裸足の人魚

やわら碧水

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第六部

第一章・潮音、アイドルになる(その4)

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 その次の日曜日、鴫沢しぎさわみなもは潮音のいとこの尾中真由美の家を訪ねていた。真由美は小さな頃からの知り合いで中学校でも同級生だったみなもが学校生活になじめず、高校は通信制を選択したことを気にして、高校に入学してからも交流を続けていたが、真由美も夏休みに潮音に会って以来みなもの様子に何かの変化が起きていることを感じていた。真由美は玄関口でみなもの顔を見るなり、いぶかしむような口調で尋ねた。

「どうしたの? みなもがこうしてあたしの家に来るのはいつものことだけど、今日のみなもは何かちょっと様子が変だけど」

 実際、その日のみなもは、いつもの明るく快活な様子と比べてどこか落着きがないように見えた。真由美はみなもをとりあえず自分の部屋に通すことにした。

 真由美の部屋に足を踏み入れても、みなもはきょろきょろと辺りを見回すのを止めようとしなかった。みなもは真由美の室内に女の子らしいグッズやアイテムも目立つことに対して、やはり何らかの気後れを感じているようだった。真由美はどこか居心地が悪そうにしているみなもの様子を見て、みなもが何を考えているのかをだいたい察していた。それでも真由美はなんとかしてみなもを落ち着かせてクッションの上に坐らせ、話を聞くことにした。

 みなもはまず、先日自分のSNSに潮音から連絡があって、潮音が間もなく行われる学園祭でアイドルのパフォーマンスを行うことを聞かされたと真由美に話した。潮音がかつては男の子だったことを知っている真由美は潮音がアイドルになるということを聞かされて意外そうな表情をしていたが、そのときのみなもはどこか浮かない顔をしていた。そこで真由美はみなもに尋ねてみた。

「みなもは潮音のことがそんなに気になるわけ?」

「ああ。潮音は昔男だったとか言ってるのに、男とか女とかそういうのもみんな飛び越えて自分の着たい服着たり、どんどんやりたいことやったりしてるのに、自分は何やってるんだろうって…。ぼくはぼくでいたい、誰からも縛られたくないってずっと思っていたのに、自分自身を縛りつけてるのはむしろ自分自身じゃないかって思ったから…」

 みなもが自信なさげに話すのを聞いて、真由美はみなもの不安を切り捨てるように勢いよく声をかけて、みなもに活を入れようとした。

「そんなことでクヨクヨ悩むなんて、みなもらしくないよ。みなもはみなもなんだから、自分の好きなかっこして、やりたいことをどんどんやればいいじゃない。他の人がどう思ってるかとか、何してるかなんて気にしないでさ」

 しかしその真由美の明るい態度を前にしても、みなもは迷いから抜けられないようだった。

「その『自分らしく』って何なんだよ。それがどういうことかわかんないから、今のぼくは悩んでるのに」

「あんた、この前の夏休みに潮音に言われたことが気になってるんでしょ」

 みなもが軽くうなづくと、真由美は勉強机の椅子から立ち上がって言った。

「そんなにウジウジしてたってしょうがないでしょ。じゃあそこまで言うなら、こないだ潮音が言ったみたいに、あんたもいっぺんスカートはいてみる? 今じゃ男だって、ちょっとおしゃれに敏感な人たちの中にはスカートはいてる人だっているよ」

 もし今までのみなもだったら、人からこのようなことを言われたらそれを直ちに断ったに違いない。しかし今日のみなもは、そのような真由美の態度を前にしても黙ったままだった。そのようなみなもの煮え切らない態度を前にして、真由美はきっぱりと言った。

「念のために言うけど、いやだったらいやだってはっきり言いな。そうやってグズグズしてるのが一番よくないよ」

 そう言うそばから真由美は、すでにクローゼットを開けてその中の服をいろいろ見返していた。みなもが不安げな顔をしながらそれを眺めていると、さっそく真由美はクローゼットの引き出しの中から一着の服を取り出した。真由美が観念したような顔をしているみなもの目の前に示してみせたのは、青くてシンプルな膝丈くらいまであるデニムのスカートだった。

「どうせみなものことだから、スカートっていうとフリフリしたかわいいものだと思ってたんでしょ。そりゃあたしだって、みなもがそんな服着たって似合わないと思うよ。でもこれだったらみなもがよくはいてるジーンズと同じようなものだと思えばいいし、ボーイッシュなトップスとも合わせやすいんじゃない?」

 真由美に言われても、みなもは手渡されたデニムのスカートを両手で広げながら考え込んでいた。そのようなみなもの様子をうかがいながら、真由美はじれったそうに声をかけた。

「どうする? 何度だって言うけど、決めるのはみなも自身だよ。みなもがどうしてもいやだって言うのなら、今すぐにそれをあたしに返しな」

 真由美に言われると、みなもは息を飲みこんでぼそりと口を開いた。

「ちょっと一人で考えさせてよ…まだ考えがまとまらないから」

 そこで真由美はふと息をつきながら答えた。

「わかったよ。あたしはちょっと別の部屋に行ってるから、その間に納得いくまでじっくり考えな。それにみなもがどの道を選んだとしても、あたしはその選択を尊重するし、みなものそばについていてあげるよ」

 そう言い残して真由美が自分の部屋を後にすると、真由美の部屋にはみなも一人だけが取り残された。そこでもみなもは、目の前にデニムスカートを広げてじゅうたんに置いたまま考え込んでいた。

 みなもは小さな頃から人形遊びなどをするよりも、スポーツなどを行って活発に遊ぶ方が好きな子どもだった。服だってスカートなどのかわいい感じの服よりも、活発に動けるボーイッシュな服装の方を好み、両親もそのようなみなもの性格を見ているうちに、自然とそのような服ばかりを買い与えるようになっていった。そのようなみなもにとって、ストリートダンスこそが打ち込める場になっていったのは当然の成り行きだった。

