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第六部
第四章・門出の季節(その5)
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それから数日が経って学校が春休みに入り、街の桜のつぼみがだいぶふくらんできた時期になっても、綾乃は就職活動でリクルートス―ツを身にまとい、企業のセミナーや面接に出かける日がしばしばあった。そればかりでなく、潮音の隣の暁子の家でも栄介が高校入学の準備に忙しいだけでなく、暁子自身も塾の春期講習に出かける日があった。紫の双子の妹の萌葱と浅葱は、小学校の卒業式を終えてから中学校に入学するまでのひとときを遊んで過ごしているようだったが。
そんなある日、潮音は意を決して流風が暮す敦義の屋敷へと向かった。潮音は流風は当面はこの自宅から大学に通うと聞かされてはいたものの、大学への入学を機に流風が自分のもとを離れて遠くに行ってしまうように感じていた。潮音は今のうちに、流風に自分の本当の気持ちを伝えておきたいと思わずにはいられなかった。
その日は空も晴れわたってうららかな春の光が降り注ぎ、公園に植えられた桜も五分咲きくらいにまで開花したのどかな日だった。潮音が自宅から一歩外に踏み出すと、頬をなでる風も冬の頃に比べてだいぶ暖かく感じられるようになり、街の風景も心なしか明るさを増したかのように感じられた。
潮音は流風の家に向かう途中で、幼い頃からの流風の記憶をいろいろと思い出していた。古い館に暮す流風は、潮音とはわずか一つしか歳が違わないにもかかわらず、潮音にとってどこかミステリアスな存在に見えた。流風は幼い頃からバレエを習っており、その可憐で軽やかに踊る姿に幼い潮音も引きつけられていた。そして潮音が自らもバレエを習い始めたのも、その流風の姿を追いかけてのことだった。
それだけでなく、流風は潮音が一家で敦義の屋敷を訪れた時には、古びた和室の中で潮音に対してもいろいろな本を読んで聞かせたり、一緒にゲームで遊んだりつたない筆で画用紙に絵を描いたりもしてくれた。小さな頃から本を読むのが好きだった流風は、潮音の知らなかったようなことをいろいろ教えてくれるのが潮音にとって楽しみだった。
流風の母のモニカも、潮音が敦義の屋敷を訪れるたびに温かく潮音を出迎えてくれて、潮音の話を微笑みながら熱心に聞いたり、いろいろな英語の歌を教えてくれたりもした。幼い潮音にとってフィリピン出身のモニカは、どこか不思議な魔法使いのようにも見えたが、そのころの潮音は、流風やモニカが抱えている出自についての葛藤など知る由もなかった。
やがて潮音は、中学生になった頃になって、モニカは祖父の敦義が高齢になってから再婚したフィリピン出身の後妻であり、敦義とモニカとの間に生れた流風は潮音にとって血縁上は「叔母」にあたるということをどこからともなく知らされるようなった。そのときに潮音は、幼い頃から流風に対してそこはかとなく感じていた「影」のようなものの正体に気がついたように思ったが、むしろそれだからこそ自分が流風について守っていかなければと思うようになった。
そのような潮音にとって、自分が高校受験を控えた秋の日に敦義の屋敷で魔力を封じ込めた古い鏡に触れて男性から女性に変ってしまったときも、流風がそのような自分のありのままの姿を受け入れてくれたことで、自分がどれだけ救われただろうと思わずにはいられなかった。もしそこに流風がいなかったら、自分は今でも暗闇の中をもがくしかなかったのではないかと潮音は思っていた。その流風の厚意をムダにしないためにも、潮音は今こそ流風に本当に気持ちをしっかりと伝えなければならないと決意を固めていた。
