裸足の人魚

やわら碧水

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第六部

第三章・暁子の春(その1)

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 スケートから帰ると、次の潮音の関心事は正月をどのように過ごすかということになった。

 潮音は年の始めに一時帰省した椎名浩三と一緒に初詣に行ったことを思い出して、今南稜高校の水泳部のマネージャーになっている尾上玲花に連絡を取ってみた。しかし玲花の返答は、新年は南稜高校の水泳部の強化選手のメンバーたちで一緒に初詣に行くから、浩三とはこの正月に出会えそうにないということだった。浩三はこの正月も自宅に帰省せずに水泳一本の冬休みを送るのかと思うと、中学生のときには自分と一緒に水泳の練習に打ち込んでいた浩三が自分からはるか遠いところに行ってしまったように感じていた。それと同時に、潮音は中学生のときに玲花にほのかな思いを寄せていたことを思い出して、胸の奥が甘酸っぱくなるような気がしていた。

 続いて潮音は、暁子に連絡を取ることにした。暁子の一家は毎年正月に瀬戸内海の島にある実家に帰省していたが、この年の正月は暁子の弟の栄介が高校受験を控えているため、帰省せずに自宅で新年を迎えることになっていた。そこで大晦日もいよいよ目前に迫った頃になって、暁子が潮音のSNSに連絡を入れた。

『潮音、お正月はどうする?』

『暁子は今年は帰省しないんだよな。島で採れるみかんを、うちにもちょっと分けてくれるのを毎年楽しみにしてたんだけど』

『みかんだったらおじいちゃんが一箱まるごと家に送ってくれたよ。潮音の家にも何個か分けてあげるね』

『それはどうもありがとう。ところで暁子は今回帰省しないとなると、お正月はどうするの?』

『それなんだけどね。せっかくお正月に潮音と一緒にいるんだから、元日は近所の神社に一緒に初詣に行かない? 良かったら優菜も誘ってさ』

『いいね。さっそく優菜にも連絡しなきゃ。栄介も高校受験とはいえ元日の一日くらい、一緒に初詣に行くことはできないの?』

『まあ無理じゃないとは思うけど…』

『あとうちの姉ちゃんも来年は就職活動だからな。志望先の会社から内定をもらえますようにとか言って、一緒に初詣についてくるかもしれないけど』

『それもいいじゃない。なんだかお正月が楽しみになってきたよ』

 そこまで話がふくらんだのを見て、潮音は来る正月もにぎやかなことになりそうだと期待していた。


 そして新年が明けると、空は青く澄みわたり窓の外には穏やかな冬の陽が降り注いでいた。潮音が家族と共におせち料理や雑煮を味わっていると、その席で父親の雄一が綾乃と潮音の双方の顔をしっかり見据えながらはっきりとした口調で言った。

「今年は綾乃が就職活動と卒論、潮音が大学受験とどちらにとっても大切な年になるからな。しっかり頑張るんだぞ」

 雄一の言葉に、綾乃と潮音はしっかりとうなづいたものの、内心では今年は大変な一年になりそうだぞと思ってげんなりしていた。母親の則子も、ニコニコしながらその二人を見守っていた。

 潮音たちがおせち料理や雑煮を食べ終ってゆっくりしていると、インターホンが鳴った。潮音が玄関に出てみると、そこには暁子と栄介、優菜の姿があった。

「潮音、明けましておめでとう」

「今年もよろしゅうな」

 暁子と優菜が元気な声で新年の挨拶をすると、則子がそれにはっきりと対応した。

「暁子ちゃんはお正月にはいつも島にある実家に家族で帰ってたけど、今年は栄介ちゃんが受験だからね」

「はい。でもたまには神戸で潮音や優菜と一緒にお正月を過ごすのも悪くないかなと思います」

 暁子が則子と話すそばでは、栄介がどこかよそよそしそうな顔でまごまごしていた。ちょうどそこに綾乃も現れて、快活な声で暁子と栄介に声をかけた。

「栄介ちゃんも高校受験で大変よね。でも元日くらいはみんなで受験が成功するように、一緒に初詣に行こうということかしら。だったら私も一緒に行っていいかな? 私だって今年は就職活動があるから、ちゃんとお参りをしておきたいの」