 しかしそのようなみなもにとって、小学校から中学校に上がる頃になって第二次性徴が始まり、自身も胸が大きくなって周囲の女子たちがブラジャーのことを話題にし始めるのを聞いたり、初潮を迎えたりしたときには、自分の信じていたものが足元から揺らぐような感覚を覚えずにはいられなかった。中学に入学して、学校の制服でスカートをはかなければならなくなったことも、みなものそのような心の動揺をますます増幅させた。そのようにしているうちにみなもは女子たちの間の雰囲気に乗れずに中学校でもますます周囲から孤立していき、教師に対しても反抗的な態度を取るようになって問題児扱いされ、もはや学校にみなもの居場所はなくなっていた。家が近くて幼少の頃から互いに知っている仲だった真由美は、みなものことを心配していたが。

 みなもが中学二年生のとき、生れたときの性別は女性だったけれどもそれに違和感を覚えて手術を受け、トランスジェンダーとして暮している人の手記を読んだときには、自分ももしかしたらそうなのではないかとすら思ったこともある。しかしみなもは、自分が体にメスを入れて胸を切除したり、男性ホルモンの影響で髭が伸びたりした姿を想像することがどうしてもできなかった。自分は男にも女にもなれない、自分の居場所がどこにもない、何が本当の自分の姿なのかすらわからない…そのような迷いが、ますますみなもを追いつめていった。

 結局みなもは高校は通信制の学校を選び、中学校の卒業式を終えた後で、もう制服でスカートをはかなくてもよくなったときには、ようやく心の中にのしかかっていたおもしが取れたような気分になった。それ以来およそ一年半もの間スカートを一度もはいたことなかったみなもの心の中に、再び波風が立つようになったのは、高校二年生のときの夏休みに潮音と出会ったからだった。

 潮音から自分が男から女に変ってしまったということを聞かされたときには、みなももショックを受けずにはいられなかった。しかしみなもは潮音が神戸の自宅に帰ってからもSNSで何度か会話を交わすたびに、女の子らしい服も受け入れて、男女の性別すらも意に介することなく生活している潮音のことがますます気にならずにはいられなかった。みなもの頭の中では、考えれば考えるほど気持ちがもつれた糸玉のようにからまっていくばかりだった。

 そこでみなもは、夏休みにお台場で潮音から言われた言葉を思い出していた。

――「ありのままの自分」であるってこと、そして「自分らしく生きる」ってことこそがね、本当は一番つらくて厳しい道なんだよ。

 しかし今のみなもは、その「ありのままの自分」や「自分らしく生きる」ということが何かすらわからずに、ただ立ちすくんでいるしかなかった。

 しばらく考え込んでいた後で、みなもはふと先ほどの真由美の言葉をふと思い出していた。

――みなもがどの道を選んだとしても、あたしはその選択を尊重するし、みなものそばについていてあげるよ。

 そのときみなもは、自分の心の中につかえていたものが取れたような気がした。みなもの心の中に、確かな思いが生れていた。

――どの道を選んだにしても、自分に楽な道なんかない。だったらここで立ち止まってグズグズしていないで、自分から何かするしかないんだ。

 みなもは腰を下していたじゅうたんからすっくと立ち上がると、軽く息を吸った。そしてみなもは自分がはいていたカーゴパンツを脱ぐと、デニムスカートに両足を通し、雑念を振り払うかのようにそれを一気に腰まで引き上げた。みなもはもともと夏の暑い季節にはショートパンツなどをはいていたし、脚を出すことに抵抗があるわけではなかった。

 みなもはデニムスカートをはき終えて身なりを整えると、あらためて大きく息をついた。みなもははじめこそスカートの裾の辺りを気にして、落ち着きなくその裾を直したりしていた。みなもにとって、中学校の卒業式以来久しぶりにはいたスカートの感触には、やはり落ち着かなさを感じずにはいられなかった。みなもは潮音が男から女になって、初めてスカートをはいたときにも、今の自分のような気分を味わったのだろうかとふと考えていた。

 真由美の部屋の壁には大きめの姿見がかかっていて、みなもの目にはそこに映る自分自身の姿がいやおうなしに入ってきた。みなもがあらためて自分の姿を姿見に映してみると、シンプルな青いデニムのスカートは、みなもの着ていたロゴの入ったラフなTシャツと合わせてみても違和感はなかった。みなもはあらためて、大きくため息をつかずにはいられなかった。

 ちょうどそのとき、ドアの向こうから真由美の心配そうな声がした。

「みなも…大丈夫? 少しは落ち着いた?」

 そこでみなもは控え面な口調で真由美に声をかけた。

「真由美…部屋に入ってきていいよ」

 真由美はドアを開けるなり、みなもがスカートをはいている姿を見て目を丸くした。しかしみなもは真由美が部屋に足を踏み入れるとすぐに、真由美の胸元に飛び込んでそのまま泣きじゃくっていた。真由美はそのまま、顔をとめどなく流れる涙で濡らしているみなもをそっと抱きとめてやった。

「みなも…あんたはよく頑張ったよ」

 みなもは真由美に声をかけられても、小刻みに肩を震わせながらしゃくり上げてくる嗚咽を抑えようとしていた。

「ごめん…ごめんね真由美。いつも真由美を心配させるようなことばかりして。それに真由美がそばについていなかったら、ぼくは一歩前に踏み出すことができなかったと思うから…」

「何言ってるのよ。あんたはあんたなんだから、あんたらしく自然にしてりゃいいって、何べんも言わせないでよ。もっと自分に自信を持ちなって」

 そう言いながら真由美は、みなもを優しげになだめていた。
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