潮音が敦義の屋敷に着くと、モニカが潮音を温かく出迎えてくれた。
「いらっしゃい。潮音ちゃんが家に来るのは久しぶりやね」
潮音はいつもと変らず陽気で気さくなモニカの様子を見て、ほっとせずにはいられなかった。モニカはさっそく潮音を屋敷の居間に通すと、お茶とお菓子を出してくれた。居間には潮音の祖父の敦義の姿もあった。
「潮音ちゃんも元気そうで良かったわあ。話は聞いとるけど、バレエもずいぶん頑張っとるみたいやね」
それからしばらく潮音は敦義やモニカととりとめもない世間話をした後で、モニカにはっきりと自分の意図を伝えた。
「今日は流風姉ちゃんにはっきり自分の気持ちを伝えて、お礼がしたいと思ってここに来たのです」
潮音のいつになくかしこまった態度には、モニカも少し戸惑っているようだった。
「お礼なんてそんな、気にすることなんかあらへんよ。流風はただ、潮音ちゃんと普通につき合いたいと思っとっただけとちゃうかな。潮音ちゃんが困ったときには、助けたり励ましたりする。そんなん当り前のことやろ?」
しかし潮音はそこで、モニカのねぎらおうとするかのような様子をきっぱりと振り切った。
「違うんです。もしあのとき流風姉ちゃんが私を支えてくれなかったら、私は今だってこうやっておじいちゃんやモニカさんと話すことなんかできなかったと思うから…」
潮音がそう話すときの敦義はただ固く口を閉ざしたままだった。敦義は潮音が女になってしまったことに対して、いまだに責任を感じているようだった。
モニカも潮音が思いのほか強い態度に出たことに対して、いささか困惑したような表情をしていた。そしてモニカは席を立つと、流風を呼びに向かった。
居間に敦義と潮音の二人が残されると、敦義はようやく重い口を開いた。
「流風も大学に行くようになるとはねえ。この前まで流風はまだちっちゃな子どものように思っとったけど、ほんまに時のたつのは速いもんやで」
「私も小さい頃から流風姉ちゃんにはだいぶかわいがってもらいました。だからそれに対して感謝の気持ちを伝えたいと思って、今日ここに来たのです」
「でも流風にはちょっと寂しい思いをさせたかもしれへんな。運動会とかに来るまわりの子の父親はみんな若くて元気な人ばっかりやったけど、流風の場合はこんなおじいさんが来るんやから」
その敦義の言葉を、潮音は口調を強めてきっぱりと否定した。
「それは違うと思います。そりゃほかの子たちの父親と比べたら、おじいちゃんと言ってもいいかもしれないくらいの歳かもしれないけれども、それでも流風姉ちゃんにとってはおじいちゃんこそが世界にたった一人しかいない父親じゃないですか」
しかしそこで、敦義は首を横に振った。
「流風はちっちゃい頃から、自分はほかの子とはちゃうことを薄々感じとったようやな。わしやモニカは、だからこそあの子のことをちゃんと支えてやらなあかんと思っとったんやが、あの子は心の底でずっとどないな風に思っとったんやろか」
潮音はしばらく沈黙していた後で口を開いた。
「だからこそ流風姉ちゃんは私に対してもちっちゃなころからかわいがってくれたし、私が女になってからもそれをちゃんと受け入れてくれたんだと思います」
その潮音の言葉に対して敦義は何も言葉を返そうとしないまま、じっと居間の縁側の向こうに広がる庭の景色を見つめていた。春を迎えた庭にはうららかな陽光が降り注ぎ、春の花たちもつぼみを開こうとしていた。
ちょうどそのとき、流風がモニカに付き添われて姿を現した。潮音がその流風の姿を目の当りにすると、これまで心の中に抑え込まれていた感情が堰を切ってあふれ出すのを感じていた。そのまま潮音は、流風のもとに駆け寄ると、流風に抱きついてそのまま胸元で泣きじゃくっていた。
