裸足の人魚

やわら碧水

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第五部

第五章・最後の夏(その5)

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 潮音は剣道の大会から帰宅してからも、あの後に千晶と香澄がどのような会話を交わしたかがずっと気がかりでならなかった。潮音は香澄が千晶に包み隠さずに本心を打ち明けて、千晶もそれを真正面から受け入れてくれたらと願っていた。

 剣道の大会からしばらく経って一学期の終業式の日になると、梅雨明けも宣言されて真っ青な夏空から強い日差しが降り注ぎ、公園の木立からはセミの鳴き声が聞こえてきた。終業式が終ると生徒たちはいよいよ夏休みというわけで皆満面に笑みを浮べていたが、潮音は千晶と香澄のことを思うと表情も晴れなかった。

 潮音の所属する梅組のホームルームが終って潮音が教室を後にすると、梅組の教室の前で紫が待っていた。

「潮音はやっぱり香澄のことが心配なんでしょ? だったら私も一緒に香澄のところまで行ってあげようか」

 潮音も紫の言葉にうなづくと、香澄に会うために紫と連れ立って中等部の校舎に向かおうとした。しかし校舎を出たところで、潮音と紫は千晶と香澄が連れだって中庭を歩いているのを目にした。

 しかし何よりも潮音の心をとらえたのは、二人が屈託のない表情で談笑していたことだった。潮音は香澄に声をかけようとしたが、その前に千晶と香澄の方が潮音と紫に気がついていた。千晶は二人の姿を見るなり、手を振ってにこやかな顔で言った。

「峰山さんも藤坂さんも、この前の大会のときは応援に来てくれてありがとう」

 そのように潮音と紫にお礼を言ったときの千晶の表情は晴れやかで、剣道の試合に負けたことなど全然引きずっていないようだった。

 しかし潮音はむしろ、香澄の方が気になっていた。千晶も潮音の表情からその心中を読み取ったようで、あらためて潮音と紫に声をかけた。

「外で話すと暑いから、みんなでカフェテリアに行こうか」

 潮音たちが千晶に誘われてカフェテリアの席につくと、さっそく千晶は口を開いた。

「今年の夏も暑くなりそうね。外から涼しいカフェテリアに入るとほっとするよね。みんなも熱中症には気をつけてね」

 それからしばらくとりとめのない世間話をした後で、潮音は思い切って千晶に尋ねてみた。

「千晶先輩って、この前の剣道の大会についてどう思っていますか」

「南稜の須永さんは高校剣道の中では名が知られた選手だからね。あの子と手合わせできただけでも大したものよ。まして私が一本取れるなんて思わなかったし、それだけでも私が剣道をやってきたことに悔いはないよ。その分気持ちを切り替えて大学受験を頑張らなきゃいけないけどね」

 そう話すときの千晶は、すっきりした表情をしていた。そこで紫が千晶に尋ねた。

「千晶先輩だったら、成績もいいし生徒会長もやったし部活だって頑張ったから、推薦でいい大学だって行けるんじゃないですか?」

「まだわかんないよ。とりあえずまだ気は抜けないね。それに推薦で大学行ったら、その分大学でもしっかり勉強しないといけないからね」

「すごいですね…千晶先輩は大学に入った後のことまでしっかり考えているのだから。私なんて目の前の課題をこなすだけで必死なのに」

 潮音が千晶をあらためて見返すと、千晶は潮音にそっと声をかけた。

「藤坂さんもそんなに思いつめることないよ。もっと落ち着いて、自分のやりたいことを見つければいいから」

「先輩は大学でも剣道を続けるのですか?」

「できたらそうしたいけどね」

 千晶がそう話したとき、香澄は不安そうな顔をしていた。千晶が高校を卒業して自分と別れることに香澄は不安を抱いているのかもしれないと潮音は思ったが、そこで潮音はあらためて千晶に尋ねた。

「あの試合の後…先輩や香澄はどうしたのですか」

「あの後は部員のみんなとミーティングをやった後で家に帰ったんだけどね。家に帰るなりこの子がいきなり私に飛びついて来てわんわん泣きじゃくってさ。『お姉ちゃん…ごめんなさい。お姉ちゃんが厳しい覚悟でずっと剣道に取り組んできたのに、そのことを全然わかっていなくて』と言ってさ」

 千晶が落ち着いた口調で話す傍らで、香澄は気恥ずかしそうな顔をしていた。そこで潮音は千晶に尋ねた。

「それで先輩はどうしたんですか?」

「そのままこの子を抱きとめて、思いきり泣かせてやったよ。そのうちに泣き疲れて寝ちゃったから、部屋まで運んで寝かせてやったけど」

 潮音と紫は香澄も思いきり泣くことでかえってふっ切れたのかもしれないと思って、安堵の表情を浮べて香澄の方を見た。潮音と紫に視線を向けられると、香澄はますます当惑したような顔をした。

「もう…。お姉ちゃんも余計なことばかり言わないでよ」

 それでも千晶は、コーヒーを飲みながら落ち着いた表情を崩そうとしなかった。

「それでこの前の日曜は、香澄が私のためにケーキを焼いてくれたの。『お姉ちゃんありがとう。剣道部お疲れ様』というカードを添えてね」

 そして千晶は、香澄が焼いたケーキとそれに添えられたカードの写真をスマホで示してみせた。そのケーキはかわいらしい外観で、千晶と香澄の二人がケーキを味わっているところを想像して潮音はほっと息をついた。そこで千晶は、香澄の方をちらりと見ながら再び口を開いた。

