裸足の人魚

やわら碧水

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第四部

第五章・百人一首大会(その3)

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 潮音は琴絵と話してから、ようやく気を取り直して百人一首の解説書に向き合うようになった。潮音は詰め込み勉強など百害あって一利なしで、まずは歌の世界に親しむのが一番という琴絵のアドバイスに従うと、以前に比べたら歌の内容も多少は理解できるようになったように感じていた。それよりも、琴絵をはじめとする中等部から百人一首大会に出場した生徒たちには、どうせ逆立ちしてもかないっこないのだから、自分のできる範囲で頑張ればいいと気持ちを入れ替えることで、潮音はかえって緊張感がやわらいで腰が据わったような気がした。

 そして百人一首大会が翌週に迫った昼休み、潮音は暁子や優菜と一緒に、校内のカフェテリアの一角のテーブルでおしゃべりをしていたときも、百人一首の解説書を手にしていた。

「寺島さんから聞いたんだ。百人一首には『むすめふさほせ』と呼ばれる、最初の一文字を聞いただけで取る札がわかる歌が七首あるから、それがねらい目だって」

 暁子は潮音が百人一首に乗り気になっているのを見て、ふと息をついた。

「あんたって興味を持った物事には、けっこう夢中になるタイプよね。今度の百人一首だって、中学までそういうのには全然興味なさそうだったのに」

 そこで潮音は照れくさそうな顔をした。

「キャサリンと話してると、自分が日本について全然知らなかったことが恥ずかしくなったからね」

「そういうくそ真面目なところが、あんたのいいところだけどね。そうやって水泳もバレエも頑張ってきたのはえらいけど、あまり無茶しすぎない方がいいよ」

 暁子が少し心配そうな顔をしていると、潮音はそれに答えて言った。

「もともとそのつもりだよ。寺島さんとかにかないっこないなんて最初からわかってる。でも出る以上は、やれるだけのことをしないとね」

 そこで優菜が口を開いた。

「潮音たちの桜組は寺島さんがおるけど、うちらの楓組かて榎並さんなんかは負けてられへんと乗り気になって、百人一首の本を読んどるわ」

 潮音は優菜の話を聞いて、やれやれと思いたくなった。

「榎並さんってうちのクラスの峰山さんに変に対抗意識持ってるからな」

「うちの楓組でけっこう百人一首がうまいのは、柚木芽実ゆのきめぐみという書道部におる子やな。去年の中等部も寺島さんには決勝の惜しいところで負けたけど、けっこうええ勝負したみたいよ」

 潮音はその「柚木芽実」という名前を覚えておくことにした。それでも潮音は、愛里紗が楓組の代表として大会にやる気満々なことを意外に思っていた。

「でも榎並さんは理系目指してるんだろ。ま、榎並さんだったらそういうのには理系文系関係なく燃えそうだけど」

 しかしそこで、優菜は少し声のトーンを落としながら言った。

「そこなんやけどな。榎並さんは医者になりたいって言うとるけど、医学部って入試も難しいし、入試受かったところで学費かて高いし、けっこう大変みたいやで」

 潮音は愛里紗の家庭の事情を知っているだけに、愛里紗の心中を思うと自分も胸が痛んだ。そこで潮音は、先日琴絵から言われた言葉をあらためて思い出していた。

――悩みなんか誰にだってあるよ。

 そこで潮音は、愛里紗をかばうように言った。

「榎並さんはあれだけ勉強頑張っていい成績取って、体操部だってやってるんだから、その気になったら何だってやれるよ」

「…それやったらええんやけどな」

 そう答えたときの優菜の表情は、どこか気づまりな様子だった。

 そこで潮音が周囲を見回すと、カフェテリアの一角で二年生の椿絵里香が中等部の生徒たちに囲まれて話をしていた。中等部の生徒たちは皆絵里香に憧れのまなざしを向けており、絵里香は中等部の生徒たちからも人望を集めていることがはっきりと見てとれた。その中等部の生徒たちの中には、松崎香澄の姿もあった。

 そこで絵里香も、潮音たちの視線に気がついて潮音の方に顔を向けた。絵里香を囲んでいた、香澄をはじめとする中等部の生徒たちの中にも、潮音に視線を向ける者がいた。体育祭や文化祭で表に立って活動したことで、中等部の間でも潮音の名は知られているようだった。

 潮音が少し気まずそうな顔をしていると、絵里香はにこやかな顔をしながら潮音の方に寄ってきて、潮音の顔と潮音が手にしている百人一首の解説書を交互に見比べた。

「その様子では、藤坂さんも百人一首大会に出るみたいね」

「え…はい。峰山さんから出てみないかと勧められまして」

 落ち着かなさそうにしている潮音を前にしても、絵里香の態度は取りすましていた。

「藤坂さんや峰山さんのいる一年桜組には、文芸部の寺島さんがいるのよね。寺島さんは去年中等部で一番になったけど、今回は高等部同士で手合わせするのが楽しみだわ。一年では楓組の柚木さんも有力らしいし」