「流風姉ちゃん…流風姉ちゃん…ありがとう。そしてごめんなさい」
流風は潮音の突拍子もない行動にはじめこそ戸惑っていたものの、すぐに肩を震わせて泣きじゃくる潮音をそっと抱きとめてやった。
「どうしたのよ、潮音ちゃん…」
「私は…ちっちゃな頃からいつもずっと流風姉ちゃんに頼ってばかりで、何も姉ちゃんのことを助けてやれなくて…」
そこで流風は、潮音の顔をそっと上げさせると、両目から流れる涙をぬぐってやった。
「そんなに泣くものじゃないわ。潮音ちゃんはほんとによくがんばったし、今こうやって高校に行くことだってできている、それだけで十分立派よ」
その流風の言葉に、潮音ははっと息をつかされた。一見お嬢様学校として知られる布引女学院に通っていた流風やその後輩の漣だって、その心の底ではどれだけの悩みや葛藤を抱えていたか、いや単に「学校に行く」ことだけが目標だというのならば、学校になじむことができずに通信制高校で勉強している鴫沢みなもはどうなるのか。目標や進路がどうであれ、「頑張る」ことの本質に変りはないはずだと潮音は思っていた。
潮音が少し落ち着きを取り戻したのを見て、流風は潮音にそっと声をかけた。
「私は何も潮音と別れるわけじゃないんだから。…ちょっと来てごらん」
流風はそのまま、潮音に屋敷の中の古びた座敷の中を見せた。潮音はそのとき、この部屋の中で幼い頃から流風や綾乃と一緒におもちゃや人形でよく遊んだときや、モニカから英語の歌を教えてもらったときの思い出が脳裏に蘇ってくるような思いがした。潮音はそのままその場に立ちすくんで、幼い日の思い出を心の中に蘇らせていた。
そこでモニカが、潮音と流風にそっと声をかけた。
「そうやって気分が落ち込んだときには、いつも海を見に行っていたよね。これから潮音ちゃんも一緒に海を見に行かへん?」
モニカの誘いには、流風と潮音も同意した。それからモニカは潮音と流風を車に乗せると、屋敷から少し離れた海岸へと向かった。
車が屋敷を離れた頃になって、モニカがハンドルを握りながら声をかけた。
「流風も大学生活が少し落ち着いたら、車の免許を取ることも考えへんとあかんね」
潮音はモニカの話を聞いて、仮に流風が免許を取っても綾乃みたいに運転が下手じゃなければいいのにと思っていた。
モニカが海辺の駐車場に車を停めると、潮音は潮の香りをかいだだけで気持ちのわだかまりが解きほぐされるのを感じていた。そして潮音は流風と一緒に砂を踏みしめて波打ち際へと歩いていき、そのまま春の海の波間をじっと見つめた。
波が静かに寄せる海面は春の明るいうららかな光を浴びて、波頭がキラキラと輝いていた。潮音はその海面で反射する光のまぶしさに、思わず目を細めていた。そしてその彼方には淡路島の島影やそこに通じる明石海峡大橋も一望でき、明石海峡には時折貨物船が横切っていく姿も見られた。
潮音はこの海の景色を眺めながら、自分はこれまで子どもの頃から何回流風の一家と一緒にこの海辺に来ただろうと思っていた。いつも潮音を出迎えてくれた海の景色は変らないように見えるにも関わらず、その景色を眺める自分は子どもの頃からだけでなく、女になってから後も変っているのだろうかと潮音は思わずにはいられなかった。潮音は高校に入学してから出会ったクラスメイトや先輩、後輩たちの顔を思い出して、彼女たちとの出会いや交流が自分を大きく変えたのかもしれないとあらためて感じていた。
寡黙なまま目をじっと細めて海の彼方を見つめる潮音に、流風はそっと声をかけた。
「潮音ちゃんはこれからも悩むことや迷うこと、気持ちがクサクサするようなことがあったときには、いつでも私のところに来たらいいよ。話を聞いてあげることくらいはできるから」
その流風の言葉に、潮音は大きくうなづいた。
「私…自分がいきなり女になって、どうするかこまっていたとき、流風姉ちゃんがそばにいるだけでどれだけ救われたかわかんないから…」
潮音はそう話しながら、再び目尻に涙をためて声を詰まらせていた。流風がその肩をそっと抱きとめると、潮音は春の風に吹かれながらあらためて海面を見つめ直し、そのまま鼻をすすっていた。
そんなある日、潮音は意を決して流風が暮す敦義の屋敷へと向かった。潮音は流風は当面はこの自宅から大学に通うと聞かされてはいたものの、大学への入学を機に流風が自分のもとを離れて遠くに行ってしまうように感じていた。潮音は今のうちに、流風に自分の本当の気持ちを伝えておきたいと思わずにはいられなかった。
その日は空も晴れわたってうららかな春の光が降り注ぎ、公園に植えられた桜も五分咲きくらいにまで開花したのどかな日だった。潮音が自宅から一歩外に踏み出すと、頬をなでる風も冬の頃に比べてだいぶ暖かく感じられるようになり、街の風景も心なしか明るさを増したかのように感じられた。
潮音は流風の家に向かう途中で、幼い頃からの流風の記憶をいろいろと思い出していた。古い館に暮す流風は、潮音とはわずか一つしか歳が違わないにもかかわらず、潮音にとってどこかミステリアスな存在に見えた。流風は幼い頃からバレエを習っており、その可憐で軽やかに踊る姿に幼い潮音も引きつけられていた。そして潮音が自らもバレエを習い始めたのも、その流風の姿を追いかけてのことだった。
それだけでなく、流風は潮音が一家で敦義の屋敷を訪れた時には、古びた和室の中で潮音に対してもいろいろな本を読んで聞かせたり、一緒にゲームで遊んだりつたない筆で画用紙に絵を描いたりもしてくれた。小さな頃から本を読むのが好きだった流風は、潮音の知らなかったようなことをいろいろ教えてくれるのが潮音にとって楽しみだった。
流風の母のモニカも、潮音が敦義の屋敷を訪れるたびに温かく潮音を出迎えてくれて、潮音の話を微笑みながら熱心に聞いたり、いろいろな英語の歌を教えてくれたりもした。幼い潮音にとってフィリピン出身のモニカは、どこか不思議な魔法使いのようにも見えたが、そのころの潮音は、流風やモニカが抱えている出自についての葛藤など知る由もなかった。
やがて潮音は、中学生になった頃になって、モニカは祖父の敦義が高齢になってから再婚したフィリピン出身の後妻であり、敦義とモニカとの間に生れた流風は潮音にとって血縁上は「叔母」にあたるということをどこからともなく知らされるようなった。そのときに潮音は、幼い頃から流風に対してそこはかとなく感じていた「影」のようなものの正体に気がついたように思ったが、むしろそれだからこそ自分が流風について守っていかなければと思うようになった。
そのような潮音にとって、自分が高校受験を控えた秋の日に敦義の屋敷で魔力を封じ込めた古い鏡に触れて男性から女性に変ってしまったときも、流風がそのような自分のありのままの姿を受け入れてくれたことで、自分がどれだけ救われただろうと思わずにはいられなかった。もしそこに流風がいなかったら、自分は今でも暗闇の中をもがくしかなかったのではないかと潮音は思っていた。その流風の厚意をムダにしないためにも、潮音は今こそ流風に本当に気持ちをしっかりと伝えなければならないと決意を固めていた。
潮音が敦義の屋敷に着くと、モニカが潮音を温かく出迎えてくれた。
「いらっしゃい。潮音ちゃんが家に来るのは久しぶりやね」
潮音はいつもと変らず陽気で気さくなモニカの様子を見て、ほっとせずにはいられなかった。モニカはさっそく潮音を屋敷の居間に通すと、お茶とお菓子を出してくれた。居間には潮音の祖父の敦義の姿もあった。
「潮音ちゃんも元気そうで良かったわあ。話は聞いとるけど、バレエもずいぶん頑張っとるみたいやね」
それからしばらく潮音は敦義やモニカととりとめもない世間話をした後で、モニカにはっきりと自分の意図を伝えた。
「今日は流風姉ちゃんにはっきり自分の気持ちを伝えて、お礼がしたいと思ってここに来たのです」
潮音のいつになくかしこまった態度には、モニカも少し戸惑っているようだった。
「お礼なんてそんな、気にすることなんかあらへんよ。流風はただ、潮音ちゃんと普通につき合いたいと思っとっただけとちゃうかな。潮音ちゃんが困ったときには、助けたり励ましたりする。そんなん当り前のことやろ?」
しかし潮音はそこで、モニカのねぎらおうとするかのような様子をきっぱりと振り切った。
「違うんです。もしあのとき流風姉ちゃんが私を支えてくれなかったら、私は今だってこうやっておじいちゃんやモニカさんと話すことなんかできなかったと思うから…」
潮音がそう話すときの敦義はただ固く口を閉ざしたままだった。敦義は潮音が女になってしまったことに対して、いまだに責任を感じているようだった。
モニカも潮音が思いのほか強い態度に出たことに対して、いささか困惑したような表情をしていた。そしてモニカは席を立つと、流風を呼びに向かった。
居間に敦義と潮音の二人が残されると、敦義はようやく重い口を開いた。
「流風も大学に行くようになるとはねえ。この前まで流風はまだちっちゃな子どものように思っとったけど、ほんまに時のたつのは速いもんやで」
「私も小さい頃から流風姉ちゃんにはだいぶかわいがってもらいました。だからそれに対して感謝の気持ちを伝えたいと思って、今日ここに来たのです」
「でも流風にはちょっと寂しい思いをさせたかもしれへんな。運動会とかに来るまわりの子の父親はみんな若くて元気な人ばっかりやったけど、流風の場合はこんなおじいさんが来るんやから」
その敦義の言葉を、潮音は口調を強めてきっぱりと否定した。
「それは違うと思います。そりゃほかの子たちの父親と比べたら、おじいちゃんと言ってもいいかもしれないくらいの歳かもしれないけれども、それでも流風姉ちゃんにとってはおじいちゃんこそが世界にたった一人しかいない父親じゃないですか」
しかしそこで、敦義は首を横に振った。
「流風はちっちゃい頃から、自分はほかの子とはちゃうことを薄々感じとったようやな。わしやモニカは、だからこそあの子のことをちゃんと支えてやらなあかんと思っとったんやが、あの子は心の底でずっとどないな風に思っとったんやろか」
潮音はしばらく沈黙していた後で口を開いた。
「だからこそ流風姉ちゃんは私に対してもちっちゃなころからかわいがってくれたし、私が女になってからもそれをちゃんと受け入れてくれたんだと思います」
その潮音の言葉に対して敦義は何も言葉を返そうとしないまま、じっと居間の縁側の向こうに広がる庭の景色を見つめていた。春を迎えた庭にはうららかな陽光が降り注ぎ、春の花たちもつぼみを開こうとしていた。
ちょうどそのとき、流風がモニカに付き添われて姿を現した。潮音がその流風の姿を目の当りにすると、これまで心の中に抑え込まれていた感情が堰を切ってあふれ出すのを感じていた。そのまま潮音は、流風のもとに駆け寄ると、流風に抱きついてそのまま胸元で泣きじゃくっていた。
「流風姉ちゃん…流風姉ちゃん…ありがとう。そしてごめんなさい」
流風は潮音の突拍子もない行動にはじめこそ戸惑っていたものの、すぐに肩を震わせて泣きじゃくる潮音をそっと抱きとめてやった。
「どうしたのよ、潮音ちゃん…」
「私は…ちっちゃな頃からいつもずっと流風姉ちゃんに頼ってばかりで、何も姉ちゃんのことを助けてやれなくて…」
そこで流風は、潮音の顔をそっと上げさせると、両目から流れる涙をぬぐってやった。
「そんなに泣くものじゃないわ。潮音ちゃんはほんとによくがんばったし、今こうやって高校に行くことだってできている、それだけで十分立派よ」
その流風の言葉に、潮音ははっと息をつかされた。一見お嬢様学校として知られる布引女学院に通っていた流風やその後輩の漣だって、その心の底ではどれだけの悩みや葛藤を抱えていたか、いや単に「学校に行く」ことだけが目標だというのならば、学校になじむことができずに通信制高校で勉強している鴫沢みなもはどうなるのか。目標や進路がどうであれ、「頑張る」ことの本質に変りはないはずだと潮音は思っていた。
潮音が少し落ち着きを取り戻したのを見て、流風は潮音にそっと声をかけた。
「私は何も潮音と別れるわけじゃないんだから。…ちょっと来てごらん」
流風はそのまま、潮音に屋敷の中の古びた座敷の中を見せた。潮音はそのとき、この部屋の中で幼い頃から流風や綾乃と一緒におもちゃや人形でよく遊んだときや、モニカから英語の歌を教えてもらったときの思い出が脳裏に蘇ってくるような思いがした。潮音はそのままその場に立ちすくんで、幼い日の思い出を心の中に蘇らせていた。
そこでモニカが、潮音と流風にそっと声をかけた。
「そうやって気分が落ち込んだときには、いつも海を見に行っていたよね。これから潮音ちゃんも一緒に海を見に行かへん?」
モニカの誘いには、流風と潮音も同意した。それからモニカは潮音と流風を車に乗せると、屋敷から少し離れた海岸へと向かった。
車が屋敷を離れた頃になって、モニカがハンドルを握りながら声をかけた。
「流風も大学生活が少し落ち着いたら、車の免許を取ることも考えへんとあかんね」
潮音はモニカの話を聞いて、仮に流風が免許を取っても綾乃みたいに運転が下手じゃなければいいのにと思っていた。
モニカが海辺の駐車場に車を停めると、潮音は潮の香りをかいだだけで気持ちのわだかまりが解きほぐされるのを感じていた。そして潮音は流風と一緒に砂を踏みしめて波打ち際へと歩いていき、そのまま春の海の波間をじっと見つめた。
波が静かに寄せる海面は春の明るいうららかな光を浴びて、波頭がキラキラと輝いていた。潮音はその海面で反射する光のまぶしさに、思わず目を細めていた。そしてその彼方には淡路島の島影やそこに通じる明石海峡大橋も一望でき、明石海峡には時折貨物船が横切っていく姿も見られた。
潮音はこの海の景色を眺めながら、自分はこれまで子どもの頃から何回流風の一家と一緒にこの海辺に来ただろうと思っていた。いつも潮音を出迎えてくれた海の景色は変らないように見えるにも関わらず、その景色を眺める自分は子どもの頃からだけでなく、女になってから後も変っているのだろうかと潮音は思わずにはいられなかった。潮音は高校に入学してから出会ったクラスメイトや先輩、後輩たちの顔を思い出して、彼女たちとの出会いや交流が自分を大きく変えたのかもしれないとあらためて感じていた。
寡黙なまま目をじっと細めて海の彼方を見つめる潮音に、流風はそっと声をかけた。
「潮音ちゃんはこれからも悩むことや迷うこと、気持ちがクサクサするようなことがあったときには、いつでも私のところに来たらいいよ。話を聞いてあげることくらいはできるから」
その流風の言葉に、潮音は大きくうなづいた。
「私…自分がいきなり女になって、どうするかこまっていたとき、流風姉ちゃんがそばにいるだけでどれだけ救われたかわかんないから…」
潮音はそう話しながら、再び目尻に涙をためて声を詰まらせていた。流風がその肩をそっと抱きとめると、潮音は春の風に吹かれながらあらためて海面を見つめ直し、そのまま鼻をすすっていた。
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