裸足の人魚

やわら碧水

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第五部

第四章・北の国へ(その6)

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 バスが阿寒湖畔のホテルに着く頃には辺りは暗くなりかけていたが、まだ雨は降り続いていた。車窓には人家もほとんど見えない暗い樹海が延々と続いていただけに、ホテルの明かりを目にしたときは潮音もほっと息をついたものの、バスを降りた生徒たちは皆、六月とは思えないような肌寒さに思わず息をつかされた。

 ホテルのロビーでご当地キャラのマスコットと一緒に記念撮影をする生徒もいたが、潮音はホテルの客室に荷物を置くと、客室の窓からも山に囲まれて静まり返った阿寒湖が雨に煙り、夕闇に沈んでいる風景が一望できるのに思わず目を奪われた。しかし暁子と優菜は、ホテルに着いてからも心配そうな表情を崩さなかった。

「今日はかなり移動したからちょっと疲れたよね。潮音も調子悪いんだったら、何べんも言うけど今日は早く寝た方がいいよ。あたしたちも静かにしとくから」

 潮音はここに来てまで、暁子や優菜に無用の心配をさせたくないと思って、手を横に振って二人の不安を打消そうとした。

「いや…ほんとに大丈夫だから。暁子や優菜こそ気にしないでよ」

 そして潮音は暁子や優菜と一緒に、温泉になっている浴場に向かった。潮音が体を洗って髪をタオルでまとめ、温泉の湯に浸かって湯舟の中で体をリラックスさせると、ようやく旅の疲れをほぐせそうな気がした。暁子と優菜も、温泉にはご満悦のようだった。

「こうしてるとみんなで、アッコの実家のある島に行ったときのこと思い出すよね」

 優菜にとっては、中学を卒業するときに潮音や暁子と一緒に瀬戸内海の島にある暁子の実家を訪ねたときのことが忘れられないようだった。そこで暁子も潮音の顔を見返した。

「なんか不思議な気がするよね。こうやって高校生になっても潮音と一緒に修学旅行に行くなんて」

「ああ…そうだよね。暁子とは腐れ縁なのかもしれないな」

「せっかくあたしや優菜があんたのこと心配してるのにそんなこと言うなんて」

 暁子はむっとしたが、優菜は潮音の様子を見てむしろ安心したようだった。

「でもええやん。潮音はさっきの釧路湿原ではなんか調子悪そうやったけど、今こうして温泉に入って少しは元気を取り戻したみたいやし…これからもあたしら三人でこうやって一緒に遊んだり旅行したりできたらええのにな」

「私たちは高校卒業したらそれぞれ別の大学行くかもしれないけど…それでもいつまでも一緒に遊べたらいいのにね」

 そう言って潮音が浴槽に浸かりながら天井を見上げると、暁子が口をはさんだ。

「あたしたちは将来一緒にいられるかなんて気にしたってしょうがないから、今一緒にいられることを楽しめばいいじゃん」

 その暁子の元気な言葉に、潮音は浴槽の中でうなづいた。


 潮音が暁子や優菜と一緒に温泉から上がると、その日の夕食はジンギスカンだった。特に食べ物に目がない美鈴はラム肉が焼かれるのを目を輝かせながら眺めていたが、潮音も旅の腹ごしらえができたことに満足した。

 そこで潮音は、焼けたラム肉を箸でつついているキャサリンに尋ねた。

「この旅行は楽しいかい」

 するとキャサリンは満面の笑みで答えた。

「はい。すごく楽しいです。北海道の景色は畑や牧場が多くて、むしろヨーロッパに似てますね。私のイメージしていた日本とはちょっと違いますが、それだけに日本のことをもっと知ることができたような気がします」

 そこでそばにいた光瑠が、キャサリンに声をかけた。

「だったら今度は沖縄に行ってみる? 私は去年の夏に沖縄に行ってスキューバダイビングをやったけど、沖縄では北海道ともまた違う日本が見られるかもよ」

 その光瑠の言葉に、キャサリンは笑顔で大きくうなづいた。潮音は光瑠の今の屈託のない明るい表情を見ながら、光瑠は今晩も紫と麻雀をするのだろうかといぶかしんでいた。

 その日は暁子や優菜も潮音に、早く就寝するように言った。潮音は暁子と優菜に心配しなくてもいいとは言ったものの、その二人の言に従ってゲームも早目に切り上げて床に就くことにした。

 潮音が就寝する前に歯を磨こうとして洗面所に向かうと、真桜もついて行った。

「国岡さんももう寝るんだ」

「私もちょっと疲れたし、それに私だって真夜中まで騒ぐのは苦手ですから。明日の朝も早いですし」

 そこで潮音は、思い切って真桜に尋ねてみた。

「国岡さんは今日見た景色をどう思った? すごく熱心にスケッチしたけれども」

「すごかったですね。感動しました。今度絵を描くときの参考になりそうです」

「やっぱり国岡さんと私とでは、景色を見ても感じ方とか違うのかな…」

 そこで真桜はきょとんとしながら、潮音の顔を見返した。

「景色の見方が人によってみんな違うなんて、そんなの当り前じゃないですか」

「…そうだよね。今私たちが泊まっているこのホテルだって、そこから一歩外に出たらしんとしてて真っ暗じゃん。私みたいに都会に住んでたら夜も明かりがついているのは当り前だと思ってしまうから、こういうのはどうも慣れなくてさ…」