 潮音も昨年の百人一首大会で、高等部で一位になったのは絵里香だという話は聞いていた。それだけに、潮音は絵里香と琴絵の対決がどうなるかと期待する向きもあった。

「私は百人一首大会に出るのは今年が最後だからね。悔いが残らないようにちゃんとやっておきたいの。でもうちの学校ってのん気なものよね。今度の土日は共通一次があるし、三年生が受験で大変な真っ最中に百人一首で盛り上がってるんだから」

 潮音はここで、現在高校二年生である絵里香が百人一首大会に出場するのも今年が最後だということにあらためて気がついた。すでに新年に入ってからは、三年生の姿を見かけることはほとんどなくなっていた。

 そのとき、香澄と中等部の生徒の何人かが潮音に向かって声をあげた。

「藤坂先輩は今度の百人一首大会に出場するのですか?」

 潮音はとっさの対応に困ってまごまごしていた。

「え、出てみないかとは言われてるけど、寺島さんとかに比べたらまだまだで、全然自信ないよ…」

 しかし香澄は、潮音のそのような顔を見ると少しむっとした顔をした。

「そんなこと言わないで、藤坂先輩も百人一首大会に出て下さいよ。先輩が出たら絶対盛り上がるから」

 香澄と一緒にいた中等部の生徒たちも皆、香澄に同感だと言わんばかりの表情で潮音に視線を向けていた。そこまで来ると、さすがに潮音も後には退けなくなった。

「わかった…わかったよ。百人一首大会には私も出るから」

 潮音が答えると、香澄は急ににこやかな顔になった。

「それでこそ藤坂先輩ですよ。当日は応援してますからね」

 香澄がそう言うと、中等部の生徒たちも皆歓声を上げた。果ては絵里香までもが、ニコニコしながら潮音の顔を見ていた。

「やっぱり藤坂さんは中等部の子にも人気があるのね。藤坂さんが出るなら、大会の当日が楽しみだわ」

 潮音は絵里香にまでこのように言われて、ますます困ったような表情をした。

 そうこうしているうちに昼休みの終りを告げる予鈴が鳴ったので、カフェテリアにたむろしていた生徒たちも教室に戻り始めた。教室に向かう途中で、暁子はニヤニヤしながら潮音の方に顔を向けた。

「あんたって中等部の子にもずいぶん人気あるじゃない。これで百人一首大会に出ないわけにはいかなくなったね」

「暁子までそんなこと言うのかよ。勘弁してくれ」

 しかしここで暁子は、あらためて潮音の顔をまじまじと見返した。

「あんたって中学のころはそんなじゃなかったよね。男の子だった頃より今の方が、女の子にもてるようになったんじゃないの?」

「何言ってるんだよ。暁子のバカ」

 暁子の冷やかすような口調を、潮音はその場で切り捨てた。優菜はその二人の隣を並んで歩きながら、やれやれとでも言いたげな困ったような表情をしていた。


 その日の放課後、潮音が暁子と一緒に帰宅の途につこうとすると、廊下に出たところで声をかけられた。潮音が声のする方を振り向いてみると、そこに立っていたのは榎並愛里紗だった。

「藤坂さんも百人一首大会に出るみたいね。頑張って歌を覚えようとしているって、紫から聞いてるわよ」

 そこで潮音は、愛里紗の隣に並んで立っていた生徒に目を向けた。彼女は潮音の方を向き直して口を開いた。

「あなたは桜組に高等部から入った子でしょ? 文化祭の劇にジュリエットの役で出たところを見たわよ。桜組には寺島さんがいるけど、今年こそ寺島さんに負けないように頑張るからね」

 そこで潮音は、彼女の顔を見つめ返した。

「もしかしてあんたが柚木芽実さんなの? 百人一首大会で寺島さんと去年もトップを争ったって話は聞いてるけど」

 潮音を前にしても、芽実は胸を張っていた。

「名前を覚えてもらっているとは光栄だわ。藤坂さんは百人一首はまだ初心者みたいだけど、全力でかかってくることね」

 そう言い残すなり、芽実は愛里紗と一緒にその場を後にした。その後姿を見送りながら、暁子はむっとした顔で言った。

「なんかやな感じの子よね」

 しかし潮音は、芽実の背筋もしゃんとして全体的に落ち着いた様子から、彼女はやはり百人一首もできそうだということを直感的に感じていた。潮音は松風女子学園に入学して以来、そこにいる生徒たちの凛とした気品のある雰囲気にどこかかなわないものを感じていたが、その雰囲気は芽実からも感じられた。潮音はこのままでは百人一首大会はどうなるのだろうと思うと、ますます気が重くなった。

――紫も光瑠も、琴絵も愛里紗も、それにさっきの子も、うちの学校にいる子たちはやはり何か違うよ。でもオレが男のままだったら、あの子たちを見てもやはりこのように感じていただろうか…。
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