「いや、私の方こそ香澄のことを全然考えていなかったのかもね。私は高等部に入ってから勉強に剣道部に生徒会といろいろ忙しかったけれど、それでこの子に構ってやる余裕なんかなかったし。香澄はうちの学校の中等部に入ってからはみんなとも仲良くやってるようだったからあまり心配はしていなかったんだけど、もっとこの子の気持ちをちゃんと考えてやるべきだったって反省してるの」

「だからお姉ちゃんも私のことだったらそんなに気にしなくていいよ。お姉ちゃんはこれから大学の受験だってあるのに」

 香澄は千晶が話している間も、ずっと居心地の悪そうな顔をしたままだった。

「だからね、私はこの夏休みの間にこの子と一緒にテーマパークにでも行こうと思ってるの」

 千晶がこう話す傍らで香澄は照れくさそうな顔をしていたが、むしろその千晶の言葉には潮音と紫の方が驚いていた。

「千晶先輩…ほんとに大丈夫なんですか。受験生なのに」

 その潮音の言葉を聞いても、千晶は落着き払った態度を崩そうとしなかった。

「一日遊んだ程度で大学に落ちるようじゃ、ちょっとやそっと勉強したところで大学なんか受からないよ」

「うちのお姉ちゃんは勉強も剣道も、遊びに行ったらその分他の日に一生懸命やるタイプなんです」

「香澄もお姉ちゃんと一緒にテーマパークに行って楽しかったらいいのにね」

 紫に言われると、香澄はかすかに笑みを浮べてみせた。そのような香澄の表情を見て、千晶と香澄はいろいろと心中にわだかまりを抱えてはいても、根は仲のいい姉妹なのだなと思って内心でほっとしていた。

 そのとき千晶の背後で、千晶を呼ぶ声がした。千晶が振り向くと、声の主は自らも剣道部に所属しているキャサリンだった。

「千晶先輩…ちょっと剣道部の部室の前まで来て下さいませんか? あ、香澄ちゃんも一緒に来て下さい」

 千晶と香澄はきょとんとしながらも、キャサリンと共に剣道部の部室まで行くことにした。潮音と紫もそれについて行った。

 千晶が剣道部の部室のあるクラブハウスの前まで来たとき、千晶は目を見張った。そこには大会を共に戦った剣道部の部員たちがみんな集まっていたのだった。部員たちは千晶の姿を見るなり、一同になって声を上げた。

「松崎先輩、今までお疲れさまでした。私たちを指導して下さり、本当にありがとうございます」

「南稜の須永さんとの勝負は、私たちも思わず見入ってしまいました」

 千晶が当惑していると、キャサリンも笑顔で千晶に声をかけた。

「これから私たち剣道部員一同で、松崎先輩をはじめとする三年の先輩をねぎらう会を開くことにしたのです」

 そして部員たちはキャサリンも混じって千晶の周りに集まると、一斉に千晶を胴上げした。はじめは戸惑っていた千晶も、やがて部員たちの気づかいを感じるうちに表情をほころばせていた。香澄も嬉しそうな顔で胴上げされる千晶を眺めていた。

 胴上げが終ると、千晶も感慨深げな顔で皆に言った。

「みんな…本当にありがとう。こんな素晴らしい部員たちと一緒になれて、私も今まで剣道を続けてきた甲斐があったわ」

 その千晶の言葉に、剣道部員たちは皆一同に拍手をした。香澄もそれを見て瞳を潤ませていたが、潮音と紫は剣道部員たちの邪魔をするのも悪いと思ってこのまま帰宅することにした。

 潮音は夏の陽射しが強く照らしつける通学路を歩きながら、隣を歩いていた紫に声をかけた。

「千晶先輩だけじゃなくて、香澄もふっ切れることができてよかったよ。香澄はずっと千晶先輩に憧れてその後を追いかけてきたのはわかるけど、そればっかりじゃなくて自分なりの目指す道を見つけられたらいいのにね」

「あの子だってあの子なりに頑張っているのはわかるよ」

「私だって姉ちゃんにはいつも世話になってばかりだから、姉ちゃんに何かしてやった方がいいかな…」

「そんなに変に気を使うことなんかないんじゃない? 潮音が元気でいろんなことを頑張ることこそ、お姉ちゃんにとって何よりも嬉しいことだと思うよ」

「紫だって萌葱と浅葱に、何かお姉ちゃんらしいことの一つでもしてやったらどうだよ」

「それなんだけどね…。萌葱も浅葱も今小六で、来年は中学入試なのに全然勉強しないで遊んでばかりいて困ってるよ」

 紫がため息をつくと、潮音はそれをなだめるように言った。

「私だって姉ちゃんに苦労や心配ばかりかけてきたからね。妹のことはもっといたわってやらなきゃ」

「千晶先輩を見てても思ったけど、お姉ちゃんって大変よ。私だって今年の夏休みは勉強とバレエを頑張らなきゃね」

「夏休みだっていうのに、紫は相変らず真面目だよね。一日くらい萌葱や浅葱と遊んだら、あの子たちだってふっ切れて勉強するかもしれないのに」

「そうだったらいいけどね」

 そう言って紫はあらためて息をつきながら、真っ青な夏空を見上げた。
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