまったことも、今の自分が女子用の水着を着ているという現実も、すっかり消え失せていた。潮音が水の中で体をゆっくりターンさせてみると、潮音は体を締めつけていたナベシャツの圧迫感から解放されて、体が身軽で自由になったかのような感触を味わっていた。潮音は自分がここしばらくの鬱屈したような生活の中でため込んだストレスを、水の中で体を動かすことによってすっかり洗い流すことができたように感じて、自分の体まで軽くなったような心地がした。

 休憩時間になって潮音がプールから上がると、玲花と優菜が潮音を迎えた。プールに入る時こそいささか緊張気味に潮音のことを見ていた二人も、潮音がプールで泳いだ後に、ここしばらくはなかったような生き生きとした表情をしていることに、安堵の色を浮べていた。

 三人で並んでプールサイドに腰を下ろすと、潮音は水着姿の玲花と優菜に挟まれる形になったことにどきりとした。潮音が水着姿の玲花と並んで話をすることなど、水泳部に在籍していたころにすらなかったことだ。しかし玲花はそのような潮音の戸惑いなど素知らぬかのように、潮音に声をかけた。

「藤坂君…何か嬉しそうやん。それに…ここんところずっと張り詰めた表情しおったけど、やっと自然な顔できるようになったね」

 玲花に言われて、潮音は屈託のない表情で答えた。

「ああ…久しぶりにプールで泳げて気持ち良かったよ。こうなると自分がこうやって女子の水着着てることも気にならなくなったし」

 そう言って潮音は、気持ち良さそうに思いっきり伸びをした。

「ほんまのこと言うと私、今日はずっと心配やったんよ。女の子かて水泳の授業で水着になるのいややと言うとる子もけっこうおるのに、ましてもし藤坂君に何かあったらどないしようって」

 その玲花の言葉を聞いて、潮音は軽く顔を横に振った。

「…それは違うんだ。たしかにクラスのみんなも、オレに対して気を使ってくれているということはわかるよ。でもオレはただ、普通に学校行って、普通にみんなと接したい、ただそれだけなのに…。今日だって水着になることはたしかに不安だったよ。ほんとのこと言うと、今だって椎名やほかの水泳部の男子には、今のこの姿を見られたくないんだ。でも今日実際にプールで泳いでみてわかったんだ。自分が今までやってきたことに男も女もないって。そして傷つくことや失敗することを怖がってたら何もできやしないし、このまま自分の中にこもってたって何もならないって」

 そこで今まで黙っていた優菜も、意を決したように口を開いた。

「私…藤坂君のそういうまっすぐで一生懸命なとこは好きだったんよ。水泳部の練習かて頑張っとったし。でも今日来て良かったわ。藤坂君が水泳部におったころに戻れたな、いや藤坂君は女の子になってもやっぱり藤坂君のままなんやなって」

 そう言うときの優菜は、顔を赤らめてどこか照れくさそうな表情をしていた。それを聞いて玲花は勢いよく立ち上がると、潮音と優菜の肩を同時に抱きとめて二人を向き合わせた。

「おめでとう。やっと優菜も藤坂君に告白できたな」

「告白って…何だよ」

 呆気に取られている潮音を、玲花も呆れた表情で見ていた。

「ほんまに鈍感やな、藤坂君って」

 そこで潮音は、ますます顔を赤らめて黙りこくってしまった優菜をばつの悪そうな表情で見つめていた。

 その後もしばらくプールで泳いだ後、時間が来たので潮音たちはプールから上がり、帰宅することにした。冬の早い日はとっくに暮れて外は暗くなっており、明石海峡大橋のイルミネーションも闇夜にきらめいていた。

 潮音はシャワーを浴びようとすると、玲花はプールの塩素は髪を傷めるから、髪の手入れは念入りに行うように言った。潮音は更衣室に戻ると水着を脱いでタオルで体についた水をよく拭き、ジャージに着替えた。

 潮音が一通り身支度を済ませても、玲花や優菜は特に髪の手入れに手間取っていた。それを眺めながら、潮音はやはり女にとって髪は大切なものなんだなと今さらのように感じていたが、そこでやはり自分が髪を切ったのは正しい選択だったのだろうかと気になり出していた。

