裸足の人魚

やわら碧水

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第四部

第三章・くるみ割り人形(その4)

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 やがて上演開始の時間が来ると、会場の照明が暗くなって序曲が鳴り始めるとともに客席も静まり返り、場の雰囲気は否応なしに高まっていった。そして幕が上がると、舞台の上では行進曲の軽快な旋律に合わせて、クリスマスツリーを中心に華やかなパーティーが行われる様子をバレエ教室の生徒たちが軽やかなステップを踏みながら演じ始めた。その舞台の中心にいたのは、純白を基調にした華麗なチュチュを身にまとい、クララの役を演じる紫だった。

 潮音はどうしても、紫の演技から目を離すことができなかった。舞台の中心で華麗に舞う紫の姿は、色とりどりの衣裳をまとってのびのびと踊るダンサーたちの中でもひときわ際立って見えた。潮音は今でこそ紫は楽しそうに生き生きと舞台の上で踊っているものの、このようになるまでにはどれだけの努力と苦労を積み上げてきたかということをひしひしと感じていた。潮音の隣の席に腰を下していた昇も、紫たちの演技に見入っているようだった。

 潮音はここで、小学生のときに流風が出演した発表会を見に行ったときのことを思い出していた。そのときの潮音は、可憐な衣裳でバレエを演じる流風の姿だけでなく、舞台全体のきらびやかな雰囲気に圧倒されていた。そして潮音はその日帰宅するとすぐに、自分も流風と一緒にバレエを習いたいと則子にせがんだ。潮音は幼い日に自分をとりこにしたのと同じ感動があらためて心の中に蘇るのを感じて、自然と胸が熱くなっていった。

 バレエ教室の森末先生は、教室に通う男子が少なかったこともあって潮音をかわいがってくれたが、潮音はそこで初めて紫と出会った。潮音は紫と小学校の学区が違っていたので、顔を合わせるのはバレエ教室の中だけだったが、その頃から紫は教室に通っている子どもたちの誰よりも練習は熱心に行っていたし、その実力は教室に通う少女たちの中でも抜きんでていた。

 潮音ははっきりと感じていた。自分は小学生のときから紫に対して強い憧れを抱いていたということに。そして潮音は今この場で、紫が華麗でしなやかにバレエを演じている姿を目の当りにして、自分自身が男から女になったことで、その紫に対する憧れの念がますます高まっていったことをしっかりと自覚していた。潮音は心の中で、少しでも紫に近づきたい、せめてエキストラでもいいから華麗な衣裳を身にまとって紫とともに舞台の上に立ちたい、今のままじっとしているわけにはいかないという強い確かな感情が、炎のようにメラメラと燃え上がるのを感じずにはいられなかった。

 潮音が舞台の上でダンサーたちが繰り広げる華麗な美の饗宴に酔いしれているうちに、舞台は第一幕も終りに近づき、紫の演じるクララが、渉の演じるくるみ割り人形の変身した王子と共に踊るシーンになっていた。潮音は小学生のときから渉に先輩としてバレエを指導してもらっていたとはいえ、いざこうして渉が紫と一緒に舞台の上でぴったりと息の合った演技を堂々と繰り広げるのを目の当りにすると、いささか心の中にざわつきを覚えずにはいられなかった。

 第一幕の最後を飾るのは、雪のワルツだった。そこには紫の双子の妹の萌葱と浅葱も純白のチュチュをまとった雪の精として登場し、紫や渉と一緒に軽やかな演技を見せていた。

 やがて舞台は第一幕の余韻も冷めやらぬうちに第二幕へと移り、スペインやアラビア、中国やロシア、フランスの踊りを色とりどりの衣裳を身にまとったダンサーたちが踊るのに続いて、優美な花のワルツが繰り広げられた。

 そして舞台はいよいよクライマックスともいうべき、王子と金平糖の精とのグラン・パ・ド・ドゥにさしかかった。「くるみ割り人形」は演出によって、クララと金平糖の精を別のダンサーが演じるものもあるが、この舞台では紫の演じるクララが金平糖の精になって王子と共に踊る演出になっていた。

 潮音は固唾を飲んで舞台を見守ったが、紫は渉と共に繊細で華麗なグラン・パ・ド・ドゥを演じきった。しかしそこで潮音は、内心でふと思っていた。

――オレがもし男のままで、しかもバレエを続けていたら、今紫と一緒にこのグラン・パ・ド・ドゥを舞っているのはオレだったかな…。

 しかし潮音はそこですぐに、自分にはそこまでのバレエの実力などないと思い直すとともに、なぜほんの一瞬といえどもそのようなことを思ったのだろうと気恥ずかしい気分になった。

 舞台は夢から覚めた紫の演じるクララが、くるみ割り人形を手にしながら夢の余韻に浸っているところで大団円になったが、潮音にとってもこのバレエを見ていた時間は、あたかも夢を見ていたか、あるいは魔法にでもかけられたかのようだった。潮音は幕が下りても、しばらくの間その夢や魔法から覚められないかのような心地がした。

