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覚えてない、でも
しおりを挟む熱い。
苦しい。
ずっと出口のない暗闇を走っているよう。
どこまで行けば。
どれだけ走れば。
苦しい。怖い。寂しい。
◇◇◇
何かが肌に触れている。
柔らかくてふんわりした感触。
くすぐったくて気持ちよくて、わたくしはそっと目を開ける。
ぼんやりした視界。
よく知った天井。
なのに不思議と、ずいぶん懐かしいような気がする景色。
「…………お目覚め……ですか……お嬢……様……」
嗄れた声が鼓膜を震わせる。
「――――!」
わたくしはその声の主に、身を竦ませた。
彼は。
柔らかなハンカチで、わたくしの汗を拭っていたよう。
ハンカチの端に色褪せた花の刺繍がちらりと見えて。
似合わないわね、と思う。
「……ば、ばぁやはどこ」
わたくしの声は震えていたかもしれない。
目の前の男は、ゴトッと杖を付き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
酷くやつれて、髪の色はすっかり抜け落ちてパサパサで。
「――ジーナさんなら……」
「まぁ……! お嬢様……! お目覚めになられたんですねぇ……!!」
ちょうどばぁやが扉を開けて寝室に入って来る。その手には冷たい水を張った桶と、清潔な新しいタオルがあった。
わたくしの看病のために一時的に席を離れていたのね。
ばぁやの元気そうな姿に、わたくしの胸がぎゅっと熱くなる。
目元も。
鼻がツンとして、溢れてくる涙を堪えることができなくて。
「あらあらあらまぁお嬢様! どうなさったんです、フェルダー先生、お嬢様は……」
「――熱は……すっかり……落ち着いたようです……な。……しばらく、高熱の後遺症で……おかしなことを言うかも……しれませんが……特別な薬湯を処方致します……それを、しっかり飲んで頂くよう……」
フェルダーが、途切れ途切れに言う。
ばぁやに涙を拭かれ、抱きしめられながらそれを聞いて……。
薬湯……。
わたくしの中に、染み出すような気持ち。
この男を……信用してはいけない……という予感。
フェルダーの視線は、ばぁやの胸に伏せたわたくしの顔にじっと注がれているような気がする。
「フェルダー先生……お嬢様のお召し替えを致しますので……」
「あぁ……そうです……な……では……私はこれで失礼を。また……何かあれば……いつでも……」
フェルダーの杖の音が床を打つ、ゴトッゴトッという音。
足を引き摺るような音。
それらが遠ざかり、扉がパタンと閉じる。
わたくしはゆっくり息を吐き出した。
「お嬢様……?」
ばぁやの心配そうな声に顔を上げる。
微笑む。
「大丈夫よ、ばぁや。…………なんだか、すごく……嫌な……怖い夢を見ていた気がするの。……でも、やっぱり夢だったんだわ。……ねぇ、ばぁや」
「はい……お嬢様……?」
「フェルダーは……いつから……あんな、みすぼらしい姿になって?」
「お、お嬢様……! 失礼でございますよ、フェルダー先生に。……いつからも何も、フェルダー先生はずっとあぁじゃございませんか」
「……そう、……そう、なのね……」
どうして。
わたくしの記憶の中のフェルダーは。
もっと黒くて、もっと不遜で、もっと……。
「お嬢様、薬湯をお作りしますね。フェルダー先生の言う通り、少し記憶が混乱しているんですよ」
ばぁやはわたくしの着替えを手伝ったあと、薬湯を用意して。
スープを作ってきますねと部屋を出て行った。
わたくしは薬湯を見つめて。
「………………覚えていない、でも……知ってるわ、わたくし。……知ってるわ…………」
ベッドから降りると、わたくしは薬湯を洗面所で流して捨てた。
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