 しばらく待った後で潮音は、セーラー服に着替えを済ませた玲花や優菜と合流したが、玲花はそこでジャージ姿の潮音の姿をじっと眺めていた。

「藤坂君、胸はいつもつぶしとるんやろ? 今日はそうせえへんの?」

「いや…胸潰すのってけっこう苦しいからね。それにこのジャージだったら、胸潰さなくてもそんなに気にならないし」

「でも藤坂君って…女の子に見られるのがいややったんとちゃうの? さっきも女子の水着着てプールで楽しそうにしとったし」

 玲花にそう言われて、潮音も当惑していた。そのような潮音の様子をまじまじと見て、玲花はさらに言葉を継いだ。

「それやったらいっそ…藤坂君もいっぺんセーラー服着てみる?」

 その玲花の言葉には、潮音と優菜も呆気に取られた。

「藤坂君がこれからどこの高校行くかはわからへんけど、この先の入試のことも考えたら、いっぺん女子の制服着てみてもええと思うんや。…それに今の藤坂君やったら、こんなジャージやなくてもっとかわいい服着て、髪かてちゃんとセットしたら、絶対かわいくなれると思うよ。もちろんこれは藤坂君本人が決めることで、藤坂君がどうしてもいややと言うんなら、私ももう何も言わへんから」

 潮音はしばらく黙ったまま、玲花の顔をまじまじと眺めていた。しかしここで潮音は玲花のセーラー服姿と、今のジャージを着ている自分の姿を見比べると、なぜか自分は玲花に対して気後れを感じずにはいられなかった。

「でも…この髪じゃ変じゃないかな」

「そんなことないって。女の子かて運動部に入ってる子なんかは、これくらい髪の毛短くしとる子もおるよ」

 潮音は気恥ずかしそうに、振り絞るようにして声を出した。

「ちょっと…着てみるだけなら…」

 優菜もその言葉に驚いていた。しかし玲花は、その潮音の言葉を聞いて念を押した。

「…ほんまにええんやな。着てから後悔しても私は責任取れへんで」

 潮音は立ちすくんだまま、黙ってうなづいた。

 潮音はスポーツセンターを後にして、クリスマスイルミネーションのきらめく冬の夜道を帰途につく間も、自分がついさっきまで水着姿で玲花と一緒にプールで泳いでいたことなど信じられない思いがした。しかしその一方で、優菜も潮音にひそかに想いをよせていたと告げられると、やはり優菜の口数が少ないながらも、戸惑いを抱えたような表情が脳裏から離れず、いささかの気後れを感じずにはいられなかった。そう感じると、まばゆく光る街のクリスマスイルミネーションに目を向けても、それがかえって冬の夜空の暗さや北風の冷たさを際立たせるようにすら思われた。今の潮音にとっては、冬の夜の寒さがいつもよりもひときわ身にしみるように感じられた。

 潮音が家に帰ると、綾乃と則子が心配そうな面持ちで待っていた。二人は潮音がジャージ姿のまま帰ってきたことに目を丸くしていた。

「ほんとに…大丈夫だったの?」

 則子が心配そうにたずねても、潮音はつれない表情でそのまま洗濯機に向かった。

「今までと同じようにプールに行ってひと泳ぎしてきた、たったそれだけの話だろ。なんでそれで大騒ぎする必要があるんだよ」

 潮音が思いのほか元気そうな表情をしているのを見て、則子と綾乃は少し戸惑いながらもほっとした表情をしていた。

 潮音はまだ湿っていた水着を洗濯機に入れると、スイッチを押した。潮音は洗濯機の中で濃いブルーの競泳水着が回るのを見つめながら、さっきまでこの水着を着てプールで泳いだときの感触を思い出していた。そしてさらに、洗面所の鏡にジャージを着た自分の姿が映ると、潮音は玲花のセーラー服姿を思い出して、自分はあのとき本当にセーラー服を「着たい」と思っていたのかもしれないと思っていた。潮音は自分が今まで知らなかった世界の扉を開けようとしているということをひしひしと感じて、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
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