 しばらくして再び幕が上がると、出演したバレエ教室の生徒たちが舞台の上に一同に集まって、舞台挨拶が行われた。紫と渉が舞台の上に現れて観客に手を振ったときには、観客席から上がる拍手のトーンがひときわ高まった。

 やがて舞台挨拶が終って完全に幕が下り、観客たちが席を立って帰宅の準備を始めてからも、潮音はしばらくぼんやりとしていた。潮音はあらためて、バレエはそれだけ人の心に訴える力があるものだということをあらためて感じて、自分自身がバレエの世界の片隅に身を置いていることに対して、身が引き締まるような思いがした。潮音は隣の席にいた昇からそっと声をかけられて、ようやく我に返ると帰り支度を始めた。

 潮音と昇が観客でざわついている公民館のホールに出ると、背後から潮音を呼びとめる声がした。潮音はいやな予感がして背後を振向くと、そこに並んで立っていたのは、吹屋光瑠と長束恭子の二人だった。潮音がぎくりとする間もなく、恭子は潮音の隣に昇が一緒にいるのを見てにんまりとした表情をした。

「藤坂さんの隣におるのは、文化祭にも来とった彼氏やん。いくらクリスマスイブやからといって、彼氏を連れてくるとは潮音もなかなか大胆やな」

 そこで潮音は、むっとしながら恭子に言葉を返した。

「恭子こそどうしてここにいるんだよ。光瑠まで一緒になって」

 それに対して恭子はあっけらかんとした表情で答えた。

「そりゃ紫の晴れ舞台なんやから、見に行くの当然やろ。光瑠も誘ったんやけど、やっぱり紫の演技はすごかったわあ」

 恭子の隣にいた光瑠も、紫の演技に感動したのは同じようだった。

「私も恭子に誘われて来てみたけど、紫はここまでできるようになるまでにどれだけ練習したのかしら」

 しかし潮音はここで、恭子がのぼせたような表情をしているのを見てげんなりとした。

「恭子ってやっぱり紫にほれ込んでるよな」

「悪い? 高校生であれだけ演技できるなんてすごいよ。それだけやなくて勉強も生徒会活動もちゃんとやるんやから、ほんまあの子は天才やで」

  昇も傍らで、潮音と恭子のやりとりを呆れたような表情で眺めていた。そこで光瑠が、すっかり舞い上がっている恭子を横目に潮音にたずねた。

「で、藤坂さんはこれからどうするの? あたしたちは一緒にちょっと喫茶店にでも寄ってから帰ろうかと言ってたんだけど」

 そこで恭子は、皮肉混じりの口調で言った。

「せっかく潮音は彼氏と一緒におるんやから、うちらも邪魔せんようにそろそろ帰ろか。どうぞ二人で楽しいクリスマスを過ごしてきいや」

「恭子もあまり悪態をつくのはよした方がいいよ」

 光瑠にたしなめられながら、恭子は公民館を後にした。その二人の後姿を眺めながら、潮音と昇はやれやれとでも言いたげな顔つきでため息をついていた。

 ようやく潮音と昇が並んで公民館を出ると、外は六甲山から吹き下ろす木枯らしが舞っていた。そこで昇もちらりと潮音の方を向き直すと、あらためて口を開いた。

「さっきの子たちは藤坂さんの学校の友達だね。ずいぶん仲良さそうじゃん」

 昇の無邪気な様子には、潮音も困ったような顔をした。

「あの…さっきの見ててほんとに『仲がいい』って思うわけ?」

「仲が悪かったら、さっきみたいな話はしないよ。でもあのバレエはすごかったね…感動したよ。僕は今までバレエとか全然見たことなくて何も知らなかったけど、ここまで演技ができるなんて。それに流れていた音楽は僕の知ってる曲もいくつかあったし」

 潮音は劇中で流れる行進曲や花のワルツは、バレエを離れた街中でも耳にすることの多いメロディだということを知っていたので、昇の言葉を聞いて少しほくそ笑んだ。

「これで湯川君も、もっとバレエに興味を持ってくれると嬉しいな」

 潮音は口先ではそう答えながら、自分自身昇に対して柄でもないことを口にしていると思っていた。

「でも藤坂さんもバレエの教室に通ってるんでしょ? 藤坂さんは出演しなかったの」

 昇が怪訝そうな顔をすると、潮音はますます気恥ずかしい思いがした。

「いや、私なんて高校入ってあの峰山さんともう一度会ったのを機にバレエの練習をもう一度始めたばかりで、私の実力なんてまだまだ全然足りないから…。せめて自分もエキストラでいいから、舞台に上がれるようになるといいのだけどね」

「そんなに引け目を感じることなんかないのに。…でもこうやって外で立ち話してるのも寒いから、一緒にどこかの喫茶店にでも寄って休んでいこうか」

 潮音はその昇の言葉を聞いて心拍数が跳ね上がるのを感じたが、今日はクリスマスイブなのだから、もう少し昇と一緒にいたいと思っていた。
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