 そう言って潮音が窓の外に目を向けると、闇に閉ざされた阿寒湖の湖面に小降りになった雨が静かに降り注ぎ、空には星も見えず辺りには水蒸気が立ち込めているように見えた。暗い窓の外を見つめながら真桜も答えた。

「私もちっちゃな頃に親と一緒に山にキャンプに行ったとき、辺りが真っ暗で怖いと感じました。しかしそこで親が空を見上げるように言うと、そこには一面の星空が見えました。夜や闇が暗くて怖いという気持ちがあるからこそ、そしてその夜の闇の中でこそ見えるものだってあるのかもしれませんね。今だって空が晴れていたら星空がすごくきれいに見えそうだけど」

 その真桜の言葉を聞いて、潮音はふと息をつかされた。自分は本当に、「夜の闇」――つまり心の中の恐れや不安と向き合う勇気があっただろうかと潮音は自問せずにはいられなかった。

「国岡さんって、ちょっと不思議なものの見方をするんだね。実を言うと私は、国岡さんの周りに流されずに、ちゃんと自分の考えを持って行動しているところは偉いって思ってた。だから国岡さんとはもっと仲良くなれそうな気がするんだ」

 潮音のこの言葉を聞いて、真桜は当惑したような顔をした。

「そんな…私はみんなとつき合うのが苦手で、クラスの中でもいつも浮いていたのに」

「ともかく真桜はもっと自分に自信持った方がいいよ。あんなに絵だってうまいのに」

 潮音に言われて、真桜はますます恥ずかしそうに口をつぐんだ。そして潮音と真桜は、トランプに興じている暁子たちを横目に部屋の隅の方に布団を敷いて床についた。


 修学旅行の三日目の朝が明けると、夜中まで降っていた雨も上がって、阿寒湖の湖面を朝の澄んだ光が照らしていた。むしろ雨が空気の中のちりを洗い流して風景がより鮮明に見え、かすかに残った雨の匂いのために空気がよりしっとりしているように感じられた。

 この日は朝方に阿寒湖の遊覧船に乗った後で、リゾート地として知られるトマムに移動してグループごとに分かれて行動する予定になっていた。グループ行動では牧場体験やハンドメイド体験を行うグループもあったが、潮音たちのグループは川でラフティングを行う予定になっていた。それだけに朝になって天候が回復したことに潮音も安堵していた。

 潮音が阿寒湖の遊覧船に乗り込むと、湖面を渡る朝の清新な風に心地良さを感じずにはいられなかった。やがて遊覧船が港を離れると、澄んだ湖面に写る緑豊かな原生林や、湖のほとりにそびえる雄阿寒岳の堂々たる山容も潮音たちの目を楽しませた。遊覧船が岸と湖面に浮いた島との間を抜けるときや、滝口と呼ばれる湖が狭まり川が流れ出している地点まで船が入り込んだときには潮音もスリルを感じた。



 潮音は紫が遊覧船のデッキからじっと湖面を眺めていたので、思わず声をかけていた。

「湖の景色…すごくきれいだよね」

 そこで紫は潮音に答えた。

「神戸は今は梅雨で蒸し暑い季節だけど、ここは涼しくて空気も爽やかでいいよね。あとここは秋の紅葉もすごくきれいみたいね。この季節にもいっぺん行ってみたいな」

 潮音はそれを聞いて、紫だったら紅葉の季節にここを訪れてもさまになりそうだと感じていた。そして紫は空を飛ぶ鳥のさえずりを耳にすると、鳥の方を見上げながら言った。

「琴絵は楓組でB班になったけど、琴絵がいたら鳥のこととかもいろいろ教えてもらえそうなのにね」

 潮音は琴絵の趣味がバードウォッチングだったことを思い出すと、紫の言葉に同感だとばかりにしばらく二人で遊覧船のデッキから揺れる湖面を眺めていた。すると美鈴が二人に声をかけた。

「二人とも仲良さそうやな。なんやったら写真撮ったろか」

 潮音と紫はその美鈴の言に従い、それぞれスマホを手渡してツーショットの写真を撮ってもらった。

 やがて遊覧船は静かな湖面を抜けて、湖の北部にあるチュウルイ島という小さな島に着いた。この島には阿寒湖の名物であるマリモを展示している博物館があり、水槽の中の丸々としたマリモの姿を目の当りにしたときには生徒たちも思わず顔をほころばせていた。

 遊覧船がチュウルイ島を後にして港に戻ると、マリモをかたどったマスコットを売店で買い求める生徒もいた。それから一行は阿寒湖を後にし、次にグループ活動を行うトマムに向かった。
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