 根がお調子者の綾乃は、こういう話があると真っ先に身を乗り出すのはいつものことだと潮音は思っていたが、このときの綾乃の様子には潮音だけでなく、その場に居合わせた暁子や栄介、優菜までもが苦笑いしていた。そこでみんな一緒に初詣に行くことが決まると、綾乃と潮音はさっそく外出の準備を整えて暁子たちと一緒に自宅を後にした。それを玄関で見送った後で、則子は感慨深そうに雄一に声をかけた。

「あの子たちはちっちゃな頃はずっと私たちと一緒に初詣に行ってたのに、今では友達と一緒に出かける方がいいみたいね。それだけ親離れしたということかしら」

 雄一はその則子の言葉を聞きながらむっつりした表情で、家に届いた年賀状の整理をしていた。


 みんなで神社に向かう間も、暁子が優菜や綾乃と談笑する一方で、栄介は話に乗ろうともせずにずっと気難しそうな表情をしていた。潮音がそれを気にして栄介を会話に誘おうとしても、栄介はそれに積極的に乗ってこようとしなかった。その様子を見て、暁子は潮音にそっと耳打ちした。

「栄介はこの通り、高校受験を前にして気が立ってるからね」

 そこで暁子は、さらに口をすぼめて潮音に小声でそっと話しかけた。

「それに…栄介は潮音にはずっと頼れるお兄ちゃんでいてほしかったって思ってるんじゃないかな。その潮音が女の子になっちゃって、やっぱり栄介はどう接していいかわかんないんじゃないかって思うんだけど」

 そう話すときの暁子は、やはり少し話しにくそうだった。潮音は自分が男の子だった頃は、やはり栄介と一緒によく遊んだだけに栄介の気持ちもわかるような気がしたので、潮音はこれ以上栄介と無理に話そうとするのはよして、栄介をそっとしておいてやることにした。

 神社に着くと、境内の参道の脇には露店が並び、すでに鳥居の手前からずっと初詣の客の列が伸びていた。潮音たちがその列の最後尾に並ぼうとしたとき、ふと潮音を呼び止める声がした。潮音がその声がした方を振り向くと、声の主は昇だった。昇も両親と一緒に、神社に初詣に来ていたのだった。潮音はよりによって、こんなときにこんなところで昇に出会うなんてと思っていた。

 潮音の心中などいざ知らぬかのように、昇は親しげに潮音に声をかけた。

「藤坂さんもみんなで初詣に来てたんだ。明けましておめでとう」

「え、ああ、その…。湯川君こそ明けましておめでとう」

 昇を前にして、潮音は気まずそうにもじもじと生返事をするのみだった。そのような潮音の様子を、暁子や優菜、綾乃はじれったそうな目で眺めていた。そこでようやく潮音は、控えめながら昇にぼそりと話しかけた。

「湯川君はやっぱり難しい大学を目指してるんだ…。今年は受験勉強で大変だよね」

 しかし潮音は、弁護士を目指している昇にとっては、大学受験ですらもっと先にある難関を目指すための通過点にすぎないということを認識していた。そこで潮音は、あらためて浩三のことを思い出していた。潮音は浩三だって水泳で頂点を目指すために血のにじむような練習やトレーニングに日夜明け暮れていることを思うと、自分は何をやっているのかと自問せずにはいられなかった。

 潮音が気づまりそうな様子をしているのには、昇も気になったようだった。そこで昇も、潮音をなだめるように声をかけた。

「ぼくだって大学に行けるかどうかなんてまだわかんないよ。そのためには今年ちゃんと勉強しなきゃ」

「湯川君はやっぱりすごいよ…今から『弁護士になりたい』という目標をしっかり持っていて、そのためにこの冬休みだって一生懸命勉強してるんだから。私だって湯川君の話を聞いているうちに、弁護士の仕事にちょっと興味を持つようになったんだけど、そのためには私なんかどれだけ勉強しなきゃいけないかわかんないから…」

 そこで昇は、潮音に優しげに声をかけてやった。

「今からそんなに思いつめることなんかないよ。藤坂さんに合った進路や大学だって、きっと見つかるはずだから」

 昇に声をかけられると、潮音はますます照れくさそうな顔をしていた。そのような潮音の様子を少し離れたところから見やりながら、優菜はひそひそ声で暁子に話しかけた。

「潮音はあの尚洋の彼氏とけっこうええムードになっとるやん。この前スケートから帰って来たときも、彼氏と仲良さそうに話しとったし」

 暁子も優菜にこっそりと返事をした。

「潮音は男の子だった頃、ああいうタイプの子とつき合ったことなんかなかったからね。いつもクラスの男子たちとつるんでバカばかりやっててさ。潮音は自分が男から女になって、かえって男の子とどうつき合えばいいのかに戸惑っているのかもしれないね」

「でも見とってなんかじれったいな。せっかくの優しくて勉強できる彼氏なんやから、潮音もあまり無理せえへんと時には甘えたらええのに」

 そうしているうちに初詣の参拝客たちの列も流れて、潮音たちは社殿の前まで来ていた。潮音は社殿の前で手を叩くと、あらためて手を合わせて願をかけた。

 潮音たちは社殿の前から離れると、おみくじを引いてその結果を互いに見せ合ったりした。干支のかわいらしい土鈴が破魔矢やお守りと一緒に売られているのを見たときには、キャサリンやかわいいものが好きな光瑠だったら、真っ先にこれを買い求めているのになと潮音は思っていた。

 潮音は神社を後にするとき、昇に軽く挨拶をした。

「湯川君…今年も勉強頑張ってね。私だって湯川君ほどいい大学には行けないかもしれないかもしれないけど、それでも頑張るから」

 その潮音の挨拶に昇は笑顔で手を振って応えると、両親と一緒にその場を後にした。

 昇とその家族を見送った後で、優菜が潮音を少し冷やかすように声をかけた。

「潮音はほんまにこれで良かったん? せっかく隣同士で帰る方向一緒なんやから、せめて家の前まではあの彼氏と一緒に帰れば良かったのに。ほんまに潮音って鈍感やな」

 そこで潮音は思わず語調を強めていた。

「バカ。私と湯川君の関係はそんなんじゃないってば。だいたい一緒に帰るなんて照れくさいじゃん」

 潮音は優菜の言葉を打消そうとしたが、そのときの少し慌てた様子を栄介は冷ややかな目で見ていた。そこで潮音たちも、冬の陽が照らす道を自宅に向けて一緒に歩き出した。栄介は相変らず言葉少なにむっつりしていたが、それを見かねた暁子は栄介をたしなめた。

「栄介もせっかくのお正月なんだから、もうちょっと愛想よくしなさい。そりゃ受験で気が立っているのはわかるけど」

「いや…栄介にも思うところはあるだろうから、そんなに気にすることないよ」

「潮音こそ昔は栄介とも仲が良くて、よく一緒に遊んでいたのに」

 暁子に言われても、栄介は黙りこくったままだった。それを見て潮音は、栄介の心を解きほぐすのは簡単にはいかないだろうと感じて気が重くなっていた。

 やがてみんなが潮音の家の前に着くと、綾乃が声をかけた。

「せっかくだからみんなで、家でお茶でも飲んでいかない?」

 しかし栄介はその綾乃の提案に対しても、「ぼくはいいから」と首を振ってそのまま自宅に戻ってしまった。それを見ながら、綾乃も少し困ったような表情をした。

「栄介ちゃんは受験のことだってあるけど、やっぱり潮音が女の子になったことを今でも受け入れられないのかしら」

「そりゃ栄介の気持ちだってわかるけど…それを言ったってしょうがないんだから、もうちょっと現実を受け入れる勇気があればいいんだけどねえ」

 そう言って暁子はため息